仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第8回_親鸞聖人の阿弥陀仏観

浄土真宗でよくおとなえされる「正信偈念仏偈」(しょうしんねんぶつげ/正信偈)は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)がおつくりになった偈(うた)です。

この【正信偈を学ぶ】シリーズでは、「正信偈」の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいります。今回は、親鸞聖人の阿弥陀仏観について見ていきます。

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◆正信偈の偈文

【本文】
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
(とけんしょぶつじょうどいん こくどにんでんしぜんまく)

【書き下し文】
法蔵菩薩の因位(いんに)の時、世自在王仏の所(みもと)にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天(にんでん)の善悪を覩見(とけん)して、

【意訳】
はるか昔、ある国王が、世自在王仏という仏の説法を聞いて感激し、自らもさとりを求める心をおこし、王の位を捨て出家し、法蔵という名の菩薩となられました。
後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、世自在王仏のもとでの修行中、様々な仏の浄土が建てられた理由を学び、浄土や、浄土におられる人間や神々の善し悪しをご覧になりました。

◆法蔵菩薩の物語

前回までの内容を把握しておいたほうが、今回の内容は理解しやすいので、簡単におさらいします。「正信偈」の前半部分は、依経段(えきょうだん)とも言われ、『仏説無量寿経』というお経に依って、親鸞聖人がつくられた部分になります。

今読んだ意訳は、「正信偈」の直訳と言うよりは、「正信偈」のもとになる『仏説無量寿経』の内容を補足した意訳にしています。意訳の内容を、今一度見てみます。

はるか昔、ある国王がおり、世自在王仏という仏様の説法を聞いて感激し、さとりを求める心を起こします。そして、国王でありながら、国も王の位も捨て、出家して修行者となられます。その方が、法蔵という名前を名乗ったと書いてあります。この法蔵という菩薩が、後の阿弥陀仏という仏様です。

後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、師匠である世自在王仏のもとでご修行をなされ、さまざまな仏様の国である浄土が建てられた理由を学び、その浄土の優劣や、浄土におられる人々や神々の善し悪しをご覧になります。そして、これはご修行の後の話ですが、法蔵菩薩は、すぐれた浄土を建て、全てのものを救うという願いと、その救済法を確立していくことになります。

「正信偈」の依経段という前半部分には、このような『仏説無量寿経』の内容に基づいて、法蔵菩薩の物語が説かれています。こうした法蔵菩薩の物語の内容自体は、それほど難しいものではないかと思います。しかし、この物語をどう受け取っていったらいいのかや、この物語が何を伝えたいのかを理解するのが難しいということがあるということを前回も申しました。

◆親鸞聖人の阿弥陀仏観

そこで、阿弥陀仏について、親鸞聖人はどのように見られていたのか。親鸞聖人の阿弥陀仏観について、見てみたいと思います。できるだけ分かりやすくお話したいと思いますが、ここからのお話は少し理解しづらいかもしれません。ですが、そういう考え方もあるんだなというくらいの気持ちで、まずは聞いていただければと思います。繰り替えしお話していきますので、段々と理解も深まっていくかと思います。

さて、親鸞聖人は、阿弥陀仏がどういう仏様かということを、このような言葉で表現されています。

「法身(ほっしん)はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如(いちにょ)よりかたちをあらはして、方便法身(ほうべんほっしん)と申す御すがたをしめして、法蔵比丘(ほうぞうびく)となのりたまひて」
『唯心鈔文意』

この言葉の意味を解説します。

阿弥陀仏とは本来的には、人間の認識を超えた、いろもなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものである。そのことを、ここでは「法身はいろもなし、かたちもましまさず」という言葉で示されています。

そういった、いろもなく、かたちもないものですから、心にも思うことができず、言葉でも表すことができません。それをここでは、「こころもおよばれず、ことばもたえたり」と言われています。

阿弥陀仏とは、本来的には、いろもなく、かたちもない、真理そのもの、さとりそのものである。そのことを、一如という言葉でも表現されています。一如とは、真理そのもの、さとりそのものを表す言葉です。そして、一如とは法性法身(ほっしょうほっしん)とも言います。この法性法身という言葉については、後ほど説明をします。

一如であり、法性法身という、本来的には、いろもなく、すがたかたちをとらない、真理そのもの、さとりそのものであるものが、すがたかたちを現わしてくださった。そのことを、「この一如よりかたちをあらはして」と、ここでは示されています。

悩み苦しむ全てのものを救うために、名を示し、具体的なすがたかたちを現わしてくださった。その現わしてくださった仏様としてのすがたかたちのことを、方便法身(ほうべんほっしん)と申します。「方便法身と申す御すがたをしめして」とあるところですね。

その名を示し、現わしてくださった具体的なすがたかたちが、「法蔵比丘(ほうぞうびく)」ということになります。法蔵比丘というのは、法蔵菩薩のことで、後の阿弥陀仏のことです。

◆法性法身と方便法身

今の部分は、中々すぐに理解しずらい内容かと思いますので、言葉を補足しながら、もう一度見ていきます。

先程、法性法身と方便法身という言葉が出てきました。法性法身と方便法身のことを、二種法身(にしゅほっしん)と言います。

その二種法身の一つである法性法身とは、真理そのもの、さとりそのものの仏身のことです。仏身とは、仏のすがた、あり方のことです。法性法身とは、人間の認識を超え、いろもなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものである。ですから、心にも思うことができず、言葉でも表すことができません。阿弥陀仏とは、本来的には、そのような真理そのもの、さとりそのものの仏様である。これを、法性法身とも、また一如とも言います。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の存在を、本来的には、いろもなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものであると、受け取っておられます。

そして、二種法身のもう一つ、方便法身とは、あらゆるものを救うために、具体的なすがたかたちを現わしてくださった仏身のことを言います。その方便法身としての具体的なすがたかたちが、阿弥陀仏という仏様であり、阿弥陀仏が仏様になる前の法蔵菩薩です。

ですから、親鸞聖人は、阿弥陀仏の存在を、本来的には、いろもなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものであると、受け取っておられ、そこから、方便法身としての具体的なすがたかたちを現わしてくださった。それが、阿弥陀仏や、阿弥陀仏が仏様になる前の法蔵菩薩であるとみてらっしゃいます。

法性法身と方便法身という、二種法身について見たところで、先ほどの親鸞聖人の言葉を、今一度見てみましょう。すると先程よりも、この言葉の意味が分かってくるかと思います。

「法身(ほっしん)はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如(いちにょ)よりかたちをあらはして、方便法身(ほうべんほっしん)と申す御すがたをしめして、法蔵比丘(ほうぞうびく)となのりたまひて」
『唯心鈔文意』

阿弥陀仏とは本来的には、人間の認識を超えた、いろもなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものである。そのことを、ここでは「法身はいろもなし、かたちもましまさず」という言葉で示されています。

そうした、いろもなく、かたちもないものですから、心にも思うことができず、言葉でも表すことができません。それをここでは、「こころもおよばれず、ことばもたえたり」と示されています。

阿弥陀仏とは、本来的には、そのような真理そのもの、さとりそのものの仏様である。それを、一如とも、法性法身とも言います。

一如であり、法性法身という、本来的にはすがたかたちをとらない、真理そのもの、さとりそのものであるものが、すがたかたちを現わしてくださった。そのことを、ここでは「この一如よりかたちをあらはして」と示されています。

そして、悩み苦しむ全てのものを救うために、名を示し、具体的なすがたかたちを現わしてくださった。それが、ここでは「方便法身と申す御すがたをしめして」とあるところです。方便法身とは、あらゆるものを救うために、具体的なすがたかたちを現わしてくださった仏身のことを言うということでした。

そして、名を示し、すがたかたちを現わしてくださった具体的なすがたかたちが、法蔵比丘、法蔵菩薩であり、阿弥陀仏ということになります。親鸞聖人は、阿弥陀仏のことを、このように見てらっしゃったんですね。

◆不思議なご縁を喜ぶ

親鸞聖人の阿弥陀仏観について、できるだけ分かりやすくお話をさせていただいたつもりではあります。ですが、そもそもが人間の認識を超えた、いろもなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものです。中々手触り感をもって、理解したり、実感することは難しいですね。生涯仏道に生きた親鸞聖人や、その師である法然聖人でさえ、阿弥陀仏のお心ははかり知れないとおっしゃっています。

しかしだからこそ、我々に何とか受け取ってほしいという慈悲の心から現れてくださった。その結果が阿弥陀仏であり、法蔵菩薩の物語であった。何とか我々に分かるようにと、経典には、法蔵菩薩という物語でもって説かれている。人格をもった存在として、阿弥陀仏の存在が説かれている。先人たちは、阿弥陀仏の存在や、法蔵菩薩の物語をそのように解釈もしてきました。

今回の内容は、かなり難しい内容でしたが、シンプルに考えるならば、我々を救おうとされている阿弥陀仏という仏様がおられるということ。そして、その阿弥陀仏の救いについて、親鸞聖人が喜びの心から筆をとり、後世に伝えようとなさったのが「正信偈」であるということ。

そしてその後、親鸞聖人を慕う方々が、浄土真宗という宗派をつくり、850年もの歳月を通して、今なお多くの方が、阿弥陀仏の救いの教えを喜んでいます。そうして長い年月をかけ伝わってきた浄土真宗のみ教えに、今また自分自身もこうしてご縁に遇っている。それは、とても不思議で、考えてみるとすごいご縁だと思います。その不思議なご縁を喜びながら、ご一緒に正信偈を学ばせていただきたいと思います。

親鸞聖人の阿弥陀仏観について、今回のお話はこのへんに致します。次回は、「正信偈」の次の文章に移ってまいりたいと思います。

(動画には、オンラインお寺参りのご参加者との質疑応答もあります)

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最後までご覧いただきありがとうございます。合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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