【仏教解説】第11回_諸法無我②

【仏教解説】のコーナーでは、仏教に関するテーマを一つ取り上げて、できるだけ分かりやすくご紹介しています。仏教やお寺を身近に感じていただいたり、日々を安らかに、穏やかに過ごすようなご縁となれば幸いです。

今回は、前回に引き続き、諸法無我という言葉について、皆様と一緒に味わってみたいと思います。

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◆諸法無我とは

さて前回は、諸法無我という言葉について、お話させていただきました。

諸法無我とは、仏教の辞書によると、このような意味の言葉だそうです。

「全てのものは因縁によって生じたものであり、永遠不変の実体ではないこと」とあります。

前回は、この諸法無我の前編ということで、我々も色々な因縁によってこの世にいのちをいただいていること、そして、おかげさまで今があることなどをお話致しました。

今回は、諸法無我の後編で、全てのものは永遠不変の実体ではないという言葉について味わってみたいと思います。

 

◆動的平衡

さて、生物学者の福岡伸一先生が、「動的平衡」という考え方を研究されています。

この「動的平衡」の考え方が、諸法無我を理解する上でとても参考になりますので、ご紹介したいと思います。

福岡伸一先生は、ドイツのシェーンハイマーという方の研究を著書でご紹介されています。

その研究の要点を簡単に申し上げると、我々は食べ物を食べると、それが体内の至る所に取り込まれて、自分の身体の一部となり、そして同時にこれまで自分の身体の一部であったものが抜け出ていくというものです。

我々は、こういうふうに考えてはいないでしょうか。

食べ物を食べると、その食べ物は燃料として補給され、体内で燃やされて、全て体内から抜け出る。そのように考えがちかもしれません。

しかし、シェーンハイマーの研究から分かったのはそうではなく、食べ物が我々の身体の一部になり、そして、これまで自分の身体の一部であったものが抜け出ていくということでした。

つまり、我々の身体は、取り入れたものに置き換わっているんですね。

我々の存在とは、変わらない固定的なものから構成されているのではなく、色々なものが入れ替わり、つながりながら、動的な流れやゆらぎとして、自分という存在が成立しているということになります。

しかも、牛肉を食べたからといって、我々は牛になるわけではなく、人間のまま存在しています。

動的平衡とは、それを構成する要素は、絶え間なく入れ替わっているにも関わらず、全体として一定のバランスが保たれている状態のことを言うそうです。

食べ物を食べると、それが自分の身体の一部となり、これまで自分の身体の一部であったものが抜け出ていくように、構成要素がどんどん入れ替わっているにも関わらず、全体としてバランスが保たれている。

こう考えると生命とは、とても不思議ですし、興味深いなと思います。

こうした動的な流れやゆらぎが失われると、我々は生きていけません。肉体的な死を迎えるということになります。

食べ物を摂取したり、排せつできないと、我々は生きていけません。

また血液の循環や、内臓機能の停止が起きても、我々は死んでしまいますね。

我々の生命や存在とは、色々なものが入れ替わり、つながりながら、動的な流れやゆらぎとして、成立していることになります。

そして、それは他の生き物でもそうですし、地球の環境や自然もそうだと言います。

生命とは何か、私という存在とは何かと考えてみると、結構面白いですね。

 

◆自己に執着すべきでない

ここで諸法無我の話に戻りますが、諸法無我とは、我々も含めた全てのものは永遠不変の実体ではないという言葉でした。

我々が永遠不変の実体ではないとは、ずっと変わらない固定的なものがあり、それが自分であるということではないということです。

動的平衡の話で言えば、色々なものが入れ替わり、つながりながら、動的な流れやゆらぎとして、自分という存在が成立しています。

仏教的に言えば、我々は様々な構成要素や、因縁によって仮に成立している存在であるということです。

ですから、私とか私のものといって執着すべきではないというのが、諸法無我の根底に流れている考え方かと思います。

そしてさらに、諸法無我を展開していくと、自分という存在を深く味わえるようにも思えます。

 

◆大きな生命の中に生かされている

生命とは、太古の昔から絶え間なく入れ替わり、消滅変化をして引き継がれてきた営みの一点であり、かつ全体です。

様々な要素や因縁といった、網の目のようにつながった生命のつながりの中で、私という存在があります。

そこからは必然的に、「おかげさまで今がある」という事実に気付かされるということがあるかと思います。

先祖があるから、今の自分がいるということも言えるでしょうし、我々もまた祖先となっていきます。

直系の子や孫がいなくとも、広く人類や生命にとっての祖先に我々もなっていくわけですね。

ある方が、自分が死ぬということを考えれば考えるほど、よく分からなくなるとおっしゃっていました。

自分が肉体的には死んでも、その一部は空気中を漂い、ひょっとしたらそこらへんの田畑の一部になっているかもしれません。

また、DNAや価値観、思い出などは、残された人たちにも引き継がれていきます。

過去からつながれてきて今がある。今現在も多くのつながりの中にある。そして、未来につながっていく。

諸法無我という言葉からは、そうした大きな生命の中に、我々は生かされているということを味わうことができるかと思います。

ただし、死の事実が眼前に訪れた時に、果たしてそう思えるかどうかは、私自身、正直分かりません。

死にたくないとか、このままでは死ねないという思いも、状況によっては出てくることと思います。

だからこそ、阿弥陀仏の浄土といった死後の世界観が、必要とされてきたという側面もあるかと思います。

 

いかがだったでしょうか。

今回は諸法無我、「全てのものは因縁によって生じたものであり、永遠不変の実体ではないこと」という言葉について、お話させていただきました。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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◇参照文献:
・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
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・『望月仏教大辞典』/世界聖典刊行協会
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・『岩波仏教辞典』第二版/中村元他
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・『ブッダの真理のことば 感興のことば』/中村元 訳
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