【正信偈を学ぶ】第50回_教えによって導かれる

「正信偈を学ぶ」シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が記された「正信念仏偈」について、皆様とその内容を味わっています。

日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

数回にわたり、「摂取心光常照護」(せっしゅしんこうじょうしょうご)から「雲霧之下明無闇」(うんむしげみょうむあん)までの六つ句の意味についてみています。

「貪愛瞋憎」(とんないしんぞう)という部分までは、前回までにお話しました。

今回は、改めて六つの句の意味を通してみていき、残りの句についても補足をして、まとめていこうと思います。

テーマは、「教えによって導かれる」です。

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◆「正信偈」の偈文

ではまず、今回見ていく「正信偈」の本文、書き下し文、意訳を見ていきましょう。宜しい方は、ご一緒ください。まずは、本文からです。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
(せっしゅしんこうじょうしょうご いのうすいはむみょうあん)
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
(とんないしんぞうしうんむ じょうふしんじつしんじんてん)
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
(ひにょにっこうふうんむ うんむしげみょうむあん)

次に、書き下し文です。

摂取の心光(しんこう)、つねに照護(しょうご)したまふ。すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといへども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇(やみ)なきがごとし。

次に、意訳です。

阿弥陀仏の光は、阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ人を摂め取って捨てず、常に照らし護ってくださいます。すでに疑いの闇ははれて、阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただいていても、貪りとらわれの心や、怒り憎しみの心といった煩悩の雲や霧が、いつもその真実の信心の空を覆っています。しかし、たとえ空が雲や霧に覆われていても、太陽が出ていればその下は明るく、闇ではないのと同じようなものです。

◆摂取心光常照護 已能雖破無明闇

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それでは、「摂取心光常照護」(せっしゅしんこうじょうしょうご)から「雲霧之下明無闇」(うんむしげみょうむあん)までの六つ句の意味を通してみていきます。

そして、残りの句についても補足をし、まとめていきます。

これまでお話してきたことの繰り返しになるところもありますが、六つの句の意味を通してみていくと、理解が深まりますので、改めてみていきたいと思います。

さて、「摂取心光常照護」という句には、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」という信心の利益が示されていました。

それは、お念仏の教えを聞き喜ぶ人は、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の光に、常に照らされ、護られるということでした。

では、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」とは、どういうことでしょうか。

それが、その後に示されている「無明の闇が破られる」ということでした。

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「無明の闇が破られる」とは、「阿弥陀仏の救いやお念仏の教えに対して、疑いなく信じること」を言います。

それは、「お念仏の教えを聞いてありがたいと思ったり、そうだと深く頷く心が育まれること」でした。

お念仏の教え、仏様の願いとはどういうものかを聞かせていただき、それを受け止め、頷いていく心をいただいていく。

そういう心を信心と言いますが、お念仏の教えを聞く中で、そうした心をいただき、育まれていくということがあります。

そして、「お念仏の教えを聞くことを通して、自らの生き方やあり方が、お念仏の教えや仏様の願いに背いたものとなっていないかと、自らの言動を顧みる心が育まれる」ということがあります。

こうした状態を、「無明の闇が破られる」と言っていました。

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私たちが日々を生きていく上で、依りどころとなり、規範となるもの。それが教えです。

そうした教えを聞き、自らの生きる依りどころや規範とさせていただく

そのことを、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」とも表現され、またその光によって、「無明の闇が破られる」とも表現されています。

人生の中で、私たちは何が正しいのか、何が間違っているのか、分からなかったり、迷うことがあります。

また、その時は正しいと思ったことでも、時間の経過とともに正しくなかったことが分かることもあります。

それは、私たちは全てを見通すような智慧をもっていないからであり、また、様々なものを自分の都合を基準にして見てしまう性質をもっているからです。

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そうした、全てを見通すような智慧をもっていない状態や、様々なものを自分の都合を基準にして見てしまう状態を、「無明」と言いました。

「無明」とは、「明るくない」と書かれているように、「真理に暗い」「物事の道理が分っていない」という意味の言葉でした。

全てを見通すような智慧をもっていない状態や、様々なものを自分の都合を基準にして見てしまう状態のことを暗闇にたとえ、「無明」と言います。

阿弥陀仏の光とは、そうした無明の闇を照らし、自分の都合を基準にして見て考え、行動してしまう私たちの性質や状態に気付かせるはたらきがあります。

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そして、阿弥陀仏の光とは、具体的に言えば、お念仏の教えのことです。

繰り返しになりますが、「お念仏の教えを聞くことを通して、自らの生き方やあり方が、お念仏の教えや仏様の願いに背いたものとなっていないかと、自らの言動を顧みる心が育まれる」ということがあります。

そして、自分都合の主張をしっぱなしで終わるのではなく、自らの言動を顧みたり、相手の立場でも考えてみようとする見方が育まれてきます。

こうしたことを、「摂取心光常照護」「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」という言葉で表現されています。

また、そのことを別の言葉で、「已能雖破無明闇」(いのうすいはむみょうあん)「すでによく無明の闇が破られている」という言葉でも表現されています。

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しかし、お念仏の教え、仏様の願いを聞かせていただきながらも、私たちは教えや願いにかなった生き方ができていないこともあるのではないでしょうか。

日々を生きていく上で依りどころとなり、規範となるものをいただきながらも、お念仏の教え、仏様の願いに背いた生き方、あり方となってしまう。

そのことが、「已能雖破無明闇」という句の中の、「雖も」(いえども)という言葉で表現されていました。

「雖も」という言葉は、「だけれども」とか、「だとしても」という意味の言葉でした。

阿弥陀仏の光に照らされて、無明の闇が破られた。「だけれども」という意味が、「雖も」という言葉で表現されています。

◆貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

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では、お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方とは、具体的にどういうことを言ったでしょうか。

「無明」という言葉自体に、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」という意味がありました。

そして、「正信偈」の続きには、「貪愛」(とんない)と「瞋憎」(しんぞう)という言葉が出てきます。

前回お話しましたので、今回詳しくはお話しませんが、この「貪愛」「瞋憎」「無明」といった生き方やあり方が、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」の具体的な姿と言えるでしょう。

「貪愛」「瞋憎」「無明」と、それぞれ言葉や意味に違いはありますが、これらは自分の都合を基準にしているところに共通点があります。

自分の都合を基準にして、自分に都合が良ければ心地良い気持ちになり、さらにそれを求め、自分に都合が悪ければ怒りや憎しみの心を起こす。

このような生き方やあり方が、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」であると、ここに示されているように思います。

さて、ここまでの「摂取心光常照護」から「貪愛瞋憎」という部分までを、前回までにみてきました。

そしてここからが、まだ詳細には解説していない残りの句となります。

ここから、残りの句について補足をし、まとめていきます。

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では、「貪愛瞋憎之雲霧」(とんないしんぞうしうんむ)という句をご覧ください。

書き下し文では、「貪愛・瞋憎の雲霧」となります。

「貪愛瞋憎之雲霧」の「之」とは、「〇〇の」という意味の言葉です。

「雲霧」とは、「雲や霧」のことです。

ですので、「貪愛瞋憎之雲霧」の句を直訳すると、「貪愛・瞋憎の雲や霧」という意味になります。

「貪愛」「瞋憎」という心を、雲や霧のようなものであると、ここではたとえられています。

前回お話しましたが、「貪愛」「瞋憎」とは、「煩悩」の代表である「貪欲」「瞋恚」とほとんど同じ意味の言葉です。

ですので、「貪愛瞋憎の雲霧」とは、「煩悩の雲や霧」と言っても良いです。

自分の都合を基準にして、自分に都合が良ければ心地良い気持ちになり、さらにそれを求め、自分に都合が悪ければ怒りや憎しみの心を起こす。

そうした私たちの「自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断する」性質を、煩悩の雲や霧とたとえられています

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次に、「常覆真実信心天」(じょうふしんじつしんじんてん)という言葉が続きます。

書き下し文では、「つねに真実信心の天に覆へり」となります。

「常覆真実信心天」の「常」とは、「つねに」「いつも」という意味です。

「覆」は、「覆う」という意味です。

そして、「真実信心」とは、「真実の信心」のことです。

「天」とは、「空」のことです。

「貪愛」「瞋憎」といった煩悩の雲や霧が、いつも真実信心の空を覆っているというのですね。

「真実信心天」の「真実」という言葉ですが、親鸞聖人は、阿弥陀仏のはたらきのことを「真実」という言葉で表現することがあります。

「真実信心天」という言葉を、阿弥陀仏のはたらきという広い意味でとらえると、ここでは阿弥陀仏の光のことを表しているように思われます。

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今みている六つの句の最初に、「摂取心光」という言葉がありましたね。

これは、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の光のことでした。

その「摂取心光」と、今みている「真実信心天」とは、同じことを別の言葉で表現しているように思われるのですね。

「真実信心天」の「天」とは、「空」のことでした。

ここで空という言葉を用いられているのは、阿弥陀仏の光を、空に煌々と輝く太陽の光にたとえて表現しようとしているからでしょう。

こうしたことからも、「真実信心天」という言葉で、阿弥陀仏の光のことを表そうとしているように思われます。

今一度、この部分の書き下し文をみると、「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり」となっています。

雲や霧が空の太陽を覆ってしまうように、私たちの貪愛や瞋憎といった煩悩もまた、阿弥陀仏の光を覆ってしまっているというのですね。

親鸞聖人のつくられた和讃といううたの一節に、「正信偈」のこの部分とほとんど同じ意味の言葉があります。

煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども

(「高僧和讃」/親鸞聖人)

この言葉を意訳すると、このような意味になります。

私たちは、煩悩によって眼が覆われて、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の光を見ることができないけれども。

この言葉は、「正信偈」の「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり」という言葉と、ほとんど同じ意味の言葉であることがお分かりいただけるかと思います。

ここからも、「真実信心の天」とは、阿弥陀仏の光を表していると言って良いでしょう。

◆譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

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さて、次に「正信偈」では、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(ひにょにっこうふうんむ うんむしげみょうむあん)という言葉が続きます。

この句を書き下すと、「たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」となります。

「譬如日光覆雲霧」の「譬」とは、「たとえば」という意味です。

「如」とは、「ごとし」ということで「〇〇のようである」という意味です。

「日光」とは、太陽の光のことです。

これは、「摂取の心光」と同じで、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の光を表しています。

「覆雲霧」とは、先ほどと同じで、雲や霧に覆われているということです。

「雲霧之下明無闇」の「雲霧」も、雲や霧のことですね。

「之下」は、「〇〇の下」という意味です。

「雲霧之下」で「雲や霧の下」となります。

「明無闇」の「明」とは、明るいという意味です。

「無闇」は、「闇ではない」という意味です。

そして、「譬如日光」の「如」という言葉が最後にかかって、闇ではないようであるという意味になります。

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意訳をすると、「たとえ空が雲や霧に覆われていても、太陽が出ていればその下は明るく、闇ではないのと同じようなものである」という意味になります。

◆教えに導かれる

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「正信偈」の「摂取心光常照護」から「雲霧之下明無闇」の六つの句の中には、阿弥陀仏の光を表す言葉が多用されています。

「摂取心光」「真実信心天」「日光」という言葉がそれですね。

光という抽象的な言葉で表現されていますが、阿弥陀仏の光とは、具体的に言えばお念仏の教えのことです。

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阿弥陀仏の光に照らされるとは、具体的には、お念仏の教えに出遇い、お念仏の教えを聞き、お念仏の教えによって導かれることです。

「お念仏の教えを聞くことを通して、自らの生き方やあり方が、お念仏の教えや仏様の願いに背いたものとなっていないかと、自らの言動を顧みる心が育まれる」ということがあります。

そして、自分都合の主張をしっぱなしで終わるのではなく、自らの言動を顧みたり、相手の立場でも考えてみようとする見方が育まれてきます。

そうしたことが、「摂取心光常照護 已能雖破無明闇」「お念仏の教えを聞き喜ぶ人は、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の光に、常に照らされ、護られる。そして、無明の闇が破られる」という言葉から思われます。

しかし、完全に相手の立場に立ち切れるかというと、そうではありません。

私たちは、いつも自分の都合を基準にして物事を見て考え、自分に都合が良ければ心地良い気持ちになり、さらにそれを求め、自分に都合が悪ければ怒りや憎しみの心を起こします。

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お念仏の教えに出遇い、仏様の願いを聞かせていただきながらも、中々、教えや願いにかなった生き方ができていない

日々を生きていく上で依りどころとなり、規範となるものをいただきながらも、お念仏の教え、仏様の願いに背いた生き方、あり方となってしまう

そうしたことが、「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」「貪愛・瞋憎といった煩悩の雲や霧が、いつも真実信心の空を覆っている」という言葉でおさえられています。

しかし、空が雲や霧に覆われていても、太陽が出ていれば真っ暗闇ではありません。

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お念仏の教えに出遇い、それを聞き喜ぶ心をいただいたならば、たとえ煩悩をもちながらでも、以前とは生き方やあり方が変わってくるのですね。

繰り返しになりますが、私たちは「自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断する」性質をもっています。

しかし、お念仏の教えに出遇い、聞いていく中で、そうした自分の都合を基準にしていることの不確かさに気付かされます

自らの考えや判断が、絶対ではないことを知らされます

そして、相手への理解や寛容さや、感謝や謙虚な姿勢などが育まれていきます

お念仏の教えに出遇い、それを聞き喜ぶものは、お念仏の教えによって、自らの生き方やあり方が転じられていき、導かれていく

そうしたことが、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」「たとえ空が雲や霧に覆われていても、太陽が出ていればその下は明るく、闇ではないのと同じようなものである」という言葉で表現されているように思います。

先ほど紹介した親鸞聖人の和讃の続きには、このような言葉が記されています。

大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

阿弥陀仏は大きな慈悲の心で、見捨てることなく、いつも私たちのことを照らしてくださっているのです。

(「高僧和讃」/親鸞聖人)

お念仏の教えに出遇い、それを聞き喜ぶものは、お念仏の教えによって、自らの生き方やあり方が転じられていき、導かれていく

そうしたことが、「摂取心光常照護」「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」という信心の利益として、ここに示されているように思います。

いかがだったでしょうか。

数回にわたり、「摂取心光常照護」から「雲霧之下明無闇」の六つの句の意味を味わっていきました。

皆様、どのようなことを感じられたでしょうか。

次回は、続きの句にうつっていこうと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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◇参照文献:
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・『浄土真宗聖典』七祖篇 注釈版/浄土真宗本願寺派
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・『勤行意訳本』/神崎修生
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