「正信偈を学ぶ」シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が記された「正信念仏偈」について、皆様とその内容を味わっています。
前回より、「摂取心光常照護」から「雲霧之下明無闇」までの六つ句についてみております。
この六つの句は、それより四つ前にある「能発一念喜愛心」(のうほついちねんきあいしん)という言葉を受けています。
「能発一念喜愛心」とは、「阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただくと」という意味の言葉でした。
この「阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心」とは、浄土真宗における「信心」のことです。
そして、この「能発一念喜愛心」という句以降に、「では、信心をいただくとどうなるのか」ということが示されています。
つまり、「能発一念喜愛心」という句以降には、「信心の利益」が示されているのですね。
「信心の利益」というと難しく聞こえますが、「信心をいただくとどうなるのか」「お念仏の教えを聞いていくとどうなるのか」ということが記されているということです。
そして、前回からみている「摂取心光常照護」から「雲霧之下明無闇」までの六つ句にも、「信心の利益」が示されています。
それがどういう利益かというと、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」という利益でした。
つまり、お念仏の教えを聞き喜んでいくと、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」という利益があるということですね。
それが特に、「摂取心光常照護」という言葉に示されています。
阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ人は、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の光に、常に照らされ、護られるということですね。
では、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」とは、どういうことでしょうか。
それが、その後に示されている「無明の闇が破られる」ということでもあります。
今回は、「已能雖破無明闇」という言葉の意味をみていき、「無明の闇が破られる」ということについて、ご一緒に味わっていきたいと思います。
▼この内容は動画でもご覧いただけます。
◆「正信偈」の偈文
ではまず、今回見ていく「正信偈」の本文、書き下し文、意訳を見ていきましょう。宜しい方は、ご一緒ください。まずは、本文からです。
次に、書き下し文です。
次に、意訳です。
◆無明の闇とは
では、「已能雖破無明闇」(いのうすいはむみょうあん)という一文をご覧ください。
ここに、「無明闇」「無明の闇」という言葉がありますね。
「無明」とは、「明るくない」と書かれています。
これは、「真理に暗い」「物事の道理が分っていない」という意味の言葉です。
そういう状態を闇にたとえ、「無明闇」「無明の闇」と記されています。
私たちの心身を悩み煩わせるものを、仏教では「煩悩」と言います。
その「煩悩」の中でも根本的で、「根源的な迷い」とされるのが「無明」です。
そのため「無明」は、「三毒の煩悩」という煩悩の代表的なもののうちの一つとされています。
ここまでの説明は、「無明」という言葉についての仏教全般的な解釈です。
浄土真宗においては、「無明」という言葉について、浄土真宗ならでは意味合いがあります。
では、浄土真宗において、「無明」という言葉にはどのような意味があるのでしょうか。
浄土真宗において「無明」とは、「阿弥陀仏の救いを信じられない状態」「お念仏の教えに対して疑いを持ってしまう状態」を言います。
これらをもう少し分かりやすい言葉で言い換えると、「お念仏の教え、仏様の願いに背いた生き方やあり方をしている状態」と言えます。
浄土真宗で大切にされているお経の中には、教えが記されています。
その教えを、浄土真宗の教えとか、お念仏の教えと言います。
そこには、「あなたがこの教えに遇ったならば、このように生きてほしい」という願いが記されています。
それが、阿弥陀仏という仏様の願いとして記されています。
そういうお念仏の教え、仏様の願いが、お経には記されているのですね。
そして、そうした「お念仏の教え、仏様の願いに背いた生き方やあり方をしている状態」を、浄土真宗においては「無明」と言います。
◆無明の闇が破られる
「已能雖破無明闇」という言葉の書き下し文をみてみましょう。
「すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといへども」とあります。
ここには、「すでによく無明の闇が破られている」と記されています。
今みてきたように、浄土真宗において「無明」という言葉がどういう意味だったかというと、「阿弥陀仏の救いを信じられない状態」「お念仏の教えに対して疑いを持ってしまう状態」を言いました。
ですので、「無明の闇が破られている」とはどういう状態かというと、「阿弥陀仏の救いやお念仏の教えに対して、疑いなく信じている状態」ということになります。
そのため、この部分の意訳では、「すでに疑いの闇ははれて、阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただいていても」と訳しました。
「無明の闇が破られた状態」や「阿弥陀仏の救いやお念仏の教えに対して、疑いなく信じている状態」とはどういう状態かということを、もう少し私たちに分かりやすい言葉で言うとどうなるでしょうか。
それは、「お念仏の教えを聞いてありがたいと思ったり、そうだと深く頷く心が育まれること」と言えば、分かりやすいでしょうか。
お念仏の教え、仏様の願いとはどういうものかを聞かせていただき、それを受け止め、頷いていく心をいただいていく。
そういう心を信心と言いますが、お念仏の教えを聞く中で、そうした心をいただき、育まれていくということがあります。
そして、「お念仏の教えを聞くことを通して、自らの生き方やあり方が、お念仏の教えや仏様の願いに背いたものとなっていないかと、自らの言動を顧みる心が育まれる」ということがあります。
こうした状態を、「無明の闇が破られた状態」と言っているのでしょうね。
私たちが日々を生きていく上で、依りどころとなり、規範となるもの。それが教えです。
そうした教えをいただいて、自らの生きる依りどころや規範とさせていただく。
そのことを、「阿弥陀仏の光に常に照らされ護られる」とも表現され、またその光によって、「無明の闇が破られる」とも表現されています。
◆仏様の願いに背いてしまう我々
さて、「お念仏の教え、仏様の願いに背いた生き方やあり方をしている状態」を、浄土真宗においては「無明」と言いました。
そうした「無明の闇」が、「お念仏の教え、仏様の願いを聞いていく中で破られていく」ということが、「已能雖破無明闇」という言葉には示されています。
しかし、お念仏の教え、仏様の願いを聞かせていただきながらも、私たちは教えや願いにかなった生き方ができているでしょうか。
中々そうできていないということがあるのではないでしょうか。
そのことが、「雖も」(いえども)という言葉で、ここに表現されているように思います。
今一度書き下し文をみると、「すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといへども」となっています。
書き下し文の最後に、「雖も」(いえども)という言葉がありますね。
この言葉は、「だけれども」とか、「だとしても」という意味の言葉です。
ですので、「已能雖破無明闇」は、「すでによく無明の闇が破られたけれども」という意味になります。
つまり、お念仏の教えに出遇い、仏様の願いを聞かせていただきながらも、中々、教えや願いにかなった生き方ができていない。
日々を生きていく上で依りどころとなり、規範となるものをいただきながらも、お念仏の教え、仏様の願いに背いた生き方、あり方となってしまう。
そうした意味合いが、「雖も」という言葉に含まれているように思われます。
では、お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方とは、具体的にどういうことを言うのでしょうか。
「無明」という言葉自体に、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」という意味がありました。
そして、「正信偈」の続きには、「貪愛」(とんない)と「瞋憎」(しんぞう)という言葉が出てきます。
「貪愛」とは貪りや執着のことで、「瞋憎」とは怒りや憎しみのことです。
この「貪愛」「瞋憎」も、お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方です。
そのあたりについて、次回もう少し詳しくみていきましょう。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼【正信偈を学ぶ】シリーズ
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南無阿弥陀仏