浄土真宗【正信偈を学ぶ】第25回_難思光_思いはかることができない光

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信偈」を、なるべく分かりやすく読み進めています。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。

「正信偈を学ぶ」シリーズ、第25回目の今回は、阿弥陀仏の光を讃える十二光の中の難思光(思いはかることができない光)について見ていきます。

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◆難思光

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さて難思光とは、思いはかることができない光のことです。

難思とは、思いはかることができないという意味で、不可思議や不思議という言葉と、似た意味の言葉になります。

難思という言葉は、我々の想像や理解を超えたはたらきや力などに対して、使われることがあります。

ここでは具体的には、阿弥陀仏という仏様の救いの力やお徳について、難思光(思いはかることができない光)という言葉で表現されています。

どう思いはかることができないかというと、救われようのない、罪や悪の深く重いものたちを、阿弥陀仏は救わずにはおれないと慈悲の心をかけてくださっている。

そして、手を合わせることもなかったものたちに手を合わさせ、今いただいているいのちに感謝するような心、他者の痛みに共感できるような心、そんな清らかな心、信心を恵み育み、安楽の仏の世界、浄土へと生まれさせていく。

そうした、我々には思いはかることができないような、阿弥陀仏の救いの力やお徳について、難思光(思いはかることができない光)という言葉で表現されています。

そして親鸞聖人は、罪や悪の深く重いものとは、自分自身であったと受けとめていました。

◆罪悪の自覚

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以前にも紹介したことがある言葉ですが、親鸞聖人が自分自身の罪や悪を深く自覚されていると受け取ることができる言葉があります。

「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」

(『一念多念文意』/親鸞聖人)

意訳すると、このような意味になります。

「無明の煩悩は、この身にみちみちて、欲や怒り、腹立ち、そねみ、妬むといった心が多く、常におこり、いのち終えるその時までとどまることなく、消えることなく、たえることがない」

自分の奥底を見つめてみたら、煩悩だらけだった。そしてその煩悩は、いのち終えるその時までとどまることなく、消えることなく、たえることがない。

この言葉は、親鸞聖人が自分自身の罪や悪を深く自覚されている言葉として、よく取り上げられるものです。

また親鸞聖人は、そんな罪や悪が深く重い、救われようのないはずの自分を、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の救いの教えに出遇ったことを、深く喜んだ方でもありました。

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こちらも以前ご紹介した言葉ですが、親鸞聖人の言葉が記されているとされる『歎異抄』には、このような言葉があります。

「弥陀(みだ)の五劫思惟の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

(『歎異抄』後序)

意訳するとこのような意味になります。

「阿弥陀仏が、五劫というとても長い間思惟して建てられた四十八願、本願についてよくよく考えてみれば、それはひとえにこの親鸞一人のためでした。思えばそれほど重い罪や悪をもっている我が身であるのに、助けようと思いたってくださった本願の、なんともったいないことか」

この言葉から、親鸞聖人が自分自身の罪悪を自覚していたことと、そんな救われようのない自分に対して、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べてくださっていることに、何ともったいないことかと感じながら、喜びをあらわにしていることが伝わってきます。

救われようのない、罪や悪の深く重いものたちを、阿弥陀仏は救わずにはおれないと慈悲の心をかけてくださっている。親鸞聖人は、そのことを自分自身のこととして受け止め、喜んでいかれた方でした。

親鸞聖人のつくられた「正信偈」に、難思光とあるのは、まさに自分自身のように救われようのないものが救われていくことを、親鸞聖人が自分のこととして喜んだ言葉として、受け取ることができるかと思います。

手を合わせることもなかったものたちに手を合わさせ、今いただいているいのちに感謝するような心、他者の痛みに共感できるような心、そんな清らかな心、信心を恵み育み、安楽の仏の世界、浄土へと生まれさせていく。

そうした、我々には思いはかることができないような、阿弥陀仏の救いの力やお徳について感嘆し、喜びを表現された言葉が、難思光(思いはかることができない光)という言葉かと思います。

◆深い仏縁

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考えてみれば、仏縁に遇わなければ、この私自身も手を合わせることもそうそうなかったかもしれません。

たまたま浄土真宗の僧侶になるご縁をいただいて、仏様と向き合う機会が多いですから、手を合わせていますけれども、そういう立場やご縁がなければ、仏様に手を合わせることもなかったかもしれません。

皆様はいかがでしょうか。なぜ自分が仏様や神様やご先祖に手を合わせているのだろうかと考えると、当たり前のようでいて、結構深いご縁があるんじゃないかと思います。

直接的には、父や母、祖父母など、どなたか身内の方が亡くなってから手を合わせるようになったという方もおられるでしょう。

また、何か自分にとって思わしくないようなことがあって、悩み苦しみの中で手を合わせている方もおられることでしょう。

一般的に、手を合わせるという行為には、これまでの自分の行いを顧みたり、今あることに感謝したり、未来に思いをかけるというような意味が込められているかと思います。

先ほど言ったように、ひょっとしたら自分にとっては思わしくないことが起きたことが縁で、手を合わせるようになった方もおられるかもしれません。

その苦しみのさなかには、苦しみから何とか解放されますように、この状況が何とか良くなりますようにと願いながら、すがるような思いで手を合わせることでしょう。

そうした苦しみの出来事は、本当はおこってほしくないことです。

ですが、その苦しみの中で、これまで気付かなかったことに気付かされたり、苦しんでいる人の気持ちが分かるようになったり、人間として育まれていくようなこともあります。

思い通りにならないことを、一般的には逆境といいますが、その思い通りにならないことが、自分自身の心や人間性を育んでくれるような仏縁となる場合のことを、逆縁と言います。

ある方は、わが子の悪い行いに対して、「なんであんな子になってしまったのだろうか」と頭を抱え、憂い嘆いておられました。

しかし、その悩み嘆きの中に、その子と向き合い直していく過程で、これまで子どもの思いにしっかりと向き合えていなかったことや、子どもに寂しい思いをさせていた自分自身のあり方に気付かされたともおっしゃっていました。

そうした、これまでの自分の行いを顧みて、これからは自分はこうありたい、あの子も幸せであってほしいというような願いの中で、手を合わせるということも我々にはあるかと思います。

こうした自分自身にとっては、思わしくないことが仏縁となり、自分自身のあり方を顧みたり、心や人間性が育まれるきっかけとなることがあります。こうした仏縁のあり方を、逆縁と言ったりします。

『仏説観無量寿経』というお経にも、韋提希夫人(いだいけぶにん)という母親が、息子の阿闍世(あじゃせ)の悪い行いに憂い嘆き、お釈迦様の前で礼拝し、自分自身のあり方を顧みて、安らかなあり方を求めるという物語が説かれています。

我々は、自分にとって思わしくないことがなければ、なかなか自分自身のあり方を顧みることもないのかもしれません。何となく、順調に過ごしていければ、そんなことを考えなくても過ごしていけるのかもしれません。

ただし、世の中は諸行無常で移り変わっていきます。段々と自分や周囲も変わっていきます。思わしくないことも人生の中では起きます。それを、一切皆苦と言います。

その思わしくないことが起こった時に、どのように受け止めていけるか。

何でこんなことになるのかと憂い嘆く、そんな弱い自分自身の姿が見えてくることもあるでしょう。憂い嘆き、自分自身のあり方を顧みる中で、自分のこれまでの行いに後悔したり、自分の弱さや、罪や悪を初めて自覚することもあるでしょう。

その時に、これまでの自分のあり方に恥じたり、胸がしめつけられるような深い痛みを感じることがあります。そうした中で、思わず手が合わさるということがあります。

これまで手を合わせることもなかった自分が、手を合わせるようになる。逆縁を通して、手を合わせ、自分の言動を顧みる心や人間性が育まれることがあります。

また、先ほど申したように、父や母、祖父母などどなたか身内の方が亡くなってから手を合わせるようになったという方もおられるでしょう。

そうした方は、手を合わせる中に、今自分があるのは、色々な方がいたおかげであるという恩や事実に、気付かされたという方もおられるのではないでしょうか。

子どものころなど、最初は、手を合わせなさいと言われて手を合わせていたかもしれません。しかし、手を合わせる中に、段々と心や人間性が育まれていく。

そして、受けた恩に気付いたならば、今度は自分が未来に思いをかけていこうとする。子や孫や未来世代の人も幸せでありますように。

一般的に、手を合わせるという行為には、これまでの自分の行いを顧みたり、今あることに感謝したり、未来に思いをかけるというような意味が込められているかと思います。

なぜ自分が手を合わせているのだろうかと考えると、当たり前のようでいて、結構深いご縁があるんじゃないかと思います。

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手を合わせるはずのなかった自分が、今こうして手を合わせている。南無阿弥陀仏とお念仏を称えるはずのなかった自分が、今、南無阿弥陀仏とお念仏を称えている。

これらは当たり前のようであって、当たり前ではないのだと思います。

直接的には、父母や祖父母の存在があるかもしれません。自分にとって思わしくなかった出来事が、きっかけかもしれません。しかし、それだけではないかもしれない。

そもそも、違う家庭に生まれれば、手を合わせたり、お念仏を称えることをしていなかったかもしれない。日本に生まれ育っていなければ、人間として生まれていなければ。

なぜ自分が手を合わせているのだろうか、なぜ仏縁をいただいたのだろうかと考えると、実は幾層にもわたって、色々なレベルで捉えることができます。

手を合わせることがなかった自分が、今こうして手を合わせている。南無阿弥陀仏とお念仏を称えるはずのなかった自分が、今、南無阿弥陀仏とお念仏を称えている。これはかなり不思議なことです。

そして、こうして手を合わせる中で、お念仏を称える中で、自らの抱える罪や悪の深さや重さにも気付かされることがある。

救われようのない自分の姿に気付かされていく。救われようのなかった自分が、阿弥陀仏によって救われていく。救われようのないはずの自分に、救いの手を差し伸べてくださっている。

手を合わせることもなかったものたちに手を合わさせ、今いただいているいのちに感謝するような心、他者の痛みに共感できるような心、そんな清らかな心、信心を恵み育み、安楽の仏の世界、浄土へと生まれさせていく。

そうした、我々には思いはかることができないような、阿弥陀仏の救いの力やお徳について感嘆し、喜びを表現された言葉が、難思光(思いはかることができない光)という言葉かと思います。

いかがだったでしょうか。

今回は、十二光の中の難思光(思いはかることができない光)についてお話させていただきました。次回も、「正信偈」の続きを味わっていきたいと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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