浄土真宗【正信偈を学ぶ】第16回_無量光_量り知ることのできない光

仏教を学ぶことは、幾多の時代や国を経ても、淘汰されずに伝わってきた「人類の智慧」に触れる営みです。我々が日常生活の中で抱く、人間関係や、老い、病、死といった苦悩や不安の原因についてや、心豊かに生きていく方法について、仏教書には記されています。

しかし、仏教というと、現代の我々からすると分かりにくく、ハードルの高いものというイメージがあるかもしれません。このシリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書かれた「正信偈」(しょうしんげ)について、動画や文章で、できるだけ分かりやすく解説していきます。

今回は、シリーズの第16回目。無量光という阿弥陀仏の持つ光のお徳について見ていきます。共に仏教を学び、心豊かな人生を歩んでまいりましょう。

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◆十二光

前回から、十二光について見ています。十二光とは、阿弥陀仏のもつ光のお徳を十二種に分けて讃えたものです。

具体的には、無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光。

これら十二種の光のことを、十二光と言っています。

「正信偈」の一節には、このように阿弥陀仏の光のお徳を十二種に分けて讃えている部分があります。前回は、この十二光の概要について見てみました。

そして今回は、十二光の最初にあげられる無量光(量り知ることのできない光)について見ていきます。ご一緒に味わってまいりましょう。

◆正信偈の偈文(げもん)

では、今回見ていく部分の「正信偈」の本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
普放無量無辺光 無礙無対光炎王
(ふほうむりょうむへんこう むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
(しょうじょうかんぎちえこう ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
(ちょうにちがっこうしょうじんせつ いっさいぐんじょうむこうしょう)

次に書き下し文です。

【書き下し文】
あまねく無量・無辺光、無礙(むげ)・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照を蒙(かぶ)る。

次に意訳です。

【意訳】
阿弥陀仏の放つ光のお徳について、お釈迦様は十二種に分けてほめ讃えておられます。無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光のことです。
阿弥陀仏の放つ光は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけています。

◆無量光

それでは、十二光の一つ目にあげられる無量光について見ていきます。無量光とは、量ることのできない光という意味です。量は量るという意味で、無がついていますから、量ることができないという意味になります。

無量光とは、量的に無限でどこまでも照らし、時間的にも過去現在未来の三世にわたり、ずっと照らし続けるというお徳を表していると言われます。そうした無量光とは、我々には量り知ることができない光という意味を持っています。

◆智慧の光明はかりなし

親鸞聖人は、阿弥陀仏の無量光のお徳を、和讃といううたにして、このように讃えておられます。

智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
(『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈和讃」)

正信偈の念仏和讃をおとなえになる方は、お経の本の最初の方に出てくる和讃ですので、聞いたことがあるという方もおられるかと思います。この和讃を意訳するとこのような意味になります。

阿弥陀仏の放つ智慧の光明は、人間にはとても量り知ることができません。全てのものはことごとく、無明の闇を照らす光をかぶらないものはありません。そうした真実の智慧の光で照らす阿弥陀仏に帰依致しましょう。

「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし」とは、阿弥陀仏の放つ光明は智慧の光であり、その光はあらゆるところを照らし、照らされないものがないという無量光のお徳が示されています。

そして、阿弥陀仏の智慧の光明に照らされることを、暁(あかつき)という言葉で表されています。光暁(こうきょう)の暁の字ですね。

この暁という言葉は夜明けのことで、闇の中に光が差し込んでくる様子を表していると言います。夜が明けて、太陽が昇ってくると、光がぱあっと差し、闇が照らされていきますね。暁とは、そういう闇の中に光が差し込んでくる様子を表しています。

ここで、光とか闇というのは譬喩表現で、暗闇とは、我々の生き方やあり方をさしています。そして光とは、阿弥陀仏の智慧の光明のことです。阿弥陀仏の智慧の光明によって、我々の生き方やあり方が照らされてくるということです。それはどういうことでしょうか。例をあげながら見ていきましょう。

考えてみると、我々はあらゆる物事や出来事を、自分中心に見て考えています。あの人は良い人だとか悪い人だとか、これはこうあるべきだとか、こうあってほしいとか。意識的にも無意識的にも、我々は毎日、毎時間、毎分、毎秒というように、物事や出来事に対して、こうじゃないかと考えながら生きています。

その自分が出しているこうじゃないかという結論は、何を基準にしているかというと、自分の見解を基準にして考えているかと思います。

例えば、人について、その人がどういう人かを考える時に、我々が見るのはその人の言動を見ますね。ですが、実は我々はその人の言動を見るだけでなく、頭の中では自分がこれまで出会ってきた人の言動などと比較したり、当てはめたりしながらその人を見ています。

その人が、ほがらかな顔をしていれば、過去に会ったほがらかな印象の方々との出会いや経験をもとにして、この人はきっと優しい人だろうなどと思うわけです。

この人はこういう人だなというように、我々は意識的にか無意識的にか、自分を中心とした基準で物事や出来事を見て考え、何等かの結論を出しています。

この人はこういう人に違いないとか、これはこうあるべきだとか、こうあってほしいとか。そういうふうに、自分の基準で物事や出来事を見て、自分なりの結論を出しています。

そして、その結論にやっぱりそうだよな、間違いないなとか思ったり、逆に違和感を感じたりしながら過ごしています。そんな高度なことを、我々は毎日、毎時間、毎分、毎秒おこなっているわけですね。

ただし、その自分を基準にした判断や結論が完全なものかというと、そうとは限りませんよね。

先ほどの例でいえば、我々はその人がこういう人だろうと、いったん自分の中で結論づけてはいますが、必ずしもその人は自分が思った通りの人であるとは限りません。優しい一面もあれば、厳しい一面もあるでしょう。

人は多面的ですし、我々はそのごく一部しか見ていません。そして、自分なりのフィルターをその人に重ねて見ていますから、純粋にその人自身を見ているわけではないんですね。

笑顔が素敵な人だからきっと優しい人だろうとか、眉間にしわを寄せているから怖い人かなとか。自分が過去に出会った人や経験などから、この人はこういう人だろうと、フィルターを通して見て、一旦結論付けているわけですね。

それは純粋にその人を見ているというわけではありません。それは逆もそうで、私という人間も、きっとこういう人じゃないだろうかと想像しながら見られていると思います。

お坊さんだからきっとこういう言動をするだろうとか、男性だからとか、この年齢だからとか。見る人がそれぞれに、自分が思いつく色々なことから想像をして、自分なりのフィルターを通して、きっとこの人はこういう人だろうと思って見ているかと思います。

そしてまた、おそらくこう見られているだろうと予想して、ある程度お坊さんらしい言動をしようとか、そう思ったりもするわけですね。皆さんも多かれ少なかれ、人からこう見られていると感じる事があったり、また人をこのように見ているというようなことはあるかと思います。

我々は、意識的にも無意識的にも、そういうふうに頭をはたらかせながら、自分中心に物事や出来事をみる習性があります。

そして、自分が出したこうだろうという結論が、必ずしも正しいわけではないわけです。物事や出来事を全て見通すということはとても難しいことですし、自分中心に見るということは、好き嫌いとか損得とかの感情も混ぜながら見ているので、偏った結論を出してしまっている可能性があるからです。

そして我々は、物事や出来事を自分中心に見ていることに気付いていればいいのですが、そのことに気付かずに、これはこうに違いないとか、これはこうあるべきだとか、自分中心の自己主張を振りかざしているところがあるかもしれません。

男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ。若者はこうあるべきだ。こういうものは偏見であり、差別を助長します。そして、こうした偏見にもとづいた自己主張によって、それを押し付けられた人が苦しさを感じたり、生きづらさを感じることがあります。

我々は自分中心に物事や出来事を見て考えてしまう習性をもっているので、そのことに無頓着に生きていると、知らず知らずのうちに自分の言動の犠牲者を出しています。また逆に、自分中心の他者の言動にも傷付く、そういうところが我々にはありますよね。

そうした自分中心の考えや見方に捉われながら、知らぬ間に他者を傷付け、また傷つけられながら生きている。そうした生き方、あり方のことを無明と言い、暗闇にたとえられています。無明とは、明るく無いということで、暗闇のことですね。

自分中心の見方に捉われて、本来のそのままの状態で、物事や出来事を見ることができず、多くのものを傷付け、傷つけられているような生き方、あり方のことです。

阿弥陀仏の智慧の光明は、そんな自分中心に生きてしまう生き方、あり方に気付かせるはたらきがあると言います。

先ほどの無量光をお徳を表す和讃には、「智慧の光明はかりなし」「真実明に帰命せよ」という言葉がありました。

智慧とか真実とは、自分ということに捉われることなく、また自他の区別なく、物事をそのまま見通していくということです。こうした見方が仏様の見方、阿弥陀仏の見方であると言われます。

そうした阿弥陀仏の智慧の光明に照らされて、いかに自分中心に生きていたのかに気付かされていく。そうしたことを、まるで暗闇に光が差し込むようだと表現されているわけです。そして、そんな阿弥陀仏の智慧の光明は、あらゆるものを照らしている。

無量光とは、量的に無限でどこまでも照らし、時間的にも過去現在未来の三世にわたり、ずっと照らし続けるという光明です。

しかし、智慧の光明に照らされていながらも、照らされていることに気付くこともなく、生きている我々がいるかもしれません。また自分中心の生き方、あり方をしていることに気付いてくれよと、阿弥陀仏に喚びかけられていても、それに気付くことなく、自分中心に生きている我々がいるかもしれません。

自分中心であることに気付ききれないことや、たとえ気付いても根本から自分中心の生き方、あり方を変えることが難しいということを、無量光という、我々には量り知ることができない光という言葉でもって、表現されているように思います。

また、「光暁かぶらぬものはなし」とある暁とは、夜明けのことで、闇の中に光が差し込んでくる様子を表していると、先ほど言いました。暁とは、完全に明るくはなっていない状況なんですね。

この体を抱え、煩悩を抱えながら生きている我々は、自分中心というところから、中々離れがたいものです。完全に暗闇が晴れたわけではない。しかし、暗闇が晴れたわけではないけれども、阿弥陀仏の智慧の光明が、夜明けの光のように、暗闇に差し込んでくださっている。

自分中心の生き方、あり方をしていることに気付いてくれよと、阿弥陀仏が喚びかけてくださっている。そうしたことを、暁という言葉で絶妙に表現されているように思います。

いかがだったでしょうか。本日は、無量光(量り知ることのできない光)について見てみました。次回も引き続き、十二光について見ていきたいと思います。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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【正信偈を学ぶ】

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仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第17回_無辺光_いきわたらないところのない光 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

▼前回の内容

仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第15回_十二光と第十二願成就文 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

 

◇参照文献:
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・『浄土真宗聖典』七祖篇 注釈版/浄土真宗本願寺派
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