浄土真宗【正信偈を学ぶ】第17回_無辺光_いきわたらないところのない光

仏教を学ぶことは、幾多の時代や国を経ても、淘汰されずに伝わってきた「人類の智慧」に触れる営みです。我々が日常生活の中で抱く、人間関係や、老い、病、死といった苦悩や不安の原因についてや、心豊かに生きていく方法について、仏教書には記されています。

しかし、仏教というと、現代の我々からすると分かりにくく、ハードルの高いものというイメージがあるかもしれません。このシリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書かれた「正信偈」(しょうしんげ)について、動画や文章で、できるだけ分かりやすく解説していきます。

今回は、シリーズの第17回目。無辺光という阿弥陀仏の持つ光のお徳について見ていきます。共に仏教を学び、心豊かな人生を歩んでまいりましょう。

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◆十二光

さて前回は、十二光について見てきました。十二光とは、浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏のもつ光のお徳を十二種に分けて讃えたものです。

具体的には、無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光。これら十二種の光のことを、十二光と言っています。

十二種にも分けて光のお徳を讃えられているのは、阿弥陀仏とは、様々なお徳をもった仏様であるということを、十二もの色々な角度から、言葉を尽くして表現をしようとしたものです。ですので、十二光とはどういうものかを見ていくと、阿弥陀仏とはどういったお徳をもった仏様であるのかが分かってきます。

前回は、この十二光の中の一つ目、無量光について見ていきました。今回は、二つ目の無辺光(いきわたらないところのない光)について見ていきます。

◆正信偈の偈文(げもん)

では、今回見ていく「正信偈」の本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
普放無量無辺光 無礙無対光炎王
(ふほうむりょうむへんこう むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
(しょうじょうかんぎちえこう ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
(ちょうにちがっこうしょうじんせつ いっさいぐんじょうむこうしょう)

次に書き下し文です。

【書き下し文】
あまねく無量・無辺光、無礙(むげ)・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照を蒙(かぶ)る。

次に意訳です。

【意訳】
阿弥陀仏の放つ光のお徳について、お釈迦様は十二種に分けてほめ讃えておられます。無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光のことです。
阿弥陀仏の放つ光は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけています。

◆無辺光

それでは、十二光の二つ目、無辺光について見ていきましょう。無辺光とは、いきわたらないところのない光のことです。無辺とは、際や境目がないということです。

際や境目がないということはつまり、どこまでも照らして、いきわたらないところのない光ということです。海でたとえるならば、岸がない状態で、どこまでいってもずっと海であるというようなものです。

無辺光という、いきわたらないところがない光、際や境目がない光とはどういうことを表しているのでしょうか。ここからいくつかの意味を味わうことができますので、順に見ていきましょう。

◆救いの平等性

無辺光の意味の一つは、阿弥陀仏の救いが平等なものであることを表しています。無辺光とは、いきわたらないところがない光ですから、平等に全てに光が降り注いでいる状態を表しています。

貧しいとかお金持ちとか、賢いとか賢くないとか、年齢が何歳とか、性別がどうだとか、そうしたことに関係なく、阿弥陀仏の慈悲の光は全てのものを照らしてくださっている。そうしたことを表しているのが無辺光です。

人間の社会では、試験を受ければ合否判定があります。試験に受かる人もいれば、落ちる人もいます。試験に落ちた人は、行きたい学校に行けなかったり、資格をとれなかったり、つきたい仕事につけなかったりします。我々の社会は、多かれ少なかれ、そういう評価社会であるわけです。

対して、阿弥陀仏の救いが平等であるとは、お金持ちだから助けようとか、賢いから助けようとか、試験に受かったものだけを助けようとか、そういうものではないということです。

以前にお話しましたが、阿弥陀仏は四十八願という四十八の願いをお建てになったと、『仏説無量寿経』というお経には説かれています。その四十八願の根本である本願(第十八願)には、「設我得仏 十方衆生」(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう)とあります。

私が仏になったならば、生きとし生ける全てのものを救う。そうでなければ、私は仏とならない。そのように、阿弥陀仏は本願に誓われています。本願に、全てのものを救うと誓われたように、無辺光という、いきわたらないところのない光とは、阿弥陀仏の救いが平等であることを表しています。

たとえ、試験に落ちてショックを受けている人でも、仕事で評価されずに悩んでいる人でも、一人孤独を感じている人でも、分け隔てなく、全ての生きとし生けるものにその慈悲の光は届いていますよ、阿弥陀仏は思いをかけてくださっていますよ、というのが無辺光のお徳です。

◆救いの平等性と悪人正機との関係

しかし、この【正信偈を学ぶ】シリーズをずっと見てくださっている方の中には、このような疑問を抱く方もいるかもしれません。今回の阿弥陀仏の救いの平等性という話と、以前お話した悪人正気の考え方とは、矛盾しているのではないかという疑問です。

悪人正機の考え方、覚えていらっしゃいますでしょうか。悪人正機とは、阿弥陀仏は、特に救われ難いものを救いの目当てとされるのではないかという考え方のことです。

つまり、生きとし生ける全てのものを救おうとする平等性と、特に救われ難いものを救いの目当てとするという悪人正機の考え方とは、矛盾するのではないかという疑問です。しかし、結論をいうと、救いの平等性と、悪人正機とは矛盾するものではありません。

阿弥陀仏は全てのものを救おうと、平等に思っているけれども、その中に救われ難いものがいれば、特に救われ難いものに思いをかけるのではないか。我が子の中に病気で苦しんでいる子がいれば、それぞれの子に対する思いは変わらないけれども、病気の間は特に、その病気の子に対して思いをかけるのではないか。そうした七子のたとえというお話を以前致しました。

このように、生きとし生ける全てのものを救うという平等性と、特に救われ難いものを救いの目当てとするという悪人正機の考え方とは、矛盾するものではありません。今の部分は、少し難しかったかもしれませんが、疑問を抱く方がおられるかもしれませんので、補足しました。

◆私に向けられた救い

さて、無辺光の意味についてですが、救いの平等性と同時に、阿弥陀仏の救いとはこの私に向けられていたと味わうことができると言われます。

無辺光という光は、どこまでもいきわたる光であり、際や境目がない光であるということは、固定した中心点をもたないということです。際や境目がないとは、それは逆に言うと、どこもが中心となりうることを表しています。

それは、阿弥陀仏の救いと私という関係で考えた時に、阿弥陀仏の救いの光の中心部分に私がいた、阿弥陀仏の救いとはこの私に向けられていた。そのように無辺光から、阿弥陀仏の救いを自分事として受け止めていけることを表していると言います。

それこそ、悪人正機の考え方をご紹介した時に、取り上げた言葉ですが、親鸞聖人の言葉にこのようなものがありました。

「弥陀(みだ)の五劫思惟の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」

「阿弥陀仏が、五劫というとても長い間思惟して建てられた四十八願、本願についてよくよく考えてみれば、それはひとえにこの親鸞一人をたすけようとしてくださったものでした」

全てのものを救うという阿弥陀仏の願いは、この親鸞一人をたすけようとしたものだった。このような親鸞聖人の受け止めもまた、阿弥陀仏の救いの光の中心部分に私がいた、阿弥陀仏の救いとはこの私に向けられていた。そのように、阿弥陀仏の救いを自分事として受け止めたものでしょう。

◆人生が転ぜられていく

阿弥陀仏が、生きとし生ける全てのものを救いたいと願われたその願いとは、我々一人ひとりに向けられていて、人生の生き方、あり方を示唆するものです。

阿弥陀仏の救いの光に照らされるとは、抽象的な表現ですが、具体的に言えば仏法に出遇うことであり、仏法に学ぶということです。仏法とは、仏の教えということです。

仏法に学ぶとは、どういうことかというと、単に知識を得ることにとどまらず、自らの生き方やあり方を見つめて、人生の大切なことに気付かされていくということです。阿弥陀仏とはこういう仏様かと、客観的に学んでいくのは、知識的な学びですね。しかし、仏法の学びとは、そういう客観的で知識的な学びだけではありません。

仏法を学ぶとは、自らの心のありようや、自らの生き方、あり方を見つめていくという、とても主体的で、人生について考えていくことです。仏法を学ぶことによって、心のありようや、自らの生き方、あり方が、良き方に転ぜられていき、生きていて良かったと、この人生を深く喜んでいける。阿弥陀仏の救いの光に照らされるとはそういうことだと、色々な先達のお坊さん方に教えていただいたことです。

それは、この自分を主人公として、自らの足で大地を踏みしめながら、人生を大切にして歩んでいくということでもあります。人生を大切にし、深く喜んでいくことができる。そんな人生を歩んでほしいと願ってくださる方が阿弥陀仏という仏様ではないでしょうか。

自らの人生を誰かが代わって歩むということはできません。親であっても、連れ合いであっても、親友であっても、子どもであっても自分の人生の代わりをつとめることはできません。自らの人生は自らが歩んでいかなければなりません。

繰り返しますが、阿弥陀仏の救いの光に照らされるとは、仏法に学ぶ中で、人生を大切にし、深く喜んでいくことができる。そんな心のありようや、自らの生き方、あり方へと転ぜられていくということです。

無辺光という、際や境目がない光であり、固定的な中心をもたない光とは、
一人一人が、阿弥陀仏の救いを自分事として受け止め、人生を大切にし、喜んでいくことができるということではないでしょうか。

そしてそれは、自分が良ければ良いというような、自己に閉じた生き方ではありません。無辺光という救いの光は、誰しもに向けられています。そんな大きな慈悲の心をもった仏心に触れていく。自分が良ければ良いというような自己に閉じた生き方からひらかれていく。それが仏法に学んでいくことでもあろうかと思います。

そして、自らの足で歩んでいくその道とは、阿弥陀仏がご用意してくださった大いなるお念仏の道でもあります。その道は、阿弥陀仏の慈悲の光に照らされて、お念仏を申すお仲間にあふれた道でもあります。

いかがだったでしょうか。今回は、無辺光(いきわたらないところのない光)について見ていきました。次回も引き続き、十二光について見ていきたいと思います。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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【正信偈を学ぶ】

▼次回の内容

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仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第16回_無量光。量り知ることのできない光 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

◇参照文献:
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