ここでは、浄土真宗でよくおとなえされる「正信偈」(しょうしんげ)の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいります。題して、【正信偈を学ぶ】シリーズ、今回は第14回目です。
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◆悪人正機
前回は、悪人正機と言われる考え方について見ていきました。正機の正とは正(まさ)しきという意味で、機とは目当てという意味です。つまり、悪人正機とは、悪人こそが阿弥陀仏の救いのまさしき目当てであるという意味の言葉です。
親鸞聖人の言葉が記されているとされる『歎異抄』には、このような言葉があります。
「善人なほもつて往生(おうじょう)をとぐ。いはんや悪人をや」
この言葉の意味は、このような意味です。
「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」
一般的には、「悪人ですら救われるのだから、善人が救われないはずがない」と我々は思います。人間の倫理観としてもそうですし、仏教の定説としてもそうです。もし悪人が救われるとするならば、善人は救われるだろうと、そのように我々は思いますよね。
しかし親鸞聖人は、「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」と、まったく真逆のことをおっしゃるわけです。悪人こそが阿弥陀仏の救いのまさしき目当てであるという悪人正機の考え方は、この『歎異抄』の言葉などに出てきます。
そしてまた、阿弥陀仏の根本の願いである本願には、「全てのものを救いたい」という願いが説かれています。ここから、阿弥陀仏の救いの目当ては「全てのもの」であることが分かります。
阿弥陀仏は、「全てのものを救いたい」と願われているのですが、その中でも、善人よりも悪人を救いの目当てとされているのではないか。そういう考え方が、悪人正機というものです。
親鸞聖人はなぜ、こうした考え方をされたのでしょうか。阿弥陀仏の救いのまさしき目当ては、悪人であったとする悪人正機の考え方は、実は、阿弥陀仏という仏様の視点から見ていかないとその本意は見えてきません。
そこで今回は、悪人正機について、法蔵菩薩(阿弥陀仏)側からの視点で見ていきたいと思います。今回のテーマは、「阿弥陀仏の救いの目当て」です。
勿論、仏様の視点といっても、さとりの智慧をそなえると言われる仏様の視点を想像することさえ難しいことです。ですので、親鸞聖人やその師である法然聖人の考えをたよりにしながら、考えてみたいと思います。
◆正信偈の偈文(げもん)
ではまず、「正信偈」の本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。
【本文】
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
(こんりゅうむじょうしゅしょうがん ちょうほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
(ごこうしゆいししょうじゅ じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)
次に書き下し文です。
【書き下し文】
無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
五劫(ごこう)これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。重ねて誓ふらくは、名声(みょうしょう)十方(じっぽう)に聞えんと。
次に意訳です。
【意訳】
後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、「悩み苦しむ全てのものを救う」という、この上なくすぐれた願いをたて、「救えなければ、仏とならない」という、たぐいまれな誓いをおこされました。
そして、五劫というとても長い時間をかけて思惟し、様々な仏の救済法の中から、粗悪なものを選び捨て、南無阿弥陀仏の意味を聞きひらいていくことによって救われていくという、すぐれた救済法を選び取り、阿弥陀仏という仏となられたのです。
『重誓偈』には、南無阿弥陀仏(必ず救う。私にまかせなさい)という阿弥陀仏の名のりを、全ての世界に響き渡らせると重ねて誓われています。
◆七子のたとえ
さて、『教行信証』という親鸞聖人が書かれた書物の中に、『涅槃経』というお経を引用されています。そこには、七子(しちし)のたとえと言われる、このような文章があります。
「たとへば一人(いちにん)にして七子(しちし)あらん。この七子のなかに一子(いっし)病に遇へば、父母(ぶも)の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子(びょうし)において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生(しゅじょう)において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し」(『教行信証』信文類/『涅槃経』引用文)
この言葉を意訳すると、このような意味になります。
「たとえばある人に、七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけではありませんが、病気の子には特に心にかけるようなものです。王様、仏様もまたその通りです。仏様は、あらゆるものを平等にみておられますが、罪あるものには特に心をかけてくださるのです」
この『涅槃経』の言葉は、お釈迦様の慈悲の心、思いやりの心を表現されたものですが、法蔵菩薩(阿弥陀仏)の救いがどこに向いているか、つまり阿弥陀仏の救いの目当てについて、説明する時にも用いられます。
たとえば七人の子がいるとして、そのうちの一人の子が病気になった。熱にうなされて苦しんでいたり、痛いよ痛いよと言っている。子を持つ親ならばどうするでしょうか。心配するでしょうし、大丈夫だろうかと症状のことを調べたり、病院に駆け込むこともあるでしょう。熱があれば小児科に行ったり、目が充血して痛いと言っていれば眼科に行くでしょう。怪我であれば外科に行きます。あまりに症状がひどいようでしたら、救急車を呼ぶかもしれませんね。入院することになれば、その子に付き添うこともあるでしょう。
子どもの中で一人が病気になれば、親としては、その間特に病気の子のことを心配し優先するでしょう。他の子に対する思いがないというわけではないでしょうが、子どもの一人が病気になれば、その間は特にその子に心をかけるわけですね。如来という仏様の心もそういうものだというのが、この七子のたとえです。
法蔵菩薩(阿弥陀仏)は本願に、「全てのものを救いたい」と願っているように、阿弥陀仏の慈悲の心、救いの光は「全てのもの」にそそがれています。しかし、その中でも特に、自らの力ではどうしようもできないもの、救われ難いものに心をかけられている。そのように親鸞聖人は見ていかれたわけです。
子どもの中でも、ある程度自立して自分で人生を歩んでいけそうな子や、幸せそうに過ごしている子に対しては、親として思いをかけないわけではないけれども、心配しないわけではないけれども、安心、安堵の思いもありますね。しかし、病気がちだったり、色々なことに悩み苦しんでいたり、危ういほうに行きそうな子は、特に心配なわけです。仏様が特に悪人に心をかけることも、病気の子に心をかける親心のようなものだというのが、この七子のたとえです。
ただし、親子の関係といっても、特定の子を可愛がったり、暴力をふるったり、親子の縁を切ったりということもありますので、勿論一概には言えません。仏心を親心でたとえるのは、限界もあるのですが、できるだけ我々が想像しやすいようにと、仏心を親心でたとえられることがあります。
この七子のたとえはそういうもので、阿弥陀仏の救いのまさしき目当ては、悪人であったとする悪人正機の考え方を説明する時に、このたとえが用いられることがあるのでここで紹介をしました。
◆仏道における善人・悪人
ここまで見てきて、親が病気の子に特に心をかけることは理解はしやすいかと思います。しかし、それでも善人より悪人が救われるとか、悪人こそが救いの目当てであるという悪人正機の考え方に対して、理解しがたい、受け入れがたいという思いもあるかもしれません。
それは、悪をしても許されるのかという思いや、悪人より善人のほうがよいはずだという思いが、我々の中にあるからではないでしょうか。それはもっともなことで、人との信頼関係や、人間社会を成立させる上で、悪とはしないほうがいいものという倫理観は必要ですし、また悪を踏みとどまらせるような法律も必要になってきます。
悪人こそが救われるといっても、悪を勧めたり、悪人になることを勧めていることではありません。また、悪をしてしまってもしょうがないと居直ることでもありません。親鸞聖人は、自分の奥底まで見つめてみた時に、いつも自分中心に物事を見て考えてしまう自分がいた。
自分中心の言動をして、他者を傷付けてしまうような、罪や悪を重ねてしまうような存在であるとの深い自覚が親鸞聖人にはあったのではないでしょうか。悪人正機とは、自らが抱える罪悪性や凡夫性を徹底的に見つめた上に、出てきた考え方だったというのが前回まで見てきたことでした。
そして、悪人正機を見ていく中で、もう一つ押さえておいたほうがいいのが、善人、悪人という言葉の意味です。「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」という言葉に出てくる善人、悪人とは、ただの善人、悪人だけではなく、仏道における善人、悪人という意味合いがあります。
仏道における善人とは、定められた戒を守り、身も心も整え、自らの力をもって、さとりの智慧をえることのできるような人を言います。仏教とは、基本的にはそうした自らの力をもって、さとりの智慧をえようとするものです。そうした善人とは、尊敬されるべき素晴らしい方です。この世の実在の人物で言えば、仏教の開祖であるお釈迦様のような方でしょう。
そして、仏道における悪人とは、戒を守ることができず、身も心も整えることができず、自らの力では、さとりの智慧をえることのできないような人を言います。
仏道における善人、悪人とは、このようにただの善、悪ということだけでなく、自らの力をもって、さとりの智慧をえることができるか、できないかということを基準にしています。
少し補足をすると、日本に伝わっているのは大乗仏教ですから、自らの力だけではなく、仏様の力をかりながらさとりの智慧をひらくという前提はあるかと思います。しかし仏様の力をかりようとも、戒を守ることや、身や心を整えることが難しく、自らの力では、いっこうにさとりの智慧をえることができない。そういう人のことを仏道における悪人というわけです。そして、そういう悪人こそが、阿弥陀仏の救いのまさしき目当てであるとするのが、悪人正機という考え方です。
悩み苦しみを抱えながら生きる人たちを見て、救わずにはおれないと立ち上がってくださったのが法蔵菩薩(阿弥陀仏)であると言われます。仏道修行によって、戒を守り、身も心も整え、さとりの智慧をえることができる善人ばかりであれば、阿弥陀仏がおられなくてもよいのかもしれません。
しかし、世の中を見回してみるとそうではなかった。人々は、戒を守り、身や心を整える以前に、日々を生きていくことにあくせくをし、人間関係で苦しみ、老いや病に悩み、死に不安を抱いて生きている。そうした悩み苦しみを抱えながら生きる人たちを見て、救わずにはおれないと立ち上がってくださった。そうした仏様が阿弥陀仏であると言われます。
「正信偈」に「五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)」と書かれているのは、法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、五劫という長い時間をかけて思惟し、悩み苦しむものを救いとげるため、四十八の願いを建てたということでした。
願いをたて、私があなたのかわりに仏道の修行をし、その全ての功徳を、南無阿弥陀仏という喚び名に込めて、あなたに至り届かせます。ですから、南無阿弥陀仏と称えてください。私が必ずあなたを救いとります。「全てのものを救いたい。救えなければ私は仏とならない」。そう願われ、誓われたのが、法蔵菩薩(阿弥陀仏)でした。
仏道における善人とは、定められた戒を守り、身も心も整え、自らの力をもって、さとりの智慧をえることのできる人でした。そうした仏道における善人とは、阿弥陀仏がいつも心にかけていなくとも、自らの力で仏道を歩んでいける、仏道を歩む模範となるような人かもしれません。
それに対して、仏道における悪人とは、戒を守ることができず、身も心も整えることができず、自らの力では、さとりの智慧をえることのできない人でした。
そうした仏道における悪人とは、阿弥陀仏が救おうとしなれば悩みや苦しみから逃れることのできないような存在であり、特に心をかけ、救いの目当てしなければならなかった存在ではないでしょうか。
◆救済型の仏道
親鸞聖人は、自らの罪や悪の意識が非常に強くあり、深く内省をされた方でした。そしてまた、仏道における悪人であることを自覚された方でもありました。
20年にもわたる仏道修行をおこなわれ、戒を守ることができず、身も心も整えることができず、自らの力では、さとりの智慧をえることができないという絶望の中、比叡山をおりたと言われます。
しかし、そんな絶望の中に法然聖人のもとを訪れ、「全てのものを救う」という阿弥陀仏の本願に出遇い、途切れてしまった仏の道がひらけてきた実感があったのではないでしょうか。
それは、自らの力によってさとりの智慧をえていこうとする仏道から、阿弥陀仏の力によって救われていくという仏道への転換でもありました。そのような、さとり型の仏道から、救済型の仏道へと転換し、そのあり方を提示したのが、親鸞聖人の師である法然聖人でした。
親鸞聖人は、法然聖人との出遇いによって、阿弥陀仏という仏様に救われていくという仏道に出遇われたのでした。仏道修行ができない人に対して、仏の道が閉ざされていたものを、自らの力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われていくという転換によって、救いを見出していかれたのが法然聖人でした。
法然聖人もまた、いかに仏道修行にはげもうとも、心があちこちに散逸してしまい、さとりの智慧をえるどころか、仏道修行もままならない存在であるという自覚の中で、見出していかれた救いの道だったのではないでしょうか。
そして、阿弥陀仏の救いを考えると、自らの力でさとりの智慧をえていく善人よりも、それが適わず、迷い苦しんでいる悪人を救いの目当てとされるのではないか。そう見出していかれたのではないでしょうか。
阿弥陀仏が仏となられたのは、自らの力では救われ難いものを救おうとされたからである。法蔵菩薩(阿弥陀仏)はそのために、五劫という長い時間をかけて思惟し、四十八の願いを建て、修行を完成され、仏となられた。法然聖人や親鸞聖人は、阿弥陀仏という仏様を、そのようにご覧になっているのではないでしょうか。
「全てのものを救いたい」と本願に誓われているように、阿弥陀仏の慈悲の心は「全てのもの」に注がれています。ただ、七子のたとえのように、救われ難いものがいれば、阿弥陀仏の慈悲の心は、特に救われ難いものに向けられるのではないか。
「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」という悪人正機の考え方は、仏道における悪人を自覚し、道が閉ざされてしまった法然聖人や親鸞聖人が、自らの救いを求めてたどり着いたものだったのではないでしょうか。
そしてまた、同じように悩み苦しみを抱き、修行をすることもままならない、仏道における悪人全ての救いにもなるものとして、お念仏の教えを喜び、伝えていかれたのではないでしょうか。
いかがだったでしょうか。本日は「阿弥陀仏の救いの目当て」というテーマでお話をさせていただきました。次回は、「正信偈」の次の文章を読み進めていこうと思います。
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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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◇参照文献:
・『浄土真宗聖典』注釈版/浄土真宗本願寺派
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・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
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・『浄土真宗聖典』浄土三部経(現代語版)/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2SKcMIl
・『聖典セミナー』無量寿経/稲城選恵
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・『正信偈の意訳と解説』/高木昭良
https://amzn.to/2SKczox
・『正信偈を読む』/霊山勝海
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・『聖典セミナー』歎異抄/梯實圓
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・『浄土真宗聖典』歎異抄(現代語版)/浄土真宗本願寺派
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・『勤行意訳本』/神崎修生
(信行寺までお問い合わせください。 https://shingyoji.jp/ )