浄土真宗【正信偈を学ぶ】第13回_悪人正機

ここでは、浄土真宗でよくおとなえされる「正信偈」(しょうしんげ)の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいります。題して、【正信偈を学ぶ】シリーズ、今回は第13回目です。

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◆前回までの内容

この数回「正信偈」の「五劫思惟之摂受」という言葉について見ています。この言葉は、法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、五劫という長い間思惟し、四十八願という四十八の願いを建てたという意味になります。

そして、四十八願の根本は第十八願であり、本願ともよばれます。本願には、「全てのものを救いたい。救うことができなければ、私は仏とならない」という法蔵菩薩(阿弥陀仏)の願いが誓われています。

この四十八願、本願を建てるのに、五劫という長い時間がかかったと表現されている意味は、一つは、それほど長い時間をかけて法蔵菩薩(阿弥陀仏)は、完全な救済法を選び取ったということです。

つまり、救いの完全性を表しているということでした。そしてそれは同時に、阿弥陀仏の救いにおまかせして大丈夫ですよという安心感も表されています。

そしてもう一つは、法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、五劫という長い時間をかけて思惟しなければ救えるとは思えなかったほど、自分自身は重い罪や悪を抱えながら生きている。親鸞聖人はそういう味わいをされていました。

つまり親鸞聖人は、法蔵菩薩が五劫もの間、考えに考えなければ救う方法を見いだせないほど、自分自身が抱える罪悪の重さを五劫思惟という言葉から感じ、自分自身を見つめたのでした。

そして、本来であれば地獄行き間違いのない自分を、助けようと思いたってくださった仏様がおられた。それが阿弥陀仏であった。何ともったいないことか。親鸞聖人はそうした深い喜びを感じた方でもありました。
前回は、そうした親鸞聖人の味わいについて見てきました。

そして、前回も紹介しましたが、親鸞聖人の言葉とされる『歎異抄』の文章には、このような文章があります。

「弥陀(みだ)の五劫思惟の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』後序)

意訳するとこのような意味になります。

「阿弥陀仏が、五劫というとても長い間思惟して建てられた四十八願、本願についてよくよく考えてみれば、それはひとえにこの親鸞一人のためでした。思えばそれほど重い罪や悪をもっている我が身であるのに、助けようと思いたってくださった本願の、なんともったいないことか」

先程申したような親鸞聖人の罪悪の自覚と救いの喜びが、ここに表れています。

そして、今回注目したいのは、法蔵菩薩(阿弥陀仏)が五劫もの長い間思惟して、本願を建ててくださったのは、ひとえにこの親鸞一人のためだったという部分です。

この親鸞のために、五劫もの間思惟してくださり、四十八願、本願を建てくださった。この親鸞聖人の味わいについて見ていきたいと思います。今回は、「悪人正機(しょうき)」というテーマでお話させていただきたいと思います。

◆正信偈の偈文(げもん)

ではまず、本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
(こんりゅうむじょうしゅしょうがん ちょうほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
(ごこうしゆいししょうじゅ じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

次に書き下し文です。

【書き下し文】
無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。五劫(ごこう)これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。重ねて誓ふらくは、名声(みょうしょう)十方(じっぽう)に聞えんと。

次に意訳です。

【意訳】
後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、「悩み苦しむ全てのものを救う」という、この上なくすぐれた願いをたて、「救えなければ、仏とならない」という、たぐいまれな誓いをおこされました。
そして、五劫というとても長い時間をかけて思惟し、様々な仏の救済法の中から、粗悪なものを選び捨て、南無阿弥陀仏の意味を聞きひらいていくことによって救われていくという、すぐれた救済法を選び取り、阿弥陀仏という仏となられたのです。
『重誓偈』には、南無阿弥陀仏(必ず救う。私にまかせなさい)という阿弥陀仏の名のりを、全ての世界に響き渡らせると重ねて誓われています。

◆悪人正機

さて、親鸞聖人の言葉とされる『歎異抄』の中の、先程の言葉とは別の部分に、このような文章があります。

「善人なほもつて往生(おうじょう)をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三条)

この部分を意訳すると、このような意味になります。

「善人ですら往生をとげるのです。ましてや悪人が往生をとげられないはずがありません」

往生とは、阿弥陀仏の浄土という仏の国に往き生まれるという意味で、救われたことを表す言葉です。つまりこの文章の意味は、「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」という意味になります。

さて皆さん。この言葉を聞いて、どのように思われるでしょうか。一般的には、「悪人ですら救われるのだから、善人が救われないはずがない」と、我々は思いますよね。人間の倫理観としてもそうですし、仏教の定説としてもそうです。

もし悪人が救われるのであれば、善人が救われないはずがない。一般的にはそういう理解をします。しかし親鸞聖人は、「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」と、まったく真逆のことをおっしゃるわけです。

この考え方は、悪人正機(しょうき)と言われています。正機の正とはまさしきという意味で、機とは目当てという意味です。つまり、悪人正機とは、悪人こそが阿弥陀仏の救いのまさしき目当てであるという意味の言葉です。親鸞聖人は、なぜこんなことを言われたのでしょうか。

◆罪悪深重の凡夫

「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」。この言葉を理解するときに、まず押さえておかなければならないのは、この言葉は悪を勧めているわけではないということです。

この言葉は、「悪人が救われるのだから、悪をしてもかまわない。問題ない」というように間違えて解釈されてしまう危険がある言葉です。しかし、それは造悪無碍(ぞうあくむげ)といって、誤った考え方だとされています。

「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」。この言葉を理解する上で、大切なポイントの一つは、凡夫(ぼんぶ)ということです。

凡夫とは、普通の人というような意味の言葉ですが、少し加えて説明すると、たとえ罪や悪をしようと思っていなくても、罪や悪を重ねながら生きざるをえない、そういういのちを生きている存在を凡夫と言います。

親鸞聖人は、自らのことを罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫とか、煩悩具足の凡夫という表現をなさいます。親鸞聖人は自らについて、罪や悪を重ねてしか生きていけない存在である。様々な欲を抱え、欲でしあがっているような存在である。自らの力では、迷いや悩み、苦しみから抜け出すことのできない存在である。そのように、自らのことを捉えてらっしゃいます。

決して、自らを聖人であるとはおっしゃいませんでした。自らを、罪悪深重の凡夫、煩悩具足の凡夫とおっしゃいます。ただしそれは、前回も申しましたが、決してネガティブでも卑下でもありません。

自分の心の奥底を見つめてみると、そのような自分がいた。親鸞聖人とは、自分のいつわらざる姿を見つめ、素直に正直にそれを打ち明けた方でした。そうした正直な姿と、深く深く自己を見つめていくあり方に、多くの人々は時代を超えて親鸞聖人に惹かれるものがあるのでした。

◆三毒の煩悩

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さて、三毒の煩悩(ぼんのう)という言葉があります。三毒の煩悩とは、我々の心身を悩み煩わせる煩悩の代表的な三つを挙げた言葉です。三つとは、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、無明(むみょう)です。無明は、愚痴(ぐち)とも言われます。我々は、こうした三つの毒を持っていると言われます。

貪欲(とんよく)とは、貪りの心です。現代の言葉で言うと、貪欲(どんよく)と読みますね。人と比較してうらやんだり、もっとほしいと思うような心が貪欲、貪りの心です。

子どもを見ていると、おもちゃを自分のものと言って取り合ったりします。これが貪りの心です。幼い時からそうした心が我々の奥底にあるわけですね。

次に瞋恚(しんに)とは、怒りの心です。怒りの心は、自分の思い通りにならない時にわきおこります。自分のある程度思い通りになっている時には、怒りの心はおこりません。

例えば急いでいる時に、車に乗っていて前の車が遅いとイライラすることがあります。それは、自分は早く行きたいのに行けない、つまり思い通りになっていなから、イライラする、怒りの心がわいてくるわけですね。

ですから怒りの心とは、人がどうこうではなくて、本来的には自分中心の思いがまずあって、その思い通りにならないから怒りの心がおこるという仕組みになっています。

そして、無明(むみょう)とは、自分中心に生きていてもそれに気付いていないような状態を指す言葉です。

先程の車に乗っていてイライラする時の例のように、本来は自分がもっと早く出発していれば、前の車が多少遅かろうと心に余裕をもってイライラしにくいのですが、急いでいてイライラしている時は、早く出発しなかった自分のことは棚にあげて、前の車が遅いことのほうに意識が向くわけですね。

我々は、思い通りにならない時に、他のせいにするという他責の性質を持っています。それは、我々の目は外についていて、外のことばかりに目が行くからですね。我々は、自分中心の思いがあることや、自分の思い通りにしたいと思って生きていることに、けっこう無頓着です。

何か思い通りにならないことがおこれば、それはあの人がこうしなかったからだという具合に、他人や自分以外のもののせいにすることが多いです。こうした状態が、無明の状態です。

明るく無いと書きますから、自分中心の思いにとらわれて、本当のところが見えていない、自分中心にしか見ることができない。そうした状態が無明の状態です。

我々は、こうした三毒の煩悩に代表される煩悩を数多く抱えていると言います。外ばかりに目を向けるのではなく、自分の心に目を向けて、自分のありようを見つめてみると、自分はこれがほしいとか、こうありたいという貪りの心があることに気が付きます。

また、自分の思い通りにしたい思いがあるから、怒りという瞋恚の心がおきていることにも気が付きます。自分中心の思いが自分の中に根をはっていることに気付くだけでも随分違うのですが、たとえそれに気付いたとしても、貪りの心や怒りの心がおこらないかといえばそうでもありません。多少落ち着いたり、一定の効果がありますが、自分中心の思いとは中々根深いものです。

親鸞聖人は自分自身を奥深くまで見つめてみた時に、貪欲、瞋恚、無明といった煩悩を抱えた自分であったと、そのように思われたわけです。そんな自分の存在を、罪悪深重の凡夫とか、煩悩具足の凡夫という言葉で表現されたのでした。

◆縁をもよおせばどのようなふるまいもする

煩悩に関連する話で私が印象的だったのが、戦地に行った方のお話を伺った時のことです。その方は、第二次世界大戦の時に、確か東南アジアのほうに日本軍の兵士として戦地に行ったそうです。

敵地を歩いている時に、突然相手の兵士が出てきて銃口を向けられたそうです。その時、とっさに自分も銃を打ち放ったと言います。良いか悪いかなどは考える暇もなく、反射的、本能的に体が反応して銃を打ったと言われていました。

「理屈じゃない。打たなければ自分が殺される」

「自分は人を殺したいと思ったことはないが、人を殺さなければ殺される状況だった」

そうおっしゃった言葉がとても印象的でした。自分がもし同じ立場だったらどうだろうかと思いました。この話から、我々は生存本能も含めた煩悩を抱えており、抗い難いものがあると思ったことでした。

我々の生き方は、自分が生まれた時代や地域など、環境によって大きく左右されます。仮に、自分が子どもの頃から親に虐待を受けていれば、親に対する恐怖の思いと共に、憎しみの思いや、殺意を抱くかもしれません。

それがよいと言っているのではなく、我々はその時の状況や環境によって、生き方が左右されることがあるということが、ここで言いたいことです。理不尽な扱いを受けたり、差別や偏見を向けられれば、非常に悲しい思いをしたり、腹わたが煮えくり返るような思いをすることもあるでしょう。

同じく『歎異抄』には、親鸞聖人のこのような言葉が収録されています。

「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人(いちにん)にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第十三条)

この文章を意訳すると、このような意味になります。

「もし、なにごとも思い通りになるのであれば、仏の国に生まれるために、千人の人を殺せと私(親鸞)がいった時に、そなた(唯円)は千人の人を殺すことができるはずだ。しかし、思い通りに殺すことができるような縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心がよいから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人や千人の人を殺すこともあるだろう」

こうした親鸞聖人の言葉があります。この言葉のポイントは、自分の心がよいから殺さないわけではなく、人を殺すような縁がないから殺さないというところです。

我々は日頃、人間生活を送る中で、取り返しのつかないような罪や悪は重ねていないかもしれないけれども、しかしそれは自分の心がよいから罪や悪をしていないのではない。取り返しのつかないような罪や悪をしなくても済むような環境にあるから、自分は罪悪を重ねていないだけなのかもしれない。
親鸞聖人の言葉からは、そのようなことを思わされます。

もし仮に食べ物を買うお金がなければ、万引きをするかもしれません。もし嘘をつかなければ、自分や家族がひどい目にあうような状況であれば、平気で嘘をつくかもしれません。何度も言いますが、それをしていいという話ではありません。

◆悪人正機の注意点

ここで確認したいことは、我々も状況によっては、取り返しのつかないような罪や悪をしてしまうかもしれない。実はそういう存在であるということと、それほど自分中心の思いは根深いということ。それが、ここで確認したいことです。

善い人であろう、善いことをしよう。その心がけは勿論素晴らしいことです。今言っていることは、それを否定することではありません。世の中に善い人が増えていくことは、穏やかで安定的な社会になり、素晴らしいことです。

そして必ずしも、心の奥底の自分中心の思いにまで目を向けなければならないということでもありません。生き方は人それぞれです。

ただ、親鸞聖人の言葉を理解しようとする時には、たとえ善いことをしようと思っていても、どこかで自分中心の思いが混じっているのではないかとか、置かれた状況や環境によって、罪や悪をつくってしまうような生き方をしてしまうかもしれないとか、そうした捉え方で親鸞聖人の言葉を見ていく必要があるわけです。

親鸞聖人の言葉は、徹底的に自分自身の心の奥底までを見つめ、見えてきた罪悪性や凡夫性に根差したものです。そのことを抜きにして、「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」という言葉を、表面的に理解しようとしても、その本意は見えてきません。

いやむしろ、救われるのだから悪をしても大丈夫とか、なんで善人より悪人が救われるんだというような話になってしまいます。しかし、そういう話ではありません。

また、自分を抜きにして、他人事としてこの言葉に触れても、その本意は理解されません。この悪人を自分のことではなく、他人のこととして見るのであれば、悪人とは裁かれるべき存在であり、許されるものではない存在となってしまうからです。

例えば、誰かから何らかの被害を受けた方であれば、加害者に対して罰を受けてほしいと望むこともあることでしょう。我が子が殺されたのであれば、殺した本人も同じ報いを受けてほしいと思うのも人の情です。

『歎異抄』のこの言葉は、悪人が救われるべきだとか、加害者の罪が許されるべきだというものでも決してありません。ですから、この悪人正機(しょうき)という考え方はとても誤解を生みやすいものであり、表面上で語ったり理解しようとすべきではないものです。

いかがだったでしょうか。今回は、「善人なほもつて往生(おうじょう)をとぐ。いはんや悪人をや」という悪人正機と言われる考え方について見てみました。

「正信偈」の「五劫思惟之摂受」という言葉にある、五劫もの間思惟する必要があったのは、法蔵菩薩(阿弥陀仏)は、救われ難い悪人を救いの目当てとされたからこそであり、その悪人とはこの親鸞であったという受けとめ方を親鸞聖人はなさっています。

「善人ですら救われるのだから、悪人が救われないはずがない」。この言葉について、三毒の煩悩を代表とする様々な煩悩を抱えた我々であることを、色々な例や、親鸞聖人の言葉を用いながら見てきました。

しかし、我々が罪や悪を抱えているからといって、それが善人よりも救われるという説明にはなっていません。この悪人正機という、阿弥陀仏の救いの目当ては悪人であったとする考え方は、実は阿弥陀仏という仏様側の視点から見ていかないとその本意は見えてこないのです。そういう意味で、今回は話ではまだ悪人正機についての説明は不完全です。

今回はこのあたりに致しますが、次回は悪人正機について、法蔵菩薩(阿弥陀仏)側からの視点で見ていきたいと思います。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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【正信偈を学ぶ】

▼次回の内容

仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第14回_阿弥陀仏の救いの目当て | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

▼前回の内容

仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第12回_罪悪の自覚と阿弥陀仏の救い | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

 

◇参照文献:
・『浄土真宗聖典』注釈版/浄土真宗本願寺派
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・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
https://amzn.to/3ha42oh
・『浄土真宗聖典』浄土三部経(現代語版)/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2SKcMIl
・『聖典セミナー』無量寿経/稲城選恵
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・『正信偈の意訳と解説』/高木昭良
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・『正信偈を読む』/霊山勝海
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・『聖典セミナー』歎異抄/梯實圓
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・『浄土真宗聖典』歎異抄(現代語版)/浄土真宗本願寺派
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・『勤行意訳本』/神崎修生
(信行寺までお問い合わせください。 https://shingyoji.jp/ )