浄土真宗【正信偈を学ぶ】第10回_阿弥陀仏の四十八願と第十八願

ここでは、浄土真宗でよくおとなえされる「正信偈念仏偈」(しょうしんねんぶつげ/正信偈)について、できるだけ分かりやすく学んでいきます。

・仏教やお経を学んでみたいという方。
・人生や生き方について関心がある方。
・でも何から学べばよいか分からないという方。
・浄土真宗のお寺とご縁がある方。

そうした方にお勧めの内容です。初めての方にも分かりやすく、しかし仏教やお経の深みをそこなうことなく、お伝えしてまいります。ご一緒に、学んでまいりましょう。

正信偈は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)がおつくりになった偈(うた)です。今回は、阿弥陀仏の四十八願と第十八願というテーマでお話します。

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◆正信偈の偈文(げもん)

ではまず、本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
(こんりゅうむじょうしゅしょうがん ちょうほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
(ごこうしゆいししょうじゅ じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

【書き下し文】
無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
五劫(ごこう)これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。
重ねて誓ふらくは、名声(みょうしょう)十方(じっぽう)に聞えんと。

【意訳】
後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、「悩み苦しむ全てのものを救う」という、この上なくすぐれた願いをたて、「救えなければ、仏とならない」という、たぐいまれな誓いをおこされました。
そして、五劫というとても長い時間をかけて思惟し、様々な仏の救済法の中から、粗悪なものを選び捨て、南無阿弥陀仏の意味を聞きひらいていくことによって救われていくという、すぐれた救済法を選び取り、阿弥陀仏という仏となられたのです。
『重誓偈』には、南無阿弥陀仏(必ず救う。私にまかせなさい)という阿弥陀仏の名のりを、全ての世界に響き渡らせると重ねて誓われています。

◆四十八願とは

今回の偈文に、「建立無上殊勝願」(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)、「超発希有大弘誓」(ちょうほつけうだいぐぜい)とあります。この部分の書き下し文は、「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」となります。

「無上殊勝の願を建立し」とは、直訳すると「この上なくすぐれた願いを建て」という意味になります。「希有の大弘誓を超発せり」とは、「きわめてまれな誓いをおこしました」という意味です。

「無上殊勝の願」という「この上なく勝れた願い」。そして、「希有の大弘誓」という「きわめてまれな誓い」。この願いと誓いは、どちらも同じ四十八願をさしています。

四十八願とは、後の阿弥陀仏である法蔵菩薩が建てた四十八の願いのことです。そして、この願いと誓いは、根本的には四十八願の中の十八番目、第十八願をさしています。

◆四十八願の分類

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法蔵菩薩が建てたこの四十八願、四十八の願いは、どのような内容かというと、古来から大きく3つに分類できると言われます。この分類について、四十八願にどのような願いが誓われているのか、その内容が分かりやすいのでご紹介します。

3つの分類のうちの1つが、摂法身の願(しょうほっしんのがん)と言います。これは、「このような仏になりたい」という願いです。法蔵菩薩が、四十八の願いを建てられ、その中の第十二願、第十三願、第十七願には、「このような仏になりたい」と誓われています。これを、摂法身の願として分類しています。

3つの分類のうちのもう1つが、摂浄土の願(しょうじょうどのがん)と言います。これは、「このような浄土をつくりたい」という願いです。浄土とは、仏の国のことです。「このような仏の国をつくりたい」というのが、摂浄土の願です。四十八願の中、第三十一願、第三十二願に、「このような仏の国をつくりたい」と誓われています。

そして、それ以外の願いは、摂衆生の願(しょうしゅじょうのがん)に分類されています。摂衆生の願に分類されている願いには、「人々をこのように救いたい」とか、「浄土の人々や菩薩をこのようにあらせたい」といった願いが説かれています。

このように、法蔵菩薩の四十八願にはどのような願いが誓われているかというと、「このような仏になりたい」とか、「このような仏の国をつくりたい」とか、「人々をこのように救いたい」といった願い、誓いが建てられています。

◆第十八願

そして、この四十八の願い、四十八願のうち、根本となるものは十八番目の第十八願であると、親鸞聖人の師である法然聖人は見ていかれます。それを受け継いだ親鸞聖人もまた同様に、第十八願を根本の願いであると見ておられます。

第十八願は、四十八願のうち、根本の願いであるとして、本願とも言います。浄土真宗のお寺の法要などに参詣したことがある方は、お説教の場で本願という言葉を聞いたことがあるかもしれません。

その本願とは何かというと、浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏という仏様が、仏になる前の法蔵菩薩の時に建てられた願いであり、誓いのことです。

私は、「このような仏になりたい」とか、「このような仏の国をつくりたい」とか、「人々をこのように救いたい」とか、四十八の願いを建てます。その四十八願のうちの最も重要で根本的な願いが、第十八願ではないか。そのように、浄土宗の開祖の法然聖人や、浄土真宗の宗祖の親鸞聖人は見ておられるということです。

では、第十八願の御文(ごもん)を、実際に見てみましょう。第十八願、本願には、このように誓われています。まず、お経の書き下し文から見てみます。

「たとひわれ仏(ぶつ)を得たらんに、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)、至心(ししん)信楽(しんぎょう)してわが国(くに)に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念(じゅうねん)せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除く」

お経には、漢文で書かれておりますが、今読んだものはその漢文の書き下し文になります。後の阿弥陀仏である法蔵菩薩が、四十八の願いの十八番目に誓われた第十八願は、このような御文になります。これだけでは、分かりづらいかと思いますので、書き下し文と、現代語訳を対比しながら見てみましょう。

スライド15

「たとひわれ仏(ぶつ)を得たらんに」という部分は、「私が仏になったならば」という意味です。私というのは、後の阿弥陀仏である法蔵菩薩です。法蔵菩薩が、この第十八願を誓われています。

「十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)」という部分は、「全ての生きとし生けるものが」という意味です。

「至心(ししん)信楽(しんぎょう)して」というのは、「私の真心からの願いを疑いなく信じ」というような意味になります。

そして、「わが国(くに)に生ぜんと欲(おも)ひて」とは、「浄土という仏の国に往き生まれたいと思い」という意味です。

「乃至(ないし)十念(じゅうねん)せん」とは、「たとえ十回でも念仏するならば」という意味です。念仏とは、南無阿弥陀仏と称えることです。

「もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ」とは、「必ず浄土に往き生まれる。もしそうならなければ、私は仏とならない」という意味です。

「ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除く」とは、「ただし、五逆という罪をおかしたり、真理である仏の教えをそしったものは、その救いから除かれる」という意味です。

現代語訳を通して読みますと、法蔵菩薩は、第十八願にこのような願いを誓われています。

私が仏になったならば、全ての生きとし生けるものが、私の真心からの願いを疑いなく信じ、浄土という仏の国に往き生まれたいと思い、たとえ十回でも念仏するならば、必ず浄土に往き生まれる。もしそうならなければ、私は仏とならない。ただし、五逆という罪をおかしたり、真理である仏の教えをそしったものは、その救いから除かれる。

第十八願とは、このような願い、誓いになります。この第十八願を、法蔵菩薩、阿弥陀仏の根本の願いであるとして、本願と言っているわけです。

要点を言えば、第十八願には、「全てのものを救いたい。救うことができなければ、私は仏とならない」、という阿弥陀仏の真心と、どのように救っていくのかということが説かれています。

多くのものたちが、迷い、悩み、苦しみながら生きている。その姿を見て、そのものたちを救わずにはおれないと、法蔵菩薩は願いを建てた。それが四十八願であり、その根本が第十八願です。

第十八願には、迷いやすく、悩み苦しみの多いこの世界に、あなたのことをずっと思い通しの仏がいるよ。迷い苦しみの中にも、温もりに包まれて生きていける道があるよ。だからどうか、私の願いをそのまま受け取ってほしい。そうした法蔵菩薩、阿弥陀仏の真心が、願いとして説かれています。

そして、人生の指針に、人生の終着点に、浄土という仏の国を用意したよ。いのち終えていくときには、必ずあなたを仏の国に摂め取りましょう。
そうしたお浄土の世界観も、第十八願には説かれています。

老いや病や孤独。そんな心細い時には、南無阿弥陀仏と喚びなさい。いつも私がおりますよ。怒り、腹立ち、ねたみ。人の世や自分の罪深さに嘆く時にも、南無阿弥陀仏と称えなさい。私の願いや行いの功徳も、南無阿弥陀仏には全てがつまっておりますよ。南無阿弥陀仏とお念仏を称えてほしい。

南無阿弥陀仏と称えることは、阿弥陀仏の名を称えることであり、阿弥陀仏を依りどころとするということです。そうしたお念仏のことも、この第十八願には説かれております。

「あなたたちを救わずにはおれない。救うことができなければ、私は仏とならない」。この第十八願、本願を見ていくと、こうした阿弥陀仏の必ず救うという真心と、どのように救っていくのかということが説かれています。

今回は、「正信偈」の「建立無上殊勝願」(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)、「超発希有大弘誓」(ちょうほつけうだいぐぜい)という偈文について、見ていきました。

無上殊勝の願という、この上なく勝れた願いも、希有の大弘誓というきわめてまれな誓いも、どちらも四十八願というものをあらわしているということでした。そして、根本的には、四十八願の中の十八番目、第十八願をさしています。

その第十八願、本願には、全てのものを必ず救うという法蔵菩薩、後の阿弥陀仏の願いが誓われています。今回は、このような内容を見てきました。

一つ一つ、偈文を読みながらおこなっておりますので、仏教用語などが難しいと感じられるかもしれません。一度で意味がつかめなくても、この動画を繰り返し見ていただくと、より理解が深まるかと思います。是非、Youtubeのチャンネル登録もしていただき、動画を繰り返しご覧いただければと思います。

また、こうした内容に関心がありそうな方や、浄土真宗のお寺に通われているお知り合いの方がおられたら、是非この動画や、信行寺の「オンラインお寺参り」もお勧めいただければと思います。

次回は、「五劫思惟之摂受」(ごこうしゆいししょうじゅ)の五劫について、なぜ法蔵菩薩は、四十八願を建てるのに、五劫というとても長い時間を要したのか。長い時間をかけたということには、どういう意味が込められているのか。五劫という言葉に込められた意味について、見ていきたいと思います。

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最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌

福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

【正信偈を学ぶ】

▼次回の内容

仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第11回_五劫思惟の意味するところ | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

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仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第9回_阿弥陀仏のこの上なくすぐれた願い | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

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◇参照文献:
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(信行寺までお問い合わせください。 https://shingyoji.jp/ )