浄土真宗【正信偈を学ぶ】第4回_南無阿弥陀仏とは

【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズ。今回は4回目です。

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「正信偈」(しょうしんげ)とは、正式には「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)といい、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん/1173~1263)がおつくりになった偈(うた)です。

「正信偈」では親鸞聖人が、浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来という仏様のお徳を讃え、また阿弥陀如来の救いの教えを伝えてくださった高僧のご遺徳を讃えています。浄土真宗において「正信偈」は、日々となえられるとても日常的なものです。

この【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズでは、「正信偈」の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいりたいと思います。「正信偈」にどんな内容が書いてあるのかが分かると、となえる時の心持ちも変わってくるかと思いますので、共に学んでまいりましょう。

さて今回も引き続き、「正信偈」冒頭の二句、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)の内容を味わってまいります。

「南無阿弥陀仏」というお念仏は、皆様聞かれたことがあるでしょうか。実は、「南無阿弥陀仏」というお念仏は、この「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉と同じ意味なのですね。そういったお話を、今回はしてまいりたいと思います。

それではさっそく見てまいりましょう。

◆本日の偈文(げもん)

では、「正信偈」冒頭の二句について、本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。宜しい方は、口に出して読んでみてください。

【本文】
帰命無量寿如来 南無不可思議光
(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)

 

【書き下し文】
無量寿如来(むりょうじゅにょらい)に帰命(きみょう)し、不可思議光(ふかしぎこう)に南無(なも)したてまつる。

 

【意訳】
はかり知れないほどの大きな慈悲の心で、過去、現在、未来の悩み苦しむ全てのものを、救おうと願って下さる阿弥陀如来に、私親鸞は帰依致します。
また、思いはかることができないほどのすぐれた智慧の光で、すべてのものを照らし、導いて下さる阿弥陀如来に、私親鸞は帰依致します。

 

◆南無阿弥陀仏というお念仏

さて、改めて皆様、「南無阿弥陀仏」(なもあみだぶつ)というお念仏を聞いたことはあるでしょうか。

浄土宗や浄土真宗のご家庭の方は、お仏壇の仏様に手を合わせる時にとなえたり、ご法事などで称えたことがある方もおられることでしょう。昔からの熱心なご門徒さんは、口からこぼれ出るように、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称える方もおられます。

浄土真宗本願寺派では、「南無阿弥陀仏」(なもあみだぶつ)といいますが、浄土宗や真宗大谷派などは、(なむあみだぶつ)というそうです。いい方は違っても、意味はどちらも同じです。

そして、伝統的に称える時は、「なんまんだぶ」や「なんまんだぶつ」と称えることが多いです。勿論、「なもあみだぶつ」と称えていただいても、その意味から考えてもおかしなことではありません。

 

◆南無という言葉の意味

次に、南無阿弥陀仏という言葉の意味を見てまいりましょう。

南無(なも)とは、昔のインドの言葉で「ナマス」(namas)と言い、その音の響きに漢字を当て、南無という言葉になったと言われています。

「ナマス」という言葉に、南と無という漢字を当てたように、ある言語の言葉を、音の響きで他の言語の文字を当てて書き写すことを音写(おんしゃ)と言います。

お経は、お釈迦様の説法であり、最初は現在のインドやネパールあたりで編纂されています。

日本に伝わるお経は、中国を経由して伝わっているものがほとんどです。もともとは、昔のインドの言葉であったお経が、中国に伝えられる時に、中国の言葉に翻訳されたり、音写されました。今我々が、日本で目にしたり、となえるお経が漢字なのは、中国で翻訳・音写されたお経が日本に伝わったからです。

翻訳と音写とは違いまして、翻訳はもともとの言葉の意味をとって言葉にしますね。

例えば、英語のEatという言葉を日本語に翻訳すると、食べるという言葉になります。これが翻訳ですね。Eatという、もともとの音の響きは関係なく、言葉の意味をとって、食べると表現するのが翻訳ですね。

ですが、音写は、言葉の意味ではなく、言葉の響きに文字を当てて言葉にします。英語のEatを、日本語のカタカナでイートと表現することがありますね。これが、音写だと考えていただくと分かりやすいかと思います。このカタカナのイートは、食べるという意味からではなく、響きから言葉にしています。

この例では、漢字ではなくカタカナを用いていますが、音写がどういうものかが分かりやすいかと思い、例を出してみました。音写がどういうものかが分かったところで、「南無阿弥陀仏」という言葉に話を戻しますね。

 

「南無阿弥陀仏」の南無とは、もともとは昔のインドの言葉で「ナマス」(namas)と言い、その音の響きに南無という漢字を当て表現されたと言われています。

南無という漢字は音写されたものですので、南と無という漢字自体で、「ナマス」(namas)という言葉の意味を表現しようとはしていません。つまり、南無阿弥陀仏の南と無という漢字を見て、どういう意味なのだろうかと考えてみても、その漢字からは意味が分からないということになります。

それは、南無は音写されたものであり、「ナマス」(namas)という音の響きに漢字を当てたものだからです。

では、「ナマス」(namas)という言葉は、どういう意味をもった言葉なのでしょうか。

「ナマス」(namas)を翻訳すると、帰命と訳されます。

帰命という言葉は、聞き覚えがありますね。そうです。「正信偈」の「帰命無量寿如来」の帰命です。

ですから、「南無阿弥陀仏」の南無も、「帰命無量寿如来」の帰命も、同じ言葉であるということが言えます。

 

そして、「ナマス」(namas)という言葉は、帰依するとか、依りどころにするという意味だそうです。

ですから、「ナマス」(namas)という言葉の意味をとって翻訳すれば、帰命となるということです。帰命という言葉の意味は、帰依するとか、依りどころにするという意味だと以前申し上げたことと、話がつながってきます。

確認すると、「ナマス」(namas)という言葉は、その意味からいえば帰命、音の響きからいえば南無となるのでした。

ですから、「南無阿弥陀仏」の南無も、「帰命無量寿如来」の帰命も、「南無不可思議光」の南無も、同じ言葉であることが分かります。

今回申し上げたいのは、「南無阿弥陀仏」も「帰命無量寿如来」も「南無不可思議光」も同じ言葉なのですよということです。

親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」というお念仏を、別の言葉で表現しようとして「正信偈」には、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉を用いられていますが、実は、「南無阿弥陀仏」ということなのですよということが、今回申し上げたいことです。

ここまでで、「南無阿弥陀仏」の南無も、「帰命無量寿如来」の帰命も、「南無不可思議光」の南無も、同じ言葉であることがお分かりいただけたかと思います。

 

◆阿弥陀仏という言葉の意味

そして、「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏も、「帰命無量寿如来」の無量寿如来も、「南無不可思議光」の不可思議光如来も、同じ言葉であることになります。

前回までに、無量寿如来も不可思議光如来も、ともに阿弥陀如来のことを指していることを申し上げました。如来とは仏様という意味で、阿弥陀如来といっても、阿弥陀仏といっても同じことです。「南無不可思議光」では、如来という言葉が略されていますが、不可思議光如来ということです。

第2回と3回の内容をご覧いただくと、さらに理解が深まるかと思いますので、またご覧になってみてください。さて、話を先に進めます。

 

「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏という言葉についても、その意味を見ていきましょう。

阿弥陀とは、昔のインドの言葉でアミタ(Amita)という言葉に漢字を当てたものと言われています。先ほどから言っております、音写ですね。アミタ(Amita)という言葉の響きに、阿弥陀という漢字を当てて言葉にしております。

ですので、南無と同じように、阿弥陀という漢字自体には、意味は込められておりません。

では、アミタ(Amita)という言葉がどういう意味かというと、「アミターバ」(Amitabha)、アミターユス(Amitayus)と言われます。

「アミターバ」(Amitabha)とは無量光(むりょうこう)という意味で、アミターユス(Amitayus)とは無量寿(むりょうじゅ)という意味だと言われます。

無量光と無量寿という言葉、前回と前々回にお話をさせていただきましたので、覚えていらっしゃる方もおられるでしょうか。

無量光とは、はかることができないほどの光という意味で、不可思議光とも言われます。「南無不可思議光」という部分に、不可思議光と出てまいりますね。

無量光、不可思議光とは、我々には思いはかることのできないほどの光ということで、阿弥陀如来という仏様のお徳を表しています。

それは、光でもって、どこまでもくまなく照らし、全てのものを救い、導いていくという阿弥陀如来のお徳を表現しているということでした。

阿弥陀という言葉には、無量光、不可思議光という意味があるということですね。

 

そして、無量寿とは、はかることのできないいのちという意味で、こちらも阿弥陀如来のお徳を表しています。

阿弥陀如来という仏様は、ずっと昔から、悩む苦しむものを見ては、救わずにはおれないと哀れみの心を抱き、願い続け、現に救おうとはたらきかけ続けておられる仏様である。そのような阿弥陀如来のお徳を、無量寿という言葉で表現されています。

阿弥陀という言葉には、無量寿という意味があります

 

ですから、「南無阿弥陀仏」の阿弥陀と、「帰命無量寿如来」の無量寿と、「南無不可思議光」の不可思議光とは、同じ言葉であることが分かります。

そして、「南無阿弥陀仏」の仏も、「帰命無量寿如来」の如来も同じ言葉で、仏様ということです。

「南無不可思議光」には如来という言葉が省略されていますが、不可思議光如来ということでした。

つまり、「南無阿弥陀仏」というお念仏は、「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉と同じ言葉、同じ意味になります。

 

◆まとめ

最後にまとめていきます。

「南無阿弥陀仏」の南無とは、昔のインドの「ナマス」(namas)という言葉を音写して漢字を当てたものでした。

南無とは、帰命と訳され、帰依するとか、依りどころにするという意味でした。

そして、「南無阿弥陀仏」の阿弥陀とは、昔のインドの(Amita)という言葉を音写して漢字を当てたものでした。

アミタ(Amita)とは、「アミターバ」(Amitabha)無量光と訳され、アミターユス(Amitayus)無量寿と訳されます。

つまり、阿弥陀とは、無量寿、無量光という意味で、「帰命無量寿如来」の無量寿、「南無不可思議光」の不可思議光と同じ言葉になります。

「正信偈」冒頭の二句、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とは、どちらも「南無阿弥陀仏」と同じ言葉、同じ意味で、「南無阿弥陀仏」というお念仏を別の言葉で表現したものでした。

意味はいずれも、阿弥陀如来という仏様に帰依しますという意味になります。

「正信偈」をつくられた親鸞聖人が、「私親鸞は阿弥陀如来に帰依致します」と述べておられるのが、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という「正信偈」冒頭の二句ということになります。

阿弥陀如来とは、無量寿という、ずっと昔からいつでも我々のことを願い続け、そして無量光(不可思議光)という、どこでも、どこまでも願い続け、
救おうとはたらきかけ続けておられる仏様です。

そんな阿弥陀如来に私親鸞は帰依しますと述べ、この「正信偈」をとなえる人々にも、その阿弥陀如来の願いや救いをどうか知ってほしい。
南無阿弥陀仏というお念仏を称え、仏縁を喜ぶ人にどうかなってほしい。
そうした親鸞聖人の思いが、この「正信偈」冒頭の二句から伝わってくるように思います。

こうした阿弥陀如来の願いや、親鸞聖人の思いを、我々は聞き学んでいくことが大切であるように思います。
そして、「南無阿弥陀仏」というお念仏を称え、阿弥陀如来のご恩に感謝していくことが、仏様の願いにかなった生き方であることのように思います。

この【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズが、少しでもそのお役に立てればと思っております。

今回も、「正信偈」冒頭の二句、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について、その意味を味わってまいりました。

それでは最後に今一度、本文、書き下し文、意訳と味わいましょう。
宜しい方は、私とご一緒に、おとなえを致しましょう。

【本文】
帰命無量寿如来 南無不可思議光
(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)

 

【書き下し文】
無量寿如来(むりょうじゅにょらい)に帰命(きみょう)し、不可思議光(ふかしぎこう)に南無(なも)したてまつる。

 

【意訳】
はかり知れないほどの大きな慈悲の心で、過去、現在、未来の悩み苦しむ全てのものを、救おうと願って下さる阿弥陀如来に、私親鸞は帰依致します。
また、思いはかることができないほどのすぐれた智慧の光で、すべてのものを照らし、導いて下さる阿弥陀如来に、私親鸞は帰依致します。

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最後までご覧いただきありがとうございます。

 

合掌

福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)

神崎修生

▼正信偈の基礎を学ぶシリーズ

【正信偈の基礎を学ぶ】#003 自分中心に生きてしまう自分 | 信行寺 (shingyoji.jp)

【正信偈の基礎を学ぶ】#002 | 信行寺 (shingyoji.jp)

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