皆様、本日もようこそお参りくださいました。【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズ。本日は3回目です。
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「正信偈」(しょうしんげ)とは、正式には「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)といい、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん/1173~1263)がおつくりになった偈(うた)です。
「正信偈」では親鸞聖人が、浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来という仏様のお徳を讃え、また阿弥陀如来の救いの教えを伝えてくださった高僧のご遺徳を讃えています。
浄土真宗において「正信偈」は、ご法事や法要という行事や、また日々の勤行など、お寺やご門徒様のお宅でとなえられている日常的なものです。
この【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズでは、「正信偈」の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいりたいと思います。
「正信偈」にどんな内容が書いてあるのかが分かると、となえる時の心持ちも変わってくるかと思いますので、共に学んでまいりましょう。
今回は、前回に引き続き、「正信偈」冒頭の二句、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)について、その意味を味わってまいります。
◆本日の偈文(げもん)
では、「正信偈」冒頭の二句について、本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。
【本文】
帰命無量寿如来 南無不可思議光
(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)
【書き下し文】
無量寿如来(むりょうじゅにょらい)に帰命(きみょう)し、不可思議光(ふかしぎこう)に南無(なも)したてまつる。
【意訳】
はかり知れないほどの大きな慈悲の心で、過去、現在、未来の悩み苦しむ全てのものを、救おうと願って下さる阿弥陀如来に、私親鸞は帰依致します。また、思いはかることができないほどのすぐれた智慧の光で、すべてのものを照らし、導いて下さる阿弥陀如来に、私親鸞は帰依致します。
◆前回の振り返り
改めて前回の概要を、補足しながら振り返ってみたいと思います。
「帰命無量寿如来」の帰命(きみょう)という言葉も、「南無不可思議光」の南無(なも)という言葉も、共に帰依する、依りどころにする、信順するとか、心から信じ敬うといった意味でした。帰命も南無も、共に帰依するという言葉でした。
何に帰依するかというと、「帰命無量寿如来」とある無量寿如来であり、「南無不可思議光」とある不可思議光如来に、帰依するのでした。
無量寿如来も不可思議光如来も、共に阿弥陀如来という仏様のことをさしています。阿弥陀如来とは、浄土真宗でご本尊として敬っている仏様のことです。
つまり、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉は、阿弥陀如来という仏様に帰依しますという言葉になります。「正信偈」をつくられた親鸞聖人自身が、私親鸞は阿弥陀如来に帰依しますと述べられている部分が、この「正信偈」冒頭の二句でした。
無量寿如来も、不可思議光如来も、共に阿弥陀如来のことを指しているのであれば、親鸞聖人はなぜあえて違う言葉で表現されたのでしょうか。
それは、無量寿という言葉、不可思議光という言葉でもって、阿弥陀如来のお徳を表現しようとされたからでした。
無量寿の無量とは、はかることができないという意味です。寿とはいのちという意味をもっており、如来とは仏様のことです。つまり、無量寿如来とは、はかることのできないいのちをもった仏様という意味になります。
これはどういう意味かというと、阿弥陀如来という仏様は、ずっと昔から、悩む苦しむものを見ては、救わずにはおれないと哀れみの心を抱き、願い続け、現に救おうとはたらきかけ続けておられる仏様である。そのような阿弥陀如来のお徳を、無量寿如来という言葉で表現されています。
そして、不可思議光とは、無量光(むりょうこう)とも言い、我々には思いはかることのできないほどの光をもった仏様であることを表しています。
それは、光でもって、どこまでもくまなく照らし、全てのものを救い、導いていくという阿弥陀如来のお徳を表現しています。
つまり、阿弥陀如来とは、無量寿という、ずっと昔からいつでも我々のことを願い続け、そして無量光(不可思議光)という、どこでも、どこまでも願い続け、救おうとはたらきかけ続けておられる仏様です。
そんな阿弥陀如来という仏様に、私親鸞は帰依致します。こういう意味が、「正信偈」冒頭の二句、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉に込められています。
ここまでが前回の内容でした。
こうした仏様の教えは、何度も繰り返し聞いていく中で、味わいが深まったり、聞こえ方が変わってきたりしますので、同じ内容でも繰り返しお伝えをしてまいります。
◆光で暗闇を照らす
さてここから、「南無不可思議光」とある光について、もう少し味わいを深めてまいりたいと思います。
光で仏様のお徳を表現することはよくあります。「正信偈」の「南無不可思議光」の不可思議光という言葉は、阿弥陀如来が光でもって、どこまでもくまなく照らし、全てのものを救い、導いていくというお徳が表現されています。
仏様のお徳を光にたとえるのとは対称的に、我々のあり方、心のあり方を暗闇にたとえることがあります。我々のあり方、心のあり方が暗闇であるとは、どういうことでしょうか。
それはつまり、いつもいつも自分を中心において、物事や出来事を見て考えてしまうあり方を暗闇にたとえられています。物事や出来事を自分中心に見るとは、ありのままに見ていないということでもあります。
我々は、同じ人を見て、ある人はいい人だといい、ある人はあの人は感じの悪い人だということがないでしょうか。判断が分かれるのは、自分にとっての都合の良し悪しや、好き嫌いなど、自分中心に見て判断しているからですね。でも、本当にその人がどういう人かは、実際には分かりません。我々は、どうしても一面しか見ることができません。
この一例のように、我々は色々な人やもの、出来事などの一面を切り取り、自分中心に見ていることがあります。ですから、物事や出来事をありのままに中々見れていません。自分の価値観や立場、経験、感情などを通して見ています。そういった習性を、我々は持っているということですね。
そして、ついつい自分の見方が正しい、人が間違っていると、自分の見解に執着し、正義として主張し、人を傷付ける場合もあるのではないかと思います。逆に、人が正しい、自分は間違っていると、自分を卑下し、自分を傷付ける場合もあるかと思います。
こうした自分中心に物事や出来事を見て考えてしまい、自分や人を傷付け苦しんでいるようなあり方を暗闇にたとえられています。
そしてまた、自分の思い通りにならなければ腹を立てたり、悲しんだり、苦しみの思いを抱いたり、逆にある程度思い通りになれば喜ぶというような自分中心の心を我々はどうしても持っています。自分中心の心は、自分の思い通りにならなければ、怒り、悲しみなどの苦しみの感情を抱きます。
苦しみの根源は、自分中心に生きていることにあり、思い通りにならない中に苦しみが生まれてくるとするのが仏教です。こうした自分中心に生き、自分の思い通りにならず苦しんでいるような我々のあり方を、暗闇にたとえられています。
暗闇を照らす仏様の光とは、我々が自分中心に生きていること、それによって苦しみが生まれていること、そうしたことに気付いてほしいという仏様からの問いかけであり、喚び声であると言われます。
阿弥陀如来のもつ不可思議光、無量光という光には、我々の自分中心のあり方、心のあり方を照らし、気付かせていくというはたらきがあると言われます。
ですから、仏様の光は智慧の光と言われます。智慧とは、良し悪しや好き嫌いでものごとを見ることなく、ありのままに見ていくことのできることを言います。
光に照らされるということが分かりづらければ、仏教の教えに出遇うというように捉えても良いかと思います。仏様の教えに出遇う、仏様の光に照らされる、その中で自分というものがいよいよ見えてくる。自分の本性のような、自分中心のあり方というものがいよいよ見えてくる。そういったことが言えるのではななかろうかと思います。
◆自分を奥底まで見つめた親鸞聖人
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人という方は、まさしく自分とはどういう存在であるかを、奥深くまで見つめていかれた方ではなかったかと思います。
自らの執着を手ばなし、ありのままに物事を見ていく。そのような智慧をいただいていこうと、20年もの間、比叡山にて行を重ねましたけれども、それがいっこうに成し遂げられなかった。いっこうに迷い苦しみから抜け出すことができなかった。
そして、修行の地である比叡山を降り、法然聖人のもとで、阿弥陀如来の光に照らされていることに気付かされていく。その中で、救われ難い自分中心の自分が、見えてきたことではなかったでしょうか。
ただし、比叡山での修行時代と、法然聖人のもとでの時代では、親鸞聖人は自分を見つめて、同じ自分中心の自分であると感じながらも、その受け止め方は違っておられたのではないかと思います。
それは、悩み苦しんでいるものを必ず救うという、阿弥陀如来の慈悲の心に同時に触れておられたからではないでしょうか。
◆自分中心に生きてしまう自分
我々に引き寄せて考えてみても、様々な欲を持つ自分であったり、この身体を持っているがゆえに細胞レベルで自分中心に生きてしまうところがあるかと思います。
色々な食べ物を、同じいのちでありながら食べずには生きていけない我々がいます。ある方が言われていましたけれども、戦地に行って、相手に銃口を向けられた時にとっさに打ってしまう。そういう我々がいるかもしれませんね。
人のためにと思ってみても、次の瞬間には自分のことを考えている自分がいます。相手の悩み相談に対して、相手の思いを聞くつもりが、いつの間にか自分の意見ばかりを言ってしまっている自分がいないでしょうか。
そして、自分の思い通りに動かない相手に対して怒り、相手が失敗すればそれ見たことか、自分の思い通りにしなかったからだと声を上げる自分がいないでしょうか。
「南無不可思議光」の不可思議光という光で照らすとは、自分中心に生きることしかできない我々人間のあり方に気付かせようとする仏様からの問いかけであり、喚び声であることを表現されているように感じます。
そして、気付いても中々どうすることもできない我々を見越して、必ず救うという仏様の慈悲の心が、「帰命無量寿如来」の無量寿という言葉に込められているように思います。
智慧の光で照らし導き、必ず救おうと慈悲の心で願い続けておられるという阿弥陀如来のお徳を讃えているのが、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という「正信偈」の冒頭の二句と言えようかと思います。
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最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼正信偈の基礎を学ぶシリーズ
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