今回は、「人生が豊かになる心がけ」というテーマで、お話をさせていただきます。
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◆人生を問い直す縁
以前もご紹介させていただいたのですが、作家の高史明(こさみょん)さんという方がおられます。
高さんは、昨年(2023年)の7月に、91歳でご往生されました。
その高史明さんは、ご自身の息子様との死別を通して、『歎異抄』という仏教書を本格的に読み込まれるようになり、仏教を人生の依りどころとされた方でした。
高さんには、正史(まさふみ)さんという一人息子さんがおられました。
その正史さんが中学生になった時に、高さんは三つのことを伝えたそうです。
一つ目は、今日から君は中学生になるんだから、自分のことは自分で責任を取りなさいということ。
二つ目は、他人に迷惑をかけるなということ。
三つめは、自分のことが自分で責任を取れて、他人に迷惑をかけなければ、お父さんは君に何も言わない。自分の人生だから、自分の責任で生きていきなさい。
そういうことを、高さんは息子の正史さんが中学生になった時に伝えたそうです。
しかしその後、正史さんは自らいのちを断ちます。自死をなさるのですね。
高さんは、自ら送った言葉が息子を死に追いやったのではないかと、後ほど振り返ってみて思うようになったと言います。
高さんにとって正史さんの死は、「これまでの自分の生き方や考え方は、本当に正しかったのだろうか」と問い直させられるような出来事だったと言います。
◆おかげさまで自分がある
高さんは晩年に、インタビュアーからこのような質問をされていました。
「正史さんに対して、本当はどのような言葉をかけてあげると良かったと思われますか」。
そういう質問に対して、高さんはこのように答えておられました。
「息子が中学生になった時に、私はそう言うべきだったんですね」と、高さんはおっしゃっていました。
自分で責任を取り、人に迷惑をかけないという生き方は立派です。
そうありたいという思いは、私にもありますし、誰しもあるのではないでしょうか。
高さんも、若い頃にお父様に随分と迷惑をかけたようで、自分で責任を取り、人に迷惑をかけない生き方を志すようになったと言われていました。
しかし、改めて考えてみれば、自分が今あるのは自分の力だけではありませんし、誰にも迷惑をかけずに生きてきたとはとても言えません。
今も日々、家族をはじめ、色々な方のお世話になりながら、生きていることに気付かされます。
また、食事を通して、毎日多くのいのちをいただいていることに気付かされます。
多くのおかげさまがあって、今の自分があります。
高さんも、正史さんの死を通して、そして仏教に触れる中で、多くのおかげさまがあって今の自分があることを、しみじみと感じるようになったのかもしれません。
◆何のために生きているのか
自立することや迷惑をかけないことは、社会生活を送る上では、大事なことかもしれません。
しかし、それだけでは生きる意味を見い出すことは難しいのではないでしょうか。
子どもの頃から勉強をして、大人になったら仕事をして頑張ってきたけれど、「自分は何のために生きているのか」という問いにふと直面することがあります。
一生懸命働いて、お金がない中でも何とか子どもを育てあげた。しかし、ふとした時に「自分は何のために頑張ってきたのか」という問いに直面することがあります。
私は今40歳になりますが、28歳の時に「自分は何のために生きているのか」という問いにふと直面して、仏道を歩むことを決めました。
30歳前後は、そういうことを考える人生の転機なのかもしれませんね。
それくらいの時期に、転職をしたり、結婚をする方も多いのではないでしょうか。
それはひょっとすると、「自分は何のために生きているのか」という問いに直面しているのかもしれません。
お釈迦様は、29歳の時に出家したと言われています。また親鸞聖人も、29歳の時に比叡山を下山され、人生の転機を迎えられました。
以前お話をした60代の男性は、このようなことを教えてくださいました。
その60代の男性は、二人の娘様が結婚をし、実家を出ていったそうです。
娘さんが結婚をしたことは、寂しさもありながら、嬉しいことだったようです。
しかし、その娘さんが自分で育ったような顔をして、出て行ったそうなのですね。誰のお世話にもなっていないような顔をして、出て行ったそうです。
その娘さんの様子を見て、「自分はいったい何のために頑張ってきたのか」と思ったそうです。
また同時に、「自分は娘の育て方を間違えてしまったのではないか」と思ったとも言われていました。
私もこの話を母親にしたら、「あんたも自分で育ったような顔をしていた時期があった」と言われました。誰しもそういう時期があるのかもしれませんね。
◆知恩報徳
さて、多くのおかげさまがあって、今の私たちがあります。
しかし、私たちはそのおかげさまを忘れてしまうことがあります。
おかげさまを忘れた時に、自分が今あるのは、誰のおかげでもなく、自分のおかげだと思ったり、誰のお世話にもなっていないと勘違いしてしまいます。
また逆に、自分は一人ぼっちだという孤独に苛まれることもあります。
自立することや迷惑をかけないことは、社会生活を送る上では、大事なことかもしれません。
しかし、それだけでは生きる意味を見い出すことは難しいのではないでしょうか。
そしてまた、人生において大切なものを見失いながら生きているような感覚になるのではないでしょうか。
多くのおかげさまがあって、今の自分があるということを知ることで、この人生を喜び、感謝することにもつながります。
そして、日常の些細なことにも喜べ、生きる意味が見出されてきます。
家族や友人といる時間は、当たり前ではなかった。
身体が動いて、仕事や家事ができているのも当たり前ではなかった。
日々食事ができていることは当たり前ではなかった。
そのように、色々なことを当たり前ではないと思え、多くのおかげさまで今があることを実感できると、日々の些細なことにも、感謝や喜びを感じるのではないでしょうか。
そのことを親鸞聖人は、知恩報徳(恩を知り、感謝する)と言われ、仏教(仏様の教え)に触れた利益だと言われています。
信行寺のご門徒の方に、以前このようなことを教えていただきました。
その方はご年配の女性の方ですが、幼い頃から親御様に連れられて、浄土真宗のお寺にお参りをされていたそうです。
「お寺やご先祖にお参りをすること、仏様の教えを聞くことは、樹で言えば、地面に根をはり、幹を育てるようなことだよ」と、親御様から言われて育ったそうです。
地面に根がはらず、幹が育っていなければ、枝や葉っぱは育ちませんね。
「枝や葉っぱだけを育てようとしてもだめだよ。地面にしっかりと根をはり、豊かな幹を育てなさい」。
そのようなことを言われて育ったそうです。
私はそのお話を伺って、とても素晴らしい考え方だと思いました。
私自身もお寺にいて、仏様の教えを聞く中で、地面にしっかりと根をはり、豊かな幹を育てるような生き方の大切さを実感します。
自立することや迷惑をかけないことばかりを意識した生き方は、樹で言えば、枝や葉だけを育てようとしていることかもしれません。
そしてまた、多くのおかげさまによって自分があると知らされ、感謝や喜びや感動のある生き方は、地面に根をはり、豊かな幹を育てることだと思いました。
仏教に出遇い、その教えを聞いていくことで、多くのおかげさまがあって、今の自分があることを知らされます。
それは、自立することや迷惑をかけないという生き方ばかりではなく、深い感謝や喜びのある生き方へと、人生が転換されていくことです。
そのことを親鸞聖人は、知恩報徳(恩を知り、感謝する)と言われ、仏教(仏様の教え)に触れた利益だと言われています。
◆
いかがだったでしょうか。
今回は、「人生が豊かになる心がけ」というテーマで、お話をさせていただきました。
皆様、どのようなことを感じられたでしょうか。また是非、感想などもお聞かせください。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼一口法話シリーズ
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