【仏教解説】のコーナーでは、仏教に関するテーマを一つ取り上げて、できるだけ分かりやすくご紹介しています。仏教やお寺を身近に感じていただいたり、日々を安らかに、穏やかに過ごすようなご縁となれば幸いです。
前回、煩悩に対する浄土真宗的な考え方について、特に親鸞聖人の修行時代の経験などを通してご紹介しました。今回は、煩悩の最終回。「煩悩を抱えたまま救われていく」という内容でお話したいと思います。
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◆法然聖人との出遇い
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、9歳から29歳まで、その間のほとんどの時間を、比叡山にて仏道修行に励んだと言われています。
しかし、厳しい仏道修行に励めども、自らの力では煩悩を根源とする迷い苦しみから抜け出しようがない。一向に悩み苦しみが晴れてこない。
親鸞聖人は、仏道修行、仏道生活で、煩悩に向き合う中で、そうした問題に突き当ったのではないかと言われています。そして、おそらく絶望の中、比叡山を下山したと言われています。
比叡山下山の後、親鸞聖人は浄土宗の開祖である法然聖人に出遇います。そして、法然聖人を通して、阿弥陀仏の救いの教えに出遇っていかれます。
法然聖人との出遇い、阿弥陀仏との出遇いが、親鸞聖人の今後の人生を決定づける転機となりました。
◆阿弥陀仏の救いの教えとの出遇い
法然聖人は、智慧の法然房と言われるほど秀才な方でしたが、法然聖人も親鸞聖人と同じように、自らの力では煩悩を根源とする迷い苦しみから抜け出しようがないという問題に突き当たられた方だったと言われます。
法然聖人は、親鸞聖人よりも40歳ほど歳が上で、親鸞聖人が歩まれた道を先に歩まれた方でした。
自らの力では、煩悩をいかんともしがたい。悩み苦しみから抜け出しようがない。様々な行を何十年もの間おこなってみても、あらゆる経典の中にその答えを探してみても、いっこうにその答えが見えてこなかったのでした。
そして法然聖人は、阿弥陀仏の救いの教えに出遇ったことによって、道が開けたと言います。それはまさに、これまでの人生が転換するような出来事だったことでしょう。
◆煩悩がさとりの障がいとなる
おおよその仏道修行では、煩悩とはどういうものであるかや、煩悩のおこってくる法則を理解し、自らを戒め、心を整え、物事を正しく見れるように行を修めていきます。そして、煩悩の火が消され、煩悩が抑制され、煩悩によって惑わされることのない状態を目指します。
この煩悩によって惑わされることのない状態のことを、仏教ではさとりや涅槃、解脱とも言っています。
煩悩によって惑わされることがないということは、物事を正しく見ることができるようになるということです。それは、物事を自分のものとか、他人のものとか、好きとか嫌いといった感情に惑わされることがなくなるからです。
そうした煩悩に惑わされることなく、物事を正しく見ることのできる人のことをブッダ(真理に目覚めた人)と言います。ブッダとは、仏様とも言います。
仏教では、そのブッダとなること、仏様となることを目指します。仏教とは、仏となる教えですから仏教と言うわけです。
その仏となり、仏のさとりをひらくには、煩悩の火が消され、煩悩が抑制され、煩悩によって惑わされることのない状態になることが必要です。
しかし、法然聖人も親鸞聖人も、自らの力では煩悩をいかんともしがたいという問題に突き当たったわけです。仏のさとりをひらくために、煩悩という大きな障がいが立ちはだかりました。
◆煩悩を抱えたまま救われていく
しかし、そんな煩悩を抱え、悩み苦しみながら生きているものたちを救いたいと願われている阿弥陀仏という仏様がいる。法然聖人は、膨大な数の経典を何度も何度も読み返すうちに、そうした教えに出遇います。
阿弥陀仏という仏様は、悩み苦しみを抱え、救われようのないものを、その悩み苦しみのまま包み込み、救うという仏様である。そうであるならば、自らの力では煩悩をいかんともしがたい、迷い苦しみから抜け出しようがないこの自分自身も救われていくのではないか。
そして、在俗の生活の中で、仏道修行もままならず、煩悩を抱えたまま暮らしている多くの人々たちも救われていくのではないか。
煩悩という大きな壁に突き当たっていた法然聖人にとって、煩悩を抱えるものを救うという阿弥陀仏の教えとの出遇いは、煩悩や仏道自体の理解が、大きく転換されていくような出来事だったのではないでしょうか。
それは、煩悩を抱えたまま救われていくという、自らの人生も、多くの人々の人生も開けてくるような出来事だったのではないでしょうか。
それ以前から法然聖人は、阿弥陀仏に関する経典に何度も目を通されていたことと思いますが、悩み苦しみの中、絶望の中に触れた阿弥陀仏の教えは、これまでとは違って見えてきたことでしょう。
煩悩という、これまではさとりにおける大きな障がいであったものが、阿弥陀仏の存在によって、煩悩がさとりの重要な要因となった。煩悩を抱え、仏のさとりをひらきようのないものが、煩悩を抱えたまま阿弥陀仏によって救われ、仏となっていく。
それは、人生の転換であり、仏道の大きな転換でもありました。「煩悩即菩提」というように、煩悩がそのままさとりとなっていくような境地がひらかれてきた瞬間ではなかったでしょうか。
それは、先の見えなかった暗闇に、光がさしてきた瞬間であり、絶望から喜びに変わった瞬間だったことでしょう。
その後、法然聖人は、南無阿弥陀仏と念仏をとなえ、煩悩を抱えたまま阿弥陀仏に救われていくという教えを根幹とした浄土宗という宗派をおこしていきます。
そして、それから20数年の時を経て、法然聖人と同じように煩悩をいかんともしがたい問題に突き当たられた親鸞聖人が、法然聖人の門戸を叩くのでした。
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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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◇参照文献:
・『浄土真宗聖典』注釈版/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2TA8xPX
・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
https://amzn.to/3ha42oh
・『仏教入門』/ひろさちや
https://amzn.to/3Fyqf9g
・『和文仏教聖典』/仏教伝道協会
https://amzn.to/3HdKB8q