ここでは、浄土真宗でよくおとなえされる「正信偈」(しょうしんげ)の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいります。題して、【正信偈を学ぶ】シリーズ、今回は第12回目です。

・仏教やお経を学んでみたいという方。
・人生や生き方について関心がある方。
・でも何から学べばよいか分からないという方。
・浄土真宗のお寺とご縁がある方。

そうした方にお勧めの内容です。

さて「正信偈」とは、正式には「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)と言い、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)がおつくりになった偈(うた)です。

「正信偈」には、親鸞聖人自身が、阿弥陀仏という仏様に救われた喜びから、阿弥陀仏のお徳を讃えておられます。

さて今回は、「正信偈」の「五劫思惟之摂受」について、前回から引き続き見ていきます。テーマは、「罪悪の自覚と阿弥陀仏の救い」です。

法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、五劫という長い時間をかけて思惟しなければ救えるとは思えなかったほど、自分自身は重い罪や悪を抱えながら生きているのかもしれない。そしてそんな私を救うために、阿弥陀仏が四十八願、本願を建ててくださった。そうしたことを、親鸞聖人の文章から味わってみたいと思います。

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◆正信偈の偈文(げもん)

ではまず、本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
(こんりゅうむじょうしゅしょうがん ちょうほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
(ごこうしゆいししょうじゅ じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

次に書き下し文です。

【書き下し文】
無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
五劫(ごこう)これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。
重ねて誓ふらくは、名声(みょうしょう)十方(じっぽう)に聞えんと。

次に意訳です。

【意訳】
後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、「悩み苦しむ全てのものを救う」という、この上なくすぐれた願いをたて、「救えなければ、仏とならない」という、たぐいまれな誓いをおこされました。
そして、五劫というとても長い時間をかけて思惟し、様々な仏の救済法の中から、粗悪なものを選び捨て、南無阿弥陀仏の意味を聞きひらいていくことによって救われていくという、すぐれた救済法を選び取り、阿弥陀仏という仏となられたのです。
『重誓偈』には、南無阿弥陀仏(必ず救う。私にまかせなさい)という阿弥陀仏の名のりを、全ての世界に響き渡らせると重ねて誓われています。

◆阿弥陀仏の救いの完全性

前回は、「正信偈」の「五劫思惟之摂受」(ごこうしゆいししょうじゅ)とある五劫思惟という言葉について、「五劫思惟の意味するところ」というテーマでお話させていただきました。

五劫とは、無限に近いような、とても長い時間のことを表しています。後の阿弥陀仏である法蔵菩薩は、五劫というとても長い時間をかけて思惟して、四十八願という四十八の願いを建てます。

四十八願を建てるには、それほどの長い間、思惟しなければならなかった。それは逆に言うと、阿弥陀仏の救いが完全なものであるということを表していました。生きとし生けるものを救うために、長い時間をかけて完全な救済方法を選び取ったということですね。

そして、阿弥陀仏の完全な救いについて説かれていることは、同時に我々に阿弥陀仏の救いにおませして大丈夫なんですよという安心感も表されている。前回は、こうした内容について見てきました。

◆罪悪の自覚と阿弥陀仏の救い

そして今回は、「罪悪の自覚と阿弥陀仏の救い」というテーマで見ていきます。

法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、五劫という長い時間をかけて思惟しなければ救えるとは思えなかったほど、自分自身は重い罪や悪を抱えながら生きているのかもしれないということ。そして、そんな私を救うために、阿弥陀仏が四十八願、本願を建ててくださったということ。そうしたことを、親鸞聖人の文章から味わっていきます。

親鸞聖人の生前の言葉であるとされる『歎異抄』には、このような言葉が出てきます。

「弥陀(みだ)の五劫思惟の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』後序)

この言葉を現代の言葉に意訳すると、このような意味になります。

「阿弥陀仏が、五劫というとても長い間思惟して建てられた四十八願、本願についてよくよく考えてみれば、それはひとえにこの親鸞一人のためでした。思えばそれほど重い罪や悪をもっている我が身であるのに、助けようと思いたってくださった本願の、なんともったいないことか」

親鸞聖人は、阿弥陀仏が五劫もの間思惟して四十八願、中でも第十八願(本願)を建てて救おうとしてくださったのは、この親鸞のためだったと味わっておられます。それほどまでに、自分が抱えている罪や悪は重い。五劫という時間をかけて思惟しなければ、罪悪を抱えた自分を救う方法は見いだせなかった。

本来であれば、そんな地獄行き間違いのない自分を、助けようと思いたってくださった仏様がおられた。それが阿弥陀仏であった。何ともったいないことか。この『歎異抄』の言葉からは、親鸞聖人の罪悪の自覚と、阿弥陀仏の救いへの喜びの心が伝わってきます。

◆自分自身を省みる

親鸞聖人はなぜこれほどまでに、自分が罪や悪を重ねているという自覚があったのでしょうか。我々人間は、自分自身を善い人と思いたいものでしょうし、自分の考えや行為が間違っているとも思いたくはないものでしょう。それなのに、親鸞聖人はなぜそれほどまでに、自分自身の罪や悪を見つめていかれたのか。

こうしたことは、自分が善人であるという居直りからは中々出てこないものです。自分は善人である、自分は間違っていないと思っているのであれば、自分の言動について省みることも少ないでしょう。

自分の場合で考えてみた時に、失敗したり、間違ったことをしたと思った時には、反省をすることが多いように思います。自分のせいで人に迷惑をかけてしまったとか、事態が悪化してしまったとか、そういう時は我々は反省します。

私は20代の頃、会社勤めをしていたことがありまして、午前出勤の日と午後出勤の日とありました。午前出勤の日は、8時半から朝礼になります。

ある日、私は午前出勤だったのですが、目覚めて時計を見てびっくりしました。何と午後1時だったんですね。午後出勤でももう間に合わない時間でした。よほど疲れていたのか、そして若かったからか、よく寝れたんでしょうね。

しかし、午前中に出席しなければいけない会議も入っていて、起きた頃にはその会議も終わっていました。完全に仕事を飛ばしてしまったわけです。こういう時は血の気が引きますね。明らかに言い逃れようのない、自分のミスです。

会社に電話をして、上司に「申し訳ありません。すぐに向かいます」と伝えて、慌てて出勤しました。出勤した時には、もう5時間以上遅刻していますから、上司や会社の同僚も怒るというよりは、大丈夫だったかとかえって心配されました。

しかし、自分としては本当に恥ずかしい気持ちや、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そしてその日は、自分は偉そうにはできません。このように、明らかに自分が失敗したり、間違ったことをしたと思った時には、自分の言動に対していつもより反省したり、注意するわけですね。

今日はもう休憩も取らないでおこうとか。言われた仕事はきちんとやろうとか。そう思うわけです。

そして、自分が失敗したり間違いをしたときは、その日の言動だけじゃなく、以前の自分の言動も省みたりもします。これまで、ぞんざいな言葉遣いとか態度をしてなかったかなとか。自分が偉そうに発言していたけれど、相手の意見にも一理あったんじゃないかとか。色々考えたりするわけです。

そして、他人の言動に対しても、いつもより敏感になります。ミスした自分に声をかけてくれるととてもほっとしますし、逆に自分が日頃からそんな態度をできていたかなと反省したりもします。

このように、自分が失敗や間違いをおかした時は、我々は自分の言動を省みるということがあるのではないでしょうか。

しかし、そうでもないような時、つまり、割と順調にいっている時とか、自分の言うことを周りがある程度尊重してくれるような時とか、そうした時に、我々は慢心をおこしやすいものです。

他人がしてくれることが当たり前になったり、反対意見が耳に届かなくなったり、気持ちが大きくなったりします。そうする中で、自分は間違っていない、自分は正しいというような思いも段々と育まれてきます。そうした思いがある時は、我々は自分の言動について省みることも少ないでしょう。

◆自分中心の自分

自分は間違っていないとか、自分は正しいとか、自分は善人だなんて、普段そんなにあからさまに思っていないという方もおられるでしょう。

しかし例えば、人から「あなたは間違っていますよ」と指摘を受ければどうでしょうか。嫌な気分になったり、腹を立てたりはしないでしょうか。それは、どこかで自分は間違っていない、正しいと思っているからですね。

また例えば、「あなたは偽善者ですね」と言われれば、どんな気持ちになるでしょうか。悲しい気持ちになったり、なんてことを言うんだと怒ることもあるでしょう。それは、どこかで自分は善いことをしている、悪いことはしていないという意識があるからですね。

勿論、偽善者という言葉を相手に投げかける人も、その人自身がどうなのかは問われますが。

我々はたとえ表情には怒りや不満の態度を出さなくても、心の中ではどうでしょうか。自分の思い通りにならない行動を人がすれば、何でこうしないのかと怒ったり、あの人は変わった人だとか、自分勝手なレッテルを他人に貼って、自分が正しいような顔をしてはいないでしょうか。

お連れ合いや、親、子ども、兄弟などの家族に対してどうでしょうか。自分のこうあってほしいという思いをぶつけてはいないでしょうか。同僚、上司、取引先、お客さんなどの仕事関係、友人知人などに対してどうでしょうか。こうあるべきだという思いや、こうあって当然だというような価値観を我々は持っていないでしょうか。

自分中心の見方、自分中心の心はとても根深いものです。考えてみれば、我々は全てのものを自分中心に見ているといっても過言ではありません。

あの人はこういう人だろうとか。この場面ではこうするのが普通でしょうとか。なぜそんなことも分からないのだろうとか。そういうふうにも思ったりすることはないでしょうか。

逆に、自分にはこんなことは分からないとか、できないとか。それも自分中心に見ていることです。

我々の心の声を表に出してしまうと大変なことになります。インターネットでは、規制が効いてないですから、本音がまき散らされていて大変です。インターネットは便利に使うこともできますが、ストレスのはけ口、ゴミ箱のようにもなっています。

我々は自分が思っている以上に、ごく自然に自分中心に生きてしまっています。ですから、自分中心の自分ということに中々気付きませんし、自分は普通だと思って生きています。親鸞聖人は、そんな自分の心の奥底に根を張っている自分中心の心、欲深さをとことん見つめた方でした。

◆善人であろうとする中で見えてくる悪人性

なぜ親鸞聖人は、それほど自分の心の奥深くまで見つめていこうとされたのでしょうか。それはきっと、善人であろうとする営みの中に見えてきた自分の姿だったのではないでしょうか。

善人であろうとすればするほど、自分の中の悪人性が見えてきます。自分は善人である、自分は間違っていないと居直っているのとは違います。善人に居直る時には、自分の悪人性は見えてきません。善人であろうとする営みから、自分の悪人性が見えてきます。

例えば、人に優しくしようと思ったのに、次の瞬間には思い通りに動いてくれない相手に対してもう怒っている自分がいるかもしれません。それは、相手に優しくしようとしなければ、見えてこなかった自分の姿かもしれません。相手に優しくしようとしなければ、単に相手の行為に対して怒っただけかもしれません。

つまり、自分の思い通りに相手が動かなかったから、自分は怒っているのだと、そう客観的に見れないかもしれませんね。

我々は普段、自分の思い通りになっていないから自分は怒っているというように、自分中心の思いがあるから自分が怒っているのだとは考えないことも多いです。単純に相手が悪いとか、普通はそんな行動はしないよねとか。そのように自分中心に考え、相手のせいにすることが多いです。そうしたことが、善人であろうとする営みから見えてきます。

自分を見つめれば見つめるほど、善の部分はなかった。自分中心の思いばかりでこの自分はしあがっていた。浄土真宗ではこういう自分の姿を、煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)と言います。自分中心の欲でしあがっている自分ということです。

自分を深く見つめてみると、自分は自分中心の欲でしあがっていた。そう気付かされた人が、自分のことを省みて使う言葉が、煩悩具足の凡夫という言葉です。他人に対して使う言葉ではありません。

親鸞聖人は、自分自身のことを煩悩具足の凡夫と表現なさいました。親鸞聖人は、9歳でご出家をなさってから、迷い苦しみから抜け出す道を求め続けた方でした。自らが善人となり、菩薩となり、仏となっていくという仏道を歩まれた方でした。

だからこそ、同時にその仏道の険しさ、厳しさに絶望もされたのでした。善人であることの難しさや、自分中心の心と我が身の欲深さに思い知らされたことではなかったでしょうか。

◆仏心に触れ見えてくる悪人性

そしてまた、親鸞聖人は阿弥陀仏という仏様の「全てのものを救いたい」という願いにも触れておられたわけです。そんな大きな仏心に触れればふれるほど、そうなれない自分も見えてきます。

自分中心の欲によって、人一人救うことのできない、自分の心すらどうすることもできない。そんな自分自身が見えてきたのではないでしょうか。仏様という大きな存在、心清らかな存在があるからこそ、自分自身のちっぽけさや欲深さもまた見えてくるものです。

親鸞聖人のつくられた和讃といううたには、このような自身の思いが記されています。

「浄土真宗に帰すれども 真実の心(しん)はありがたし
虚仮(こけ)不実のわが身にて 清浄の心(しん)もさらになし」
(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐讃)

意訳するとこのような意味になります。

「浄土の真実の教えに帰依したけれども、真実の心は少しもない。うそいつわりばかりのわが身であり、清らかな心はさらにない」

親鸞聖人は、自分自身を真実の心や清らかな心がないと言い切っておられます。しかしそれは、阿弥陀仏の心に触れたからこそ、気付かされた自分の姿だったことでしょう。善人であろうとする仏道を歩む中で、そうはなれない自分の姿に気付かされたからこそ、見えてきた姿だったことでしょう。

ただそれは、ネガティブや卑下とも違います。欲を抱えた自分の姿も見えてきたけれども、同時に自分を救ってくださる仏様の救いに出遇っている喜びもあるのです。だからこそ安心して自分を見つめていける。阿弥陀仏の救いの手の中にあるという安心に包まれている。そうでなければ、自分の欲を見つめていてばかりでは心が暗くなるばかりです。

◆阿弥陀仏の救いに出遇った喜び

『歎異抄』の言葉をもう一度見てみましょう。

「思えばそれほど重い罪や悪をもっている我が身であるのに、助けようと思いたってくださった本願の、なんともったいないことか」

どうしようもないほどの罪や悪を抱えた、地獄行き間違いのない自分を、助けようと思いたってくださった阿弥陀仏の本願のなんとありがたいことか。親鸞聖人自らの罪悪の自覚と、阿弥陀仏の救いに出遇った喜びが伝わってきます。

そして、「阿弥陀仏が、五劫というとても長い間思惟して建てられた四十八願、本願についてよくよく考えてみれば、それはひとえにこの親鸞一人のためでした」とも味わっておられます。

この自分が抱える自分中心の欲深さを思えば、阿弥陀仏が五劫もの長い間思惟してくださったのは、この私を救おうとしてくださったからだった。こんなに欲深い自分を救うには、智慧と慈悲のすぐれた法蔵菩薩(阿弥陀仏)でさえ、五劫もの間思惟しなければ、救うことができるとは思えなかった。

そんな自分の罪深さと、助けようと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の何ともったいないことか。「正信偈」の「五劫思惟之摂受」という言葉には、こうした親鸞聖人の罪悪の自覚と、阿弥陀仏の救いに出遇った喜びが詰まっていると感じます。

そして、そうした親鸞聖人が自分を見つめる態度から、この私自身も、善人と言えるのだろうか、間違っていないなどと言えるのだろうかという問いも生まれます。私自身も常に自己中心の欲深さを抱え、重い罪や悪を抱えながら生きている。そうした自覚が促されてくるように思います。

我々は、失敗や間違いをおかしたような時には、自分の自己中心性を省みようとすることがあります。こうした心に深く感じるような痛みを、痛傷(つうしょう)とも言います。逆境こそ、人間性が育まれるタイミングでもあります。

そしてそれだけでなく、善人であろうとする営みの中で、かえって自分の悪人性が見えてきたり、仏心に触れる中で自分の悪人性が見えてくる。そうしたことを、この「五劫思惟之摂受」という言葉から感じるところです。

いかがだったでしょうか。今回は、「正信偈」の「五劫思惟之摂受」について、前回から引き続き見てみました。テーマは、「罪悪の自覚と阿弥陀仏の救い」でした。

それはつまり、法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、五劫という長い時間をかけて思惟しなければ救えるとは思えなかったほど、自分自身は重い罪や悪を抱えながら生きているのかもしれない。そしてそんな私を救うために、阿弥陀仏が四十八願、本願を建ててくださった。そうしたことを、親鸞聖人の文章から味わってみました。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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【正信偈を学ぶ】

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仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第13回_悪人正機 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

▼前回の内容

仏教講座_浄土真宗【正信偈を学ぶ】第11回_五劫思惟の意味するところ | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

 

◇参照文献:
・『浄土真宗聖典』注釈版/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2TA8xPX
・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
https://amzn.to/3ha42oh
・『浄土真宗聖典』浄土三部経(現代語版)/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2SKcMIl
・『聖典セミナー』無量寿経/稲城選恵
https://amzn.to/3htrfAV
・『正信偈の意訳と解説』/高木昭良
https://amzn.to/2SKczox
・『正信偈を読む』/霊山勝海
https://amzn.to/3yjMCvb
・『聖典セミナー』歎異抄/梯實圓
https://amzn.to/36OiRqJ
・『浄土真宗聖典』歎異抄(現代語版)/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2W2WeN0
・『勤行意訳本』/神崎修生
(信行寺までお問い合わせください。 https://shingyoji.jp/ )