【信行寺 永代経法要】二日目
2021年5月16日配信
講師:真教寺 井上浄英師

 

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【御讃題】(ごさんだい)

本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき

功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし

 

【意訳】

阿弥陀如来の根本の願いである「必ず救う」という救いのはたらきに出遇ったならば、むなしくすぎていく迷いの人生を送る人はいません。阿弥陀如来の力によって、濁り水のような煩悩を抱えた我々でも、まるで宝の海のような功徳がこの身に満ちみちて、へだてなく救われていくのです。

 

 

◆永代経とは

ようこそのお参りでございます。ご当山(とうざん)永代経法要(えいたいきょうほうよう)のご縁でございます。永代経とは、永きにわたってこれまでも、そして、永きにわたってこれからも。永代経とございますが、この経は読経という言葉から来ています。経を読むということですね。

 

お経とは、お釈迦様がお示しくださったお言葉。浄土真宗では、浄土三部経です。このお経様は、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の御心が説かれたお経様です。その御心をこれまでも大切にした。そして、これからも大切にしよう。そして今ここに、南無阿弥陀仏の御心に出遇わせていただいたことを喜ばせていただく。その法要が、永代経法要でございます

 

 

◆阿弥陀様の願い

南無阿弥陀仏の御心。それは願いでしあがっております。願いとは、本願(ほんがん)といただきます。本願とは、「あなたを必ず救う。そのいのちを抱きとり、お浄土に生まれさせ、仏にならしめん」という阿弥陀様という仏様の願いです。

 

先程いただきました御讃題(さんだい)の親鸞様のお言葉に、「本願力(ほんがんりき)にあひぬれば」とあります。阿弥陀様の願い、そして力ですから、阿弥陀様のはたらきであります。この阿弥陀様のはたらきに出遇わせていただいた姿が、このように手を合わせる

姿でありましょう。

 

そして、「むなしくすぐるひとぞなき」と続きます。この阿弥陀様のはたらきに出遇わせていただくと、この人生、決してむなしくすぎることのない人生となる。もっと言うと、本願力とは、あなたをむなしく過ごさせないという阿弥陀様の大きな御心でございます。

 

この私は今、生死(しょうじ)といういのちを抱えた身です。生と死と書いて生死(しょうじ)です。このいのちのありように目が向けば、中々受け入れ難い姿もあるかもしれません。それを、生死というのは苦なりとお釈迦様はお示しでありました。生きる中で思い通りにならないことを数多く経験し、そして、いのち終えていくことも思い通りにならない。この思い通りにならない一つ一つに、我々は迷い苦しみをいだきます。

 

いのちを見つめるというのは、なかなか深いことでしょうね。当たり前にあるいのちであると思うならば、なんでこんな目に合わないといけないのかとか、もっとこうなれという思いも持ってしまいます。このいのちに、私が願いを持ってしまうのですね。こうあってほしいな、ああなってほしいな、という願いを持ってしまう。

 

それは悪いわけじゃないんです。普通、私が願いを持つのですね。でも、このいのちに願いを持つならば、その願いはどこまでもどこまでも底知れない願いとなっているのではないか。もっともっとと、尽きない願いに苦しんでしまう。そして、願っても叶わないこともあるでしょう。そうした自分の願いに、我々は苦しむんですね。

 

だからこそ、生死のこの身をほっとかんと、阿弥陀様が必ず救うという願いをおたてになりました。そして、その願いをこの身に届いてくださった表れが南無阿弥陀仏です。それが、このように手を合わせる姿でありましたと、親鸞様が味わっておられます。

 

続いて御讃題(ごさんだい)に、「功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」とあります。阿弥陀様の御心が、この身に満ち満ちて、この身のままに私を抱きとり、尊いいのちをむなしく過ごさせないと願われた人生を歩むことができる。この言葉から、こう味わいたいのです。

 

 

◆阿弥陀様の願いをいただききれない私

さて本願とは、「あなたを必ず救う。そのいのちを抱きとり、お浄土に生まれさせ、仏にならしめん」という阿弥陀様の願いです。浄土に生まれると言われて、いかがでしょうかね。いつかこの身も、いのち尽きる身ということは、知識としては分かることです。ですが、「今晩どうですか?」「今晩お浄土にまいりますか?」と、こう言われたらいかがでしょうか。

 

お浄土に生まれさせるとは、阿弥陀様の尊い願いです。尊い願いですが、「今晩は勘弁してください」と、こういう私がおるかもしれません。まだまだ、「あれもせないかん。これもせないかん」と思う私がおります。知識では、いつかはいのち尽きる身と分かったつもりではいるけれども、まだ明日もあると思ってしまう。もっとこうなれ、もっとこうなれと、思っている私がおりますからね。お浄土参りをこの身にいただくとは、中々受け入れ難い身がおるかもしれません。

 

 

◆もう迷子にさせんという親心

そして、生死(しょうじ)は、迷いと言うのですね。私は、こんな経験をしました。忘れもしません。小学校2年生の時です。福岡の天神というところに、岩田屋という大きなデパートがあります。私が小学校2年生の時の岩田屋は、今の場所とは違いまして、今パルコというデパートがある場所にありました。

 

その当時、岩田屋の屋上に遊園地があったんです。子どもが遊ぶスペースがあったのですね。そこに行くのが楽しみでした。ある日、父と母と私、妹と弟の家族5人で岩田屋に行っておりました。楽しいから、私はちょろちょろしてたんでしょうね。迷子になりました。迷子の経験です。

 

それで、屋上の遊園地で迷子になって、どうしたかと言いますと、いつも岩田屋に行く時は、父が運転して車で行っておりました。そして、いつも車を停める駐車場が決まっていました。天神地下街 地下駐車場という地下にある駐車場です。ですから、私は迷子になって、一人で屋上からずっと下りまして、地下の駐車場の車の所に行きました。

 

そうすると、しばらくして父がやって来ましたよ。相当探したみたいで、迷子の放送も流れたようです。ひょっとしたら車のところにいるのではないかと思ったのでしょうね。それで、父がやってきました。その時、私は車のそばに座り込んでおりました。父はこうでしたね。私を見るなり、「コラッ!」とは言いませんでした。

 

叱られると思って下を向く私に、父はコラッと言わずに、私の手をぎゅっと握って、こっちに来なさいと言いました。手をぎゅっと握った父の力強さ。ぎゅっと握って、手が痛かったですよ。そして、私の手を握ったまま、階段を上り、エスカレーターに乗って、また屋上の遊園地に連れて行ってくれました。

 

その屋上に行くまでの途中、私はまだ叱られると思っていましたから、下を向いていました。そしてチラッと、父の顔を見ました。そうしたら、忘れもしません。父は、私の手をぎゅっと握りながら、涙いっぱいの顔でした。その姿が忘れられません。未だに私の胸に染み付いとるかもしれません。その時、父には私に対して、迷子にさせてごめんやったなという思いもあったでしょうね。

 

私はこの話からこう味わいたいなと思うんですね。それは、父がぎゅっと私の手を握り、涙を流したその姿は「もう迷子にさせん」という姿ではなかったかと思うのです。そしてまた、屋上に連れていってくれてね、迷子にさせんというその父の姿の中に、私はまた遊ぶわけですよ。でも、どこか安心です。それは、父がそこにいてくれるというのが、分かったからでしょうかね。

 

自分が今どこにいるのか、本当はよくわかっとらんこの私でありました。でも、父がそこにいてくれたから、どこかに安心をいただいとったんでしょうね。

 

 

◆ご命日はいのちを見つめる日

手を合わせて南無阿弥陀仏とお念仏申す姿は、阿弥陀様の願いが届いた証拠です。それは、生死(しょうじ)を抱えた迷子のこの私に、決して迷子にさせんとの阿弥陀様の願いが、こうやって手を合わせる姿として表れているからです。

 

生死の身は変わらなくとも、手が合わさる人生は、阿弥陀様がご一緒であります。不安はなくならないかもしれんけれども、不安のこの私に、まことの安心を届けてくださる。それが阿弥陀様の御心であり、願いで仕上がった南無阿弥陀仏でありましょう。

 

このようなご縁がありましたので、ご紹介をさせていただきます。これは、まさに厳しいご縁をいただかれた方のお話です。お別れのご縁でした。今から話す内容は、本人様にご了解を得ていますので、ご紹介をさせていただきます。

 

真教寺のご門徒様で、当時2歳の娘様を亡くされた方がおられます。お家の中の事故で亡くされたんです。私は50歳ですが、ご両親様は私と歳は変わりません。娘様を亡くされて、14年になります。

 

娘様を亡くしたご縁で、通夜、葬儀とお勤めさせていただきました。先立たれた悲しみの姿を拝見する中に、中々ですね、その姿のご苦悩というのは、奥深くまでは分かりません。お声かけをしにくい状況でもありますから。しかし、涙を流されるそのお姿を拝見しながら、悲しみがとても深いことは分かりました。通夜、葬儀の席では、涙を流すというよりも、涙も枯れ果てたようなお姿がそこにございました。

 

その後、七日参りもさせていただき、四十九日が終わって、毎月のご命日参りもさせていただきました。その中で、色々と故人様の仏縁を通して、ご夫婦とお話をさせていただきました。その後も、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌とお勤めしましたが、いつも変わらない姿がそこにございました。お勤めを始めますと、お母様が必ず涙されるんです。時を越えて手が合わされば、涙をされる姿がそこにありました。娘様のお骨は、真教寺でお預かりしております。

 

ちなみに今は、ご主人の仕事の転勤で、東京に行かれました。今、お子様は3人授かっておられます。実は3人とも、お寺で初参式というご縁をいただかれました。その初参式でもお母様は、一人一人の初参式の中で手を合わせて涙をされておられました。ただ、家族みんなで手を合わせる姿がそこにありました。そうしたご縁の中で、このお母様がこういう言葉を私におっしゃいました。

 

「私は、娘の命日の日を、こういただいています。この日はどんなに悲しくても、この子を見つめる日にしています」

 

娘様を思うのは、もちろん命日だけじゃないと思います。日々娘様を思われて、手を合わされていることでしょう。その中でも、命日には「どんなに悲しくても」娘様を見つめる日とされている。この「どんなに悲しくても」というお言葉が、胸に響いてきて、私は大切にさせていただいています。死別の後に、娘様を見つめるということは、辛いことだろうと思います。しかし、そのお母様は、ご命日には、どんなに悲しくても、その娘様を見つめる日とされているそうです。

 

 そしてまた、そのお母様は、娘様のご縁を通す中に、ご命日は「私のいのちを見つめる日」でもあるともおっしゃいました。娘様のご命日を、「自分自身のいのちを見つめる日」ともいただいているそうです。「娘様を見つめる日」として、また「自分自身のいのちを見つめる日」として、ご命日を大切にされているとのことでした。

 

それから、東京に転勤する時に、ご相談があって、東京のお寺様紹介しました。今も東京で、月命日のお参りをされているそうです。悲しみは無くなることはなくても、ご命日をいのちの日とまでおっしゃった。そうした姿のところに、手が合わさっております。

 

 

◆一日一日を命日として生きる

そこで皆さん。「いのちを見つめる日」という言葉から、味わってみましょうかね。私の勝手な味わいになるかもしれませんが。私たちは、いのちを見つめる日ってあるんです。まずは、自分の誕生日。この世に生まれてきた日。誕生日は、いのちを見つめる日です。「あら、ひとつ歳とったなあ」と嘆き悲しむ日じゃないそうですよ。

 

このいのちを通して、あなたに会えてよかった。お互いが支え、支えられ。いやもっと言うと、いのちを授かったことに。そして、先立った方々にもありがとうと言いながら。誕生日とは、いのちをまたひとついただいたと喜ぶ日だそうですね。いのちを見つめる日。誕生日は何となくね、皆さんもお分かりだろうと思います。

 

もう一つ、いのちを見つめる日があります。何でしょうね。それは、自分の命日です。そう言われて、反応がいろいろあるようでございますが。それもそのはずで、自分の命日と言われても、分かりませんね。いつ終わるかは自分では分かりません。

 

限りあるいのちとは、頭では分かっています。ですが、今日明日、いのちが終わると言われたならば、勘弁してくださいという自分がいます。限りあるいのちと分かりながら、いざその事実を突き付けられた時に、私たちは悩み苦しみもします。限りあるいのちでありながら、いつ終わるか分からない、悩み苦しみの中に、私たちは生きているんですね。

 

そのような限りあるいのちに生死の苦悩を抱く私たちですから、だからこそ、阿弥陀様は救わずにはおれんと願いをおこされたのです。限りあるいのちの私に、限りのないいのちに生きてほしいとの願いを阿弥陀様はおこされました。その阿弥陀様のおはたらきが、今ここに至り届いている。限りあるいのちのこの私に、限りのないいのちのお育てを、今ここにしてくださっている。

 

 自分の命日はいつかは分かりません。いついのちが尽きるかは、自分にはわかりません。ですから、私は一日一日を命日として生きることが大切ではないかと思います。誰もが、今日、今ここに命日をいただいている。そういう人生を、私たちは生きているのではないでしょうか。

 

一日一日、このいのちに手が合わさる人生。それは、お礼を申し上げながらの日暮らしとなっていく。限りないいのちのお育てを今ここにいただく身は、お浄土を依りどころにしながら、一日一日をいのちの日として、手を合わせながら、お礼を申し上げながら、お浄土まいりへの一日一日を歩まさせていただく人生となっていく。

 

そのことが、むなしくすぐる人生ではないと、親鸞聖人はおっしゃったのではないでしょうか。そして、むなしくない人生とは、迷子ではない人生であり、阿弥陀様の大きな願いに包まれた人生です。その人生を、今ここに喜ばさせていただきましょう。

 

永代経法要。これまでも、そしてこれからも。このいのちのつながりの中に、今ここに願われたいのちを、ありがとうと言える尊い人生となっていくことを、永代経法要を通して喜ばせていただくことでありました。皆様、ようこそのお参りでございます。

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