【信行寺 永代経法要】一日目の法話 講師:井上浄英師

【信行寺 永代経法要】一日目

2021年5月15日配信

 講師:真教寺 井上浄英師

 

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【御讃題】(ごさんだい)

本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき

功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし

 

【意訳】

阿弥陀如来の根本の願いである「必ず救う」という救いのはたらきに出遇ったならば、むなしくすぎていく迷いの人生を送る人はいません。阿弥陀如来の力によって、濁り水のような煩悩を抱えた我々でも、まるで宝の海のような功徳がこの身に満ちみちて、へだてなく救われていくのです。

 

 

◆阿弥陀様の願いに包まれた人生

ようこそお参りくださいました。ご当山(とうざん)様、永代経法要のご縁でございます。このコロナ禍の中に、ご法座は中々開きにくい状況ではございますが、このオンラインを通して、仏縁の広がりを喜ばさせていただきます。

 

永代経。永きにわたってこれまでも。そして、永きにわたってこれからも。永代経の経とは、お経様のことと言われます。浄土真宗のお経様は、浄土三部経です。それは、阿弥陀様という仏様の御心が説かれたお経様。その御心は、願いでしあがっております。この願いを、本願(ほんがん)と言います。

 

阿弥陀様の願いは、「あなたのいのちを必ず抱きとり、お浄土に生まれさせ、仏にならしめん」というお願いであります。その願いがはたらきとなって、今ここに至り届いておる証拠が、南無阿弥陀仏のお念仏です。ですから、ここに手が合わさるその姿は、阿弥陀様の願いに包まれた姿であります。

 

先ほどいただきましたご讃題(さんだい)は、親鸞様がおつくりになられた和讃ですが、そこにはこのように申されています。「本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」。阿弥陀様の願いのはたらき、本願力に遇わさせていただきますと、むなしくすぐることのない人生となる。お念仏申す人生は、むなしくすぐることのない人生となっていく。そしてこの願いは、阿弥陀様のはたらきでありますからね。私がというよりも、阿弥陀様が、「あなたをむなしく過ごさせない」とのおはたらきであります。

 

「功徳の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし」。煩悩、迷いを抱えたこの身であっても、阿弥陀様のはたらきがこの身に満ち満ちて、救われていく。この身のまま、このいのちのまま、阿弥陀様の大きな願いの中に包まれていく。消えてなくなるいのちから、お浄土に生まれさせていただくいのちとなっていく。そのことを、親鸞様が喜ばれたお言葉が、ご讃題のご和讃でございます。

 

 

◆生死の苦悩を抱えて生きている

さて、コロナ禍の中に皆様、色々不安を抱えておられるかもしれません。普段マスクして過ごすことが多うございます。皆さんどうですか。マスクの下は笑顔ですか?中々ね、笑顔も忘れたような日暮らしがあるかもしれませんね。

 

実は私、息子が今中学校2年生です。昨年、コロナ禍の中、中学校に入学しました。昨年の4月は、学校が休校措置を取られ、入学式もありませんでした。学校が始まりまして、登校したお子さんたちは、皆マスクして教室に座っております。先生方が思ったそうですよ。皆マスクの姿を見てね、どんな顔してるのかなって。

 

マスクをしていると、顔の表情が分からないですね。しかも、新入生は色んな小学校から集まっております。中々その子の普段の姿が分かりづらい環境です。しかし、だからこそ先生方は、なるべく子どもたちに心の寄り添いをと、心の距離は近くにと、大事に接しようとされたそうですね。

 

コロナ禍の中、今それぞれに不安を抱えておられるかもしれません。コロナが終息したら、コロナの不安はなくなるでしょう。しかし、変わらず大きな不安を抱えた私がいるかもしれません。いやもっと言うと、マスクをするコロナ禍の前から、不安を抱えたこの身があったのかもしれません。そうですよ。いのちを抱えた身ですからね。

 

お釈迦様は、このいのちのあり様を、生死(しょうじ)とお示しでありました。生と死と書いて生死(しょうじ)。生きている中、死んでいく中に、思い通りにならない苦しみや、どうなるか分からない不安を抱えて、我々は生きています。生死していく中に、迷いの姿、苦悩の姿の我々がおります。そんな、生死の迷い苦しみを抱えた身だからこそ、阿弥陀様は救わずにはおれないという願いをおこされたのでしょうね。

 

 

◆苦悩がいのちを見つめるご縁となっていく

生死というお言葉、少し味わってみたいと思います。もともとは、生老病死(しょうろうびょうし)というお言葉で、それを縮めて生死(しょうじ)と言います。

 

我々は、日々生きている中に願いを持ちます。こうあってほしいな、あああってほしいなと、願いを持ってしまう、そんな私がいます。その私の願いは、どこまでも底知れない願いかもしれません。こうあってほしい、こうあってほしい。もっともっとという気持ちがわいてくるのが人間かもしれません。

 

我々は、いつかこのいのち終わる時があると、知識では分かっています。知識では分かるんですがね、いのちが終わる時を、この身に引き受けていくというのは、中々受け容れ難いかもしれませんね。このいのちが閉じるとなった時に、中々受け容れ難いかもしれません。もっと生きたい。もっとあんなことがしたかった。そう思う私がおるかもしれませんね。

 

しかし、生老病死、歳を重ねる中に、病にあう中に、亡くなっていく中に、そこに苦悩の姿はあっても苦悩だけではない。苦悩がいのちを見つめるご縁となっていく方もおられることでしょうね。歳を重ねるからこそ知らされたこと。病にあうからこそ知らされたこと。一日一日の当たり前の日暮らしから、一日一日の尊さに出あっていかれる。

 

そして、先にいのちを閉じられた方々は、阿弥陀様の願いに包まれ、お浄土に生まれていった方々です。その生死の姿を通して、阿弥陀様の願いを届けてくださった方々です。「あなたのいのちを必ず抱きとり、お浄土に生まれさせ、仏にならしめん」という、阿弥陀様のいのちの声を、この身に届けてくださった方々です。

 

 

◆おかげさまで完走できた

しかし、お浄土に迎え取ると言われても、今晩と言われれば、中々受け容れ難い私がおるかもしれません。いのち尽きていく時に、必ずお浄土に生まれさせようという、阿弥陀様の尊い願いでありますが、中々素直に頷けない私がおるかもしれません。そこで、お浄土を少し味わってみたいんです。

 

こういう話があります。私の後輩の話ですが、福岡市内で住職をしている後輩がおります。彼がマラソン大会に出たって言うんです。福岡マラソンという大会がありまして、市民マラソン大会であります。1回目が2014年ですから、少し前になりますが、1回目に出た時の話です。

 

福岡マラソンの第一回目が、何と彼にとっては、初めてのマラソン大会だったそうです。「先輩、この前マラソン大会に出ました。福岡マラソン。いやー、大変でした」。彼が私にそう言うんです。それで、聞きましたら、初めてながら無事完走したそうです。「すごいね」と私が言うと、彼は「完走できたのも、皆のおかげです」と言いました。

 

皆のおかげで完走できたと、彼はそう思ったそうなんですね。そして、そのおかげと思ったことは二つあったそうです。一つ目のおかげは、沿道の応援だったそうです。スタートして走って、途中ご家族の応援もあったそうですが、何より沿道の応援がすごかった。その応援のおかげで完走できましたと、彼が言うんですね。あまりにも、沿道の応援が多いもんやから、休む暇がなかったって、冗談も言うとりましたけど。

 

沿道の応援のおかげで完走できたということは、なんとなく私も聞きながら「ああそうね」と分かりましたよ。沿道の応援に後押しされながら、頑張って走ったんでしょうね。

 

そして彼はもう一つ、おかげがあったと言うんですね。それは何かというと、周りのランナーのおかげで完走できたそうです。彼は、マラソンの途中、実は走るのをやめようと思ったそうです。30Km過ぎたあたりで足が痛くなり、もういよいよゴールというところで、もうやめようと思うほどの痛さがきたそうです。その時に、彼の周りを走るランナーの皆が、「皆でゴールしましょう。ゴールはもう少しですね」と、声を掛け合い出したそうです。そのランナー同士の掛け声に後を押され、引っ張られながら、ゴールできましたと、彼が話してくれました。その話を聞いて、私は何か良い話を聞いたなあと思いました。

 

 

◆お浄土に生まれて往く人生

ここからちょっと強引にお説教に持っていきますが、私はこう味わいたいんですね。マラソン大会と人生。マラソンも人生も、スタートしますね。そして、スタートしたならば、ゴールがありますね。ゴールはどこでしょうか。マラソンのゴールは、分かりますね。では、人生のゴールはどこでしょう。

 

人生のゴール。死んだらゴールかな。そんな声が聞こえてきそうですね。死んだらゴール。それはそれで、間違いないことでしょうね。間違いないことですけれども、もし死ぬのがゴールならば、ゴールがいつかは分かりませんね。いのち尽きるのがいつかは、自分では分からないですからね。

 

マラソンは、ゴールがしっかりと分かっているから走れます。しかし、いつゴールと言われるか分からないマラソン大会だったら、そこまで走り続けなければならないマラソン大会だったならば、誰も走りませんよね。そして、人生のゴールが死なら、そのゴールを中々受け容れがたい私がおるでしょうね。知識ではいのち尽きると分かっていても、いざそれが現実となれば、中々受け容れ難い私がおります。ゴールが死なら、ゴールを良かったと喜ぶ気持ちには、中々なれないでしょうね。

 

阿弥陀様の願い、ご本願をいただきますと、阿弥陀様がゴールを用意したよと受け取っていけるのではないでしょうか。「そのいのち必ず迎えとり、浄土に生まれさせ、仏にならしめん」という願い。それは、あなたの人生にお浄土というゴールを用意したよと、受け取っていけるのではないでしょうか。死していく人生が、お浄土に生まれて往く人生となっていく。今生でのいのちは尽きるけれども、お浄土に向かって、お浄土を依りどころとして歩んでいく人生となっていく。そして、お浄土に生まれ、仏となっていく人生となっていく。

 

 

◆お浄土へと共に歩む仲間

 そして、マラソンを完走した彼が言っていた沿道の応援。沿道の応援のおかげで、マラソンを無事に完走できたと言っていました。この我々の人生もまた、沿道の応援のように、たくさんの方々の支えと、ありがとうがあるんじゃないでしょうか。色々な方のおかげで、今の私があり、そしてゴールに向かってこの人生を歩んでいけるのではないでしょうか。

 

 彼はこうも言っていました。マラソンは、最初スタートをしたばかりの時は、沿道の応援が中々耳に入らんそうです。スタートして、まだまだ元気な時、俺が俺がと走っとる時は、中々応援は耳に入ってこない。きつい時ほど、応援がこの身に届いて来るそうですね。人生でもそうではないでしょうか。若い時、自分の足で、自分の力で人生を歩いているという時には、色々な方の支えもよく分からない。中々ありがたいとも思えない。

 

 私も今考えてみると、どれだけ素通りした応援があったのかなと思いますね。お浄土をゴールとする人生は、沿道の応援に気付いていく、色々な方の支えやおかげさまに気付いていく。そのような味わいができるんじゃなかろうかと思います。

 

そして、もう一つ。マラソンのゴール手前で、足が痛くなった。もうやめようと思った。人生でもそういう時があるかもしれませんね。生老病死。歳を重ねていく中で、病になる中で、思い通りにならない苦しみや、どうなるか分からない不安を抱える時もあります。マラソンでは、ランナーが互いに声をかけ、励まし合いながら、一緒にゴールに向かったと言います。「皆でゴールしましょう。ゴールはもう少しですね」と、声を掛け合いながらゴールに向かっていった。

 

人生も、お浄土というゴールに向かい、互いに励まし、思い合う仲間がいる。手を合わせ、南無阿弥陀仏とお念仏申す仲間がいる。そのお念仏申す仲間のことを、親鸞様は同朋(どうぼう)、同行(どうぎょう)とおっしゃいます。お浄土に向かって、お浄土を依りどころにしながら、阿弥陀様とともにこのいのちを歩まさせていただく仲間。同じ方向を向いた同朋同行。マラソンの話から、このように味わわさせていただきました。

 

 

◆このいのちにありがとうと言える人生

お浄土に向かって、お浄土を依りどころにしながら、このいのち歩まさせていただく。しかし阿弥陀様は、じっとゴールで待っておられる仏様じゃない。じっとしておられる仏様じゃない。南無阿弥陀仏というみ名となって、今歩みを運び、この身に至り届いてくださっております。我々の歩むこの大地に、大きな支えとなって、阿弥陀様がご一緒くださる人生を歩んでいます。

 

親鸞様のお言葉に、「心を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て」というお言葉があります。本願の大地に支えられたこのいのちである。手が合わさる人生、お念仏申す人生は、このいのちにありがとうと言える人生となる。そうした人生のあり方を、親鸞様は「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなし」とおっしゃったのではないでしょうか。生死という思い通りにならない苦しみや、先の分からない不安の中でも、阿弥陀様の大きな願いに出遇った人生は、けっしてむなしくすぐることのない人生となっていく。

 

このたび 永代経法要を通して、また阿弥陀様の大きな御心に出遇わさせていただいた、喜びのご縁でありました。皆様、ようこそお参りくださいました。

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