【信行寺 春季彼岸法要】一日目 講師による法話:角道宏師

信行寺 秋季彼岸法要
令和3年(2021)3月20日
法話:角道宏師(浄土真宗本願寺派 徳勝寺)

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◆御讃題
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

 

◆意訳
生まれかわり死にかわりしてきたこの苦悩の人生は、まるで果てしない苦しみの海を航海しているようなものです。
遠い過去から苦しみの海に沈む我々を、阿弥陀如来の救いの船のみが、乗せて必ず彼岸の浄土へと渡してくださいます。

皆さん こんにちは。ようこそのお参りでございます。

福岡市は早良区。早良区は東入部の徳勝寺というお寺の住職をしております。角と申します。宜しくお願い致します。

今回はこのコロナ禍の中、リモートという形でお話をさせていただきます。オンラインでしょうかね。

このオンラインのいいところはね、何と酒を飲みながらでも聞けると、寝転んでも聞けるというところでございましょう。気軽なお気持ちでお話をお聞きください。

お彼岸のご縁でございます。彼岸(ひがん)は此岸(しがん)に対する言葉なり。彼岸。彼(か)の岸と書いてありますので、向こうの岸ということであります。

此岸(しがん)、こっちの岸、此(こ)の岸。この此岸は、私たちの生きておる世界を言います。

彼岸というのは、彼の岸、仏様の世界。さとりの世界のことであります。

彼岸の正式名称は、到彼岸(とうひがん)と言います。到る彼岸、彼岸に到る。

この此岸の私が彼岸に到り、仏様にさせていただく。そのはたらき、そのおこないに出遇う。そのことをお彼岸ということでございますね。

さあこの此岸に生きておるこのわたくしたちは、限りあるいのちを生きております。

どんな人生を歩もうとも、男であれ女であれ、若かろうが歳とっとろうが、金があろうがなかろうがね、一切関係ございません。

コロナが終息しようがすまいが、必ず必ずこの此岸の娑婆(しゃば)世界、終わっていかなければいけません。

その此岸のいのちのありよう、いのちの真実、いのちの往き先を、このご縁で味わさせていただく。

あるお方は、人は死ねばゴミになるとおっしゃいます。あるお方は生きとるうちが花や、死んだらおしまいとおっしゃいます。

人の生き様はうんぬん言う必要はございません。あそうですか言うて、聞いときゃええんでありますがね。

まあそう言われながらも、片方ではね、人生は旅だとおっしゃる。旅というのは行き先があるものを、旅と言います。

行き先のないものは、旅とは言いません。放浪って言うんでしょうね。船の旅では、行き先があるものを航海という。行き先のないものは、漂流とでも言うのでありましょうか。

何年か前、漁師のお方が時化(しけ)で流されまして、救助されてお礼を言われておりましたが、その中で不安で不安でたまりませんでした。
どこを行きよるか分からん、どうなるやら分からん、不安でございましたとおっしゃっておった。

ということは、私たちもせっかくいのちをいただきながら、どうなるやら分からん、この先どこに行きよるやら分からんというような人生をもし歩んでおるならば、不安な人生を歩んどるということになりゃせんでしょうかね。

まあね、人の生き様はうんぬん言う必要はございませんと言いましたけれども、我が身に置きかえた時には、はたしてそれで頷ける世界があるかどうか。

先立たれた尊いいのち、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、もしかしたらお連れ合い、もしかしたらわが子、わが孫とも。先立たれたいのちはゴミになりましたか。
もっと言うならば、この私は今ゴミになるいのちを生きておるのでありましょうか。

うちのお寺に、毎月25日にお参りに来る、今40代になりましたが、40代の夫婦がおります。

結構遠いところから車で来るわけであります。夫婦一緒に来ることもあれば、バラバラに来ることもありますが、毎月来ます。

そして今でも、納骨堂お参りをしながらね、涙を流しながら両手を合わせております。息子の命日であります。

この3月25日でちょうど七回忌であります。3月25日でありましたから、春休みでありました。

もう葬儀場ではそのお友達、そのお父さんお母さん、もういっぱいであります。

始まる前からすすり泣き。悲しい悲しいお別れでありました。

葬儀場は遊園地のように飾られておりました。風船が潰され、大きなぬいぐるみが置かれ、おもちゃが並べられ、棺の上には漫画が書かれた布で覆われ、その横には黄色い帽子、そしてランドセル。
小学校一年生でありました。

病気がちな子ではありました。亡くなった時には、福大病院でありましたけれどもね。入院しておりましたけれども、悲しい悲しいお別れでありました。

それから七日七日毎にお参りをさせていただきまして、阿弥陀経というお経をあげさせていただき、その阿弥陀経について少しばかりお話をさせていただく。

するとその当時、38歳だったと思いますが、そのご主人、初めて聞く言葉ばかりです。阿弥陀様やら、仏様やら、地獄やら、餓鬼(がき)やら、畜生(ちくしょう)やら。
そして倶会一処(くえいっしょ)、再び出会える世界やら。

そして四七日、五七日、過ぎた頃でありましたでしょうか。私に詰め寄ってきました。

もう名前も言いましょう、だいちゃんってね。だいちゃんはお浄土に生まれとうとでしょう。仏様になっとうとでしょう。

そうやね。今あげた阿弥陀経様。阿弥陀様がちゃんと約束してくださると、お釈迦様が説いてくださっておるよ。

そうでしょう。お浄土に生まれとうとでしょう。仏様になっとうとでしょう。

そしてもしかして一生、両手を合わさずに終わっておったか分からんその彼の両手が涙と一緒に合います。もしかして、南無阿弥陀仏と一生お念仏がね、その彼の口から出てなかったかも分からん。
その彼の口から涙と一緒に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。お念仏が出よります。

どんな思いで南無阿弥陀仏とお念仏しとるか、私は知りません。でも間違いなく、その彼の口を通して、阿弥陀様がはたらいてくださっておる。とび出てくださっておるのは事実であります。

先だった息子のいのちを縁として、大切なものに出遇うてくれよるなと、反面嬉しかったですね。

うちの近くのお寺のお話でありますが、2年ほど前に86歳で、前御住職がお亡くなりになりました。

奥様はまだご存命でありまして、同級生86歳、その当時ね。その時のお通夜の様子を、今の御住職から聞かせていただきました。

お通夜が終わりまして、横になっておられる前住職さんの顔を、坊守(ぼうもり/住職の配偶者)様がじっと見ておったそうであります。

そして突然大きな声でね、私も一緒に往きたかと叫んだそうであります。そして隣におった妹さんにね、あんたも一緒に往こうと言ったそうであります。

まあこれは迷惑なお誘いでありますが。このセリフはですね、人は死ねばゴミになるというお方の口からは出てこんセリフです。いのちの往き先をいただいた方のセリフです。

私も一緒に往きたか。いのちの往き先をいただかれた方のセリフ、言葉ではないでしょうか。

ところが私たちというのは、育てられるものによって、どのようにも変わっていくといいます。

昔から、お金に育てられれば亡者になる。怒りに育てられれば鬼になる。恨みに育てられれば阿修羅(あしゅら)になる。

お金に育てられれば亡者になる。昔はですね、我利我利(がりがり)亡者と言うとりました。

あんまり今の方はね、これご存知ないみたいでありますが。我利我利亡者というのは、我の利、我の利と書くそうであります。我利我利亡者。

怒りに育てられれば鬼になる。鬼。今は鬼滅の刃でしょうか。鬼がブームでありますが。

鬼を見たことが皆様方ありますか。私はあります。坊守(ぼうもり/住職の配偶者)ではありません。

別府に行きましたらね、地獄がいっぱいありますが、そこに大きな鬼が立っております。鉄の棒を持って、頭から角生やしてね、あれはどちらとも人を責める道具であります。

ということは私たちも、人を責めておる時には、人間の顔、人間の姿をしておりますけれども、どうも根性は鬼になっておるのではないでしょうか。

火の車 つくる大工はなけれども
己(おの)がつくりて 己(おの)が乗りゆく

 

また、有名な妙好人(みょうこうにん)さんのうたでありましょう。

うちのかかあの寝顔をみれば
地獄の鬼にそのまんま

夫婦喧嘩でもされたんでしょうね。まあ腹がたってね、酒でもかっくらって寝床に行きましたら、もう先に嫁さんがガアガア寝ておる。その顔を見てうたったんでしょう。

うちのかかあの寝顔をみれば
地獄の鬼にそのまんま

ところがね、ここからやっぱりお念仏を喜ばれた方は違いますね。

うちの家には鬼が二匹おる
男鬼に女鬼
あさましや あさましや

相手を鬼と見たならば、同じ境界、同じ世界に住んでおる私も鬼でありました。鬼と仏様は生きる境涯が違います。住む境涯が違います。

ということは逆にね、相手を仏様と拝めた時には、私も仏様のお慈悲の中に生かされておるのではないでしょうか。

育てられるものによってどのようにもかわっていく。ゴミのようなものに育てられれば、ゴミにもなりかねんのはこの私であります。

私はもうすでに、一昔前から粗大ゴミと言われておりますからね。

ある奥様がね、こんなうたをうたいましたね。

粗大ゴミ 朝出したのに 夜戻り

とんでもないうたでありますが。ところがねこの頃は、粗大ゴミもね居直っとります。

俺粗大ゴミ
そしたらお前は危険物

危険物はね、取り扱い方が難しゅうございますから要注意であります。ゴミの中で暮らせばゴミにもなりかねん。ゴミになるでしょうね。

縁があればゴミにもなりかねんこの私の全てを見抜き、ゴミにはさせん、必ず我が国にむかえとり仏にするぞと誓われ、その誓いを成就、完成されて、立ち上がってくださった唯一の仏様がこの阿弥陀様でございます。

その必ず我が国というのが、阿弥陀経の中に倶会一処(くえいっしょ)という約束でしあがっとると出てまいります。倶会一処、会う一つの処、一つの処で倶に会う。

一つというのは同じところ、ひとつ言うのは二つない。阿弥陀様のお浄土のみが、再び出会える世界をしあげてくださいました。それも仏と仏となって、拝み合える世界で再び出会える。

このまま生まれたら、また夫婦喧嘩でありましょう。兄弟喧嘩、親子喧嘩でありましょう。喧嘩せないかん世界を地獄と説かれておりますからね。

仏と仏となって出会える世界。

だから時々納骨堂の入り口にね、倶会一処と書かれたり。あるいは霊園に行きますと、私もいつも見るのでありますが、福岡の場合はね、100基あれば1基か2基、倶会一処と彫ってありますが。

浄土真宗が盛んな広島 安芸門徒(あきもんと)。私もよくお邪魔させていただきます。特に瀬戸内海に浮かぶ大きな島々、江田島とか能美島はまだまだお墓文化であります。山端に何百というお墓が並んでおりますが、100% 倶会一処と書いてありますね。
私は他の文字見たことがないです。

先々月でしょうか。その向かいでありますが、広島県呉市に行って、そこのご住職にお聞きしましたら、呉では90%。9割が倶会一処であると。ああすごいなと思ってね、びっくりしたところでありますが。

倶会一処。再び出会える世界でありますね。

実は先ほど、うちのかかあの寝顔をみればというね、うたを紹介致しましたが、石見の浅原才市様ですね。石見(いわみ)の才市(さいち)。

今で言うならば、島根県大田市(おおだし)温泉津(ゆのつ)というところだそうでありますが、この才市さんがですね、こういううたを残してあります。

わしの父親 八十四歳
往生しました お浄土様に
わしの母親 八十三歳
往生しました お浄土様に
わしもゆきます やがてのほどに
親子三人もろともに
衆生済度(しゅじょうさいど)の身とはなる
御恩嬉しや 南無阿弥陀仏

わしの父親 八十四歳、往生しました お浄土様に。往生、往き生まれる。私たちは、よく行き詰った時に往生したと言いますが、往き生まれるでありますから。

あるお方は、臨終はこの世の卒業式、お浄土の一年生と喜ばれました。ただ単なるいのちの終わりではない、お浄土、仏様の一年生にさせていただく。

わしの父親 八十四歳、往生しました お浄土様に。わしの母親 八十三歳、往生しました お浄土様に。

わしもゆきます やがてのほどに。親子三人もろともに。衆生済度(しゅじょうさいど)の身とはなる。

おかげさまで、お浄土、彼岸に向かって歩まさせていただいておる人生でありました。もうすでに阿弥陀様のお慈悲の中に、生かされておる人生でありました。

再びまた父親、母親と会うことができます。御恩嬉しや南無阿弥陀仏。その全てのはたらきが、南無阿弥陀仏という阿弥陀様のお名前の中にしあがって、私に至り届き、私の口から南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と出てくださっております。
なんとありがたいことでしょうかという味わいでしょうね。

阿弥陀様という仏様は、この私のところに唯一仏様の方から至り届いてくださる。その至り届いてくださるはたらきが、私の口を通して出てくださるのがお念仏。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。そのはたらきが、私の目に見える姿となってくださったのがこのご本尊。お木像のご本尊であり、ご絵像のご本尊。ゆえにこの私の口から出てくださるお念仏も、このご本尊も同じもの。

阿弥陀様のはたらきが、私のところに至り届いておる姿であります。

いつでもどこでも、どんな時でも共に歩むよ。だから称えられる仏、声の仏、名前の仏であります。

もし見る仏様であれば、いつも見れるところにおらないけません。触る仏様であれば、いつも触れるところにおらないけません。

名前の仏 称えられる仏でありますから、道歩きよっても南無阿弥陀仏。お風呂入っとっても南無阿弥陀仏。炊事しよっても南無阿弥陀仏。

アメリカおっても南無阿弥陀仏。ヨーロッパおっても、地球の反対側におっても南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。宇宙におっても 南無阿弥陀仏。

阿弥陀様のお慈悲は、はたらきは至り届いておる。いつでもどこでも、どんな時でも共に歩むよと、彼岸からこの此岸の私に至り届き、この私と共に彼岸への人生を歩んでくださる仏様。

そのはたらきに出遇わさせていただき、ありがとうございます、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏とお念仏させていただくご縁を、お彼岸というのであります。

肝要は拝読の御文章であります。

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