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皆様、本日もようこそお参りくださいました。

【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズ。今回は5回目です。

「正信偈」(しょうしんげ)とは、正式には「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)といい、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん/1173~1263)がおつくりになった偈(うた)です。

「正信偈」では親鸞聖人が、浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来という仏様のお徳を讃え、また阿弥陀如来の救いの教えを伝えてくださった高僧のご遺徳を讃えています。

浄土真宗において「正信偈」は、日々となえられるとても日常的なものです。

この【正信偈の基礎を学ぶ】シリーズでは、「正信偈」の内容について、できるだけ分かりやすく味わってまいりたいと思います。「正信偈」にどんな内容が書いてあるのかが分かると、となえる時の心持ちも変わってくるかと思いますので、共に学んでまいりましょう。

さて今回は、「法蔵菩薩因位時」(ほうぞうぼさついんにじ)からの内容を味わってまいります。

◆本日の偈文(げもん)

ではまず、本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。宜しい方は、口に出して読んでみてください。

【本文】
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪

(とけんしょぶつじょうどいん こくどにんでんしぜんまく)

 

【書き下し文】
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の因位(いんに)の時(とき)、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)にましまして、
諸仏(しょぶつ)の浄土(じょうど)の因(いん)、国土(こくど)人天(にんでん)の善悪(ぜんあく)を覩見(とけん)して、

 

【意訳】
はるか昔、ある国王が、世自在王如来(せじざいおうにょらい)という仏の説法を聞いて感激し、自らもさとりを求める心をおこし、王の位を捨て出家し、法蔵(ほうぞう)という名の菩薩(ぼさつ)となられました。
後の阿弥陀如来(あみだにょらい)である法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王如来(せじざいおうにょらい)のもとでの修行中、様々な仏の浄土(じょうど)が建てられた理由を学び、浄土や、浄土におられる人間や神々の善し悪しをご覧になりました。

◆依経段

今回の部分から、「正信偈」の依経段(えきょうだん)と言われる部分に入ります。依経段とは、お経に依って説かれた部分という意味です。

そのお経とは、浄土真宗の根本の経典である『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)というお経のことです。「正信偈」をつくった親鸞聖人が、『仏説無量寿経』というお経の内容にもとづいて、阿弥陀如来のお徳を讃えておられるのが、この依経段という部分になります。

今回の、法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)の部分からが、依経段となります。

ちなみに、前回まで見てきた「正信偈」冒頭の二句、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)という部分は、帰敬序(ききょうじょ)と申し上げます。

親鸞聖人が、「正信偈」の冒頭に、「私親鸞は、阿弥陀如来に帰依致します」と、仏様への帰依の心、敬いの心を表しているので、帰敬序(ききょうじょ)と申し上げます。

そしてその後に、今回から見ていく依経段(えきょうだん)が続きます。内容から言うと、この依経段が、「正信偈」の前半部分になります。

「正信偈」の後半部分は、依釈段(えしゃくだん)と申します。親鸞聖人が特に大切された七高僧(しちこうそう)という七人のお坊さんがおられます。「正信偈」後半の依釈段の部分は、その七高僧が書かれた書物をもとに説かれています。

七高僧は、『仏説無量寿経』などのお経を解釈した書物を書かれており、それを論釈とも言います。「正信偈」の後半は、その七高僧が書かれた論釈に依って説かれた部分ということで、依釈段(えしゃくだん)と言います。

このように、三つの部分から構成されているのが「正信偈」で、今回から依経段という『仏説無量寿経』というお経に依って解かれた部分を見ていきます。

◆法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

まず、細かく見ていく前に、今回取り上げる「正信偈」の文章の概要を見てみましょう。

一つ一つの言葉の意味など、詳しくはまたの機会に見ていきます。まずは概要をお話して、「正信偈」にはどんなことが説かれているのかという大枠を掴んでいただければと思います。

さて、「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)という部分ですが、直訳すると、「阿弥陀如来という仏様が、法蔵という菩薩の位の時、師である世自在王仏のもとにおられ」という意味になります。

法蔵菩薩の法蔵とは、阿弥陀如来という仏様が、仏様となる前のお名前です。阿弥陀如来とは、浄土真宗でご本尊として敬っている仏様です。

その阿弥陀如来が仏様となる前に、願いをおこし、行を修めている菩薩の位の時のお名前を法蔵と言います。そして、その仏のさとりをひらく前の菩薩の位を、ここでは因位(いんに)と言っています。

つまり、「法蔵菩薩因位時」とは、法蔵菩薩が、阿弥陀如来という仏様となる前の菩薩の位の時という意味になります。

「在世自在王仏所」とある世自在王仏(せじざいおうぶつ)とは、法蔵菩薩の師のお名前です。

そして、在とは、おられたという意味で、所とは場所のことです。

書き下し文に「世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)にましまして」とあるように、「在世自在王仏所」で、「世自在王仏という仏様のもとにおられ」という意味になります。

ですから、ここまでの「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」という部分は、「阿弥陀如来という仏様が、法蔵という菩薩の位の時、師である世自在王仏のもとにおられ」という意味になります。

◆覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪

次に、「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」(とけんしょぶつじょうどいん こくどにんでんしぜんまく)という部分を直訳すると、「様々な仏様の浄土という国が建てられた理由や、その浄土の様子や浄土におられる人間や神々の善し悪しをご覧になりました」という意味になります。

「覩見諸仏浄土因」の覩見(とけん)とは、見るという意味です。

そして、諸仏とは様々な仏様ということ、浄土(じょうど)とは仏様の国のことで、因とはその浄土という国が建てられた理由という意味です。

「国土人天之善悪」の国土とは、その浄土という仏様の国や国の様子ことを指し、人とは人間、天とは神々のことです。

「之」は「の」という意味で、国土や人天「の」善悪というように、前後をつなぐ言葉です。英語で言えば、ofにあたります。

ですから、「国土人天之善悪」で、仏様の国の様子や、そこにおられる人間や神々の善し悪しという意味になります。

「覩見諸仏浄土因」覩見という言葉は、見るという意味ですが、ここの文章の全体にかかっています。

つまり、書き下し文に「諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して」とあるように、浄土の因とある浄土という国が建てられた理由を見て、国土とある浄土の様子を見て、人天とある浄土におられる人間や神々の善し悪しについて見たというように、覩見の語は、その文章全体にかかっています。

ですので、「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」で、「様々な仏様の浄土という国が建てられた理由や、その浄土の様子や浄土におられる人間や神々の善し悪しをご覧になりました」という意味になります。

どなたがご覧になったかというと、法蔵菩薩であり、いつご覧になったかというと、阿弥陀如来という仏様になる前の、法蔵という菩薩の位の時にご覧になりました。

そして、どこでご覧になったかというと、世自在王仏という師である仏様のもとでご覧になったということになります。このように、前の文章から意味がつながっています。

 

◆まとめ

では、今回の内容をまとめていきます。

内容から言うと、「正信偈」は三つの部分で構成されています。

親鸞聖人が阿弥陀如来への帰依と敬いの心を述べた帰敬序(ききょうじょ)。

『仏説無量寿経』という経典に依って説かれた依経段(えきょうだん)。

七高僧の論釈(ろんしゃく)に依って説かれた依釈段(えしゃくだん)の三つです。

今回の「法蔵菩薩因位時」(ほうぞうぼさついんにじ)の部分からが、依経段となります。

そして、「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)という部分は、直訳すると、「阿弥陀如来という仏様が、法蔵という菩薩の位の時、師である世自在王仏のもとにおられ」という意味になるということでした。

法蔵菩薩の法蔵とは、阿弥陀如来という仏様が、仏様となる前のお名前でした。

阿弥陀如来が、菩薩の位の時、師である世自在王仏のもとにおられたというのが、この部分の内容でした。

また、「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」(とけんしょぶつじょうどいん こくどにんでんしぜんまく)という部分を直訳すると、「様々な仏様の浄土という国が建てられた理由や、その浄土の様子や浄土におられる人間や神々の善し悪しをご覧になりました」という意味になります。

覩見という言葉が、その文章の全体にかかっていて、様々な仏様の浄土という国が建てられた理由や、お浄土の様子、お浄土におられる人間や神々の善し悪しについて見たという意味になります。

そして、どなたがご覧になったかというと、法蔵菩薩であり、いつご覧になったかというと、阿弥陀如来という仏様になる前の、法蔵という菩薩の位の時にご覧になり、そして、どこでご覧になったかというと、世自在王仏という師である仏様のもとでご覧になったということでした。

次回は、本日見た部分を、もう少し深く味わっていきたいと思います。

◆本日の偈文(げもん)
それでは、最後に今一度、本文と書き下し文、意訳を見てみましょう。
宜しい方は、口に出して読んでみてください。

【本文】
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪

(とけんしょぶつじょうどいん こくどにんでんしぜんまく)

 

【書き下し文】
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の因位(いんに)の時(とき)、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)にましまして、
諸仏(しょぶつ)の浄土(じょうど)の因(いん)、国土(こくど)人天(にんでん)の善悪(ぜんあく)を覩見(とけん)して、

 

【意訳】
はるか昔、ある国王が、世自在王如来(せじざいおうにょらい)という仏の説法を聞いて感激し、自らもさとりを求める心をおこし、王の位を捨て出家し、法蔵(ほうぞう)という名の菩薩(ぼさつ)となられました。
後の阿弥陀如来(あみだにょらい)である法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王如来(せじざいおうにょらい)のもとでの修行中、様々な仏の浄土(じょうど)が建てられた理由を学び、浄土や、浄土におられる人間や神々の善し悪しをご覧になりました。

 

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最後までご覧いただきありがとうございます。

合掌

福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)

神崎修生

▼正信偈の基礎を学ぶシリーズ

南無阿弥陀仏とは【正信偈の基礎を学ぶ】#004【浄土真宗本願寺派】 (shingyoji.jp)

【正信偈の基礎を学ぶ】#003 自分中心に生きてしまう自分 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

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