【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信偈」を、なるべく分かりやすく読み進めています。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。
さてこの数回、「正信偈」の「本願名号正定業」から「必至滅度願成就」までの四句を見ています。
今回は、「成等覚証大涅槃」という句の「証大涅槃」という言葉を中心に、詳しくみていきたいと思います。テーマは「安らかなさとりをひらく」です。
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さて「正信偈」の「成等覚証大涅槃」の「証大涅槃」という言葉をご覧ください。前回もお話しましたが、涅槃という言葉は、安らかな仏のさとりという意味で、ここでは強調するように大涅槃という言葉が使われています。
「証大涅槃」とは、大涅槃を証するということで、「安らかな仏のさとりをひらく」という意味になります。仏のさとりをひらくことを、成仏とも言います。仏教では、仏のさとりの状態が、この上ない、とても素晴らしい状態であるとされています。
そして、その仏のさとりをひらくまでの過程や方法について、色々な解釈があります。宗派が別れたり、生まれたりする経緯は色々とありますが、さとりをひらく方法が違うことが、宗派が違う理由の一つでもあります。さとりをひらくまでの過程や方法についての解釈の違いが、宗派の違いともなっているのですね。
では、私たちの浄土真宗においては、安らかなさとりをひらくことについて、どのように考えているのでしょうか。
『歎異抄』という書物には、このような言葉があります。
この言葉を意訳すると、このような意味になります。
仏に成るとは成仏のことで、安らかなさとりをひらくということでしたね。
この『歎異抄』の言葉にもあるように、浄土真宗において、「安らかなさとりをひらく」上で要因とされているのは、「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏とお念仏を称える」ことです。
それがなぜ要因とされているかと言うと、阿弥陀仏がそうしてほしいと願われているからだと言われます。
浄土真宗でとても大切にされている『仏説無量寿経』という経典の中に、阿弥陀仏の四十八の願い(四十八願)が説かれています。その四十八の願いの中、十八番目の第十八願が根本の願いとされ、本願と言われています。
その本願には、「至心信楽」(ししんしんぎょう)という言葉で、この「阿弥陀仏の救いを信じてほしい」という阿弥陀仏の願いが示されています。また、「乃至十念」(ないしじゅうねん)という言葉で、「南無阿弥陀仏と念仏を称えてほしい」という阿弥陀仏の願いも示されています。
今回、この部分の解説を詳しくすると、本題に戻るまでに時間がかかりますので、この部分の解説はいずれの機会にさせていただこうと思います。
とにかく、阿弥陀仏の根本の願いである本願には、「阿弥陀仏の救いを信じてほしい」「南無阿弥陀仏と念仏を称えてほしい」という願いが示されています。
ですので、「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏とお念仏を称える」ことが、浄土真宗においては「安らかなさとりをひらく」上での要因とされているのですね。
そして、もう一つ説明を付け加えると、阿弥陀仏の本願には、「不取正覚」(ふしゅしょうがく)という言葉で、「安らかな仏のさとりをひらかせる」とも誓われています。
「不取正覚」という言葉は、直接的には、阿弥陀仏自身がさとりをひらくことを誓われていますが、ひるがえっていうと、私たちに「安らかな仏のさとりをひらかせる」という意味になります。ここも、詳しい解説はまたの機会にさせていただきますが、大枠の意味をおさえていただければと思います。
つまり、阿弥陀仏の本願には、私たちにこの「阿弥陀仏の救いを信じてほしい」「南無阿弥陀仏と念仏を称えてほしい」と願われており、そして「安らかな仏のさとりをひらかせる」と誓われています。
『歎異抄』にも「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と端的に示されているように、「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える」ことを要因として、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって「安らかな仏のさとりをひらく」ということが示されています。
このように、「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えよう」と思う心や仏縁が育まれるもとを訪ねてみれば、阿弥陀仏が本願にそうしてほしいと願われていたからだった。
仏縁に遇い、お念仏の教えを聞き喜び、手を合わせ、お念仏を称える。そうした一つひとつの思いや行為は、阿弥陀仏がそうしてほしいと願われ、その願いのはたらきが至り届いた姿だった。
そのように先達は、阿弥陀仏の救いやお念仏の教えを喜び、今こうして私たちのところにも至り届いています。こうした内容が、「正信偈」の「本願名号正定業 至心信楽願為因」というところに示されていました。
阿弥陀仏の根本の願いである本願には、「悩み苦しむものを必ず救う。だからどうか、その救いを信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称えてほしい」ということが願われ、誓われていました。
そうした阿弥陀仏の本願の願いが、南無阿弥陀仏の名のり(喚び声)となって、私たちのもとへ至り届き、「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えよう」と思う心や仏縁が育まれていく。
そして、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、安らかな仏のさとりをひらくことが今生において(この世で生きる間に)定まる。そうした内容が、「本願名号正定業 至心信楽願為因」というところに示されていました。
ですから、「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える」ことを要因として、阿弥陀仏の願いや救いのはたらきの結果として、私たちが「安らかな仏のさとりをひらく」こととなる。
宗派によって、「さとりをひらく」までの過程や方法について、色々な解釈がありますが、浄土真宗ではそのように考えていることになります。そして、「正信偈」の「証大涅槃」という言葉は、そうした意味があります。
また、「安らかなさとりをひらく」のはいつかというと、これも宗派によって色々な解釈があります。
前回もお話しましたが、浄土真宗においては、「往生即成仏」という考え方をしています。往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生まれるということです。この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれると考えます。
そして、即成仏とありますが、即という言葉は、同時とか、すぐさまという意味の言葉です。往生と同時に成仏するということが、往生即成仏ですね。この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれると同時に(すぐさま)仏となる。成仏とは、仏と成るということで、安らかなさとりをひらくということでしたね。
繰り返すと、この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、同時に(すぐさま)安らかな仏のさとりをひらく。そういう考え方が、往生即成仏です。
ですから、「安らかなさとりをひらく」のはいつかというと、浄土真宗においては、この世でのいのち尽きた時ということになります。
そしてまた、この往生即成仏の考え方が、浄土真宗における阿弥陀仏の救いの内容でもあります。
浄土真宗における救いとは何かというと、「この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、同時に(すぐさま)安らかな仏のさとりをひらく」ということです。
この往生即成仏の救いを、「正信偈」では「証大涅槃」という言葉で表現されています。往生即成仏と言っても、証大涅槃と言っても、同じことを示しています。
ここまで見てきた内容をまとめると、このように味わうことができます。
「阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える」ものは、「この世でのいのち尽きた時に、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、同時に(すぐさま)安らかな仏のさとりをひらく」。
こうした往生即成仏の考え方が、浄土真宗における阿弥陀仏の救いの内容であり、その往生即成仏の救いのことを、「正信偈」には「証大涅槃」という言葉で表現されています。
そして、私たちが救われていくそのもとを訪ねれば、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきがあるのでした。
さてそれでは、質問です。仏教では、なぜ仏のさとりをひらくことを大切にするのでしょうか。なぜだと思われますか。
それは、悩み苦しむものたちを救い導くためだと言われます。
安らかな仏のさとりをひらいたら、それで終わりかというとそうではなく、悩み苦しむものを救うためのはたらきをするというのですね。そのことを浄土真宗では、還相と言っています。
還相とは、「阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、仏のさとりをひらいたものは、再びこの世に還り来て、縁のあったものを救い導くはたらきをする」ことだと言われます。
安らかな仏のさとりをひらいて、そこに安住し続けるということではなくて、縁のあったものを救い導く還相のはたらきをすると考えるのですね。
このことを、私たちに引き寄せて考えてみると、どんなことが考えられるでしょうか。
例えば、先に往かれた大切な方が、浄土へと往かれ、仏のさとりをひらき、のこされた私たちのことを救い導こうとはたらきかけている。そのように考えることができるのではないかと、先達の方々は味わってきました。そして、そうした味わい方はとても温かいものだと思います。
大切な方との別れを通して、私たちは仏様に向かい手を合わせるようになったり、お寺に足を運ぶようになったり、こうして仏法を聞き学ぶご縁に遇ったり、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるようになることがあります。
そうした、仏縁をいただいてから、私たちがおこなうようになったことや、思うようなった様々なことが、実は先に往かれた方をご縁としてなされている。
これまで合わせることのなかった両手が合わさるようになり、足の向かなかったお寺に足を運ぶようになり、関心のなかった仏法を聞き学ぶようになり、口から出るはずのなかった南無阿弥陀仏が口からこぼれ出るようなった。
そうした仏縁が育まれたのは、実は先に往かれた方をご縁として育まれのではないか。私の手が合わさるその姿に、先に往かれた方の還相のはたらきが表れているのではないか。私が南無阿弥陀仏と称えるそのところに、先に往かれた方の還相のはたらきが表れているのではないか。
そのような還相という世界観の中で、先達の方々は、先に往かれた方のことを受けとめなおしてきたのですね。
先に往かれた方が、亡くなった、離れていった、もう会えないという思いも、私たちは抱きますが、それだけで終わらない。今もこうして共にあり、見まもられ、導かれている。
そうした世界観の中に、先に往かれた方のことを受けとめなおし、出会いなおすということがあるのでしょうね。先に往かれた方と出会いなおす。そうしたことを考えると、とても温かく、嬉しくなったりもします。
「ああ、今この手を合わせるところに共にいる」「南無阿弥陀仏と称えるところに共にある」。
ご法事やお墓参りの時だけでなく、日々の生活の中で、「ああ、今も一緒にいる」と受けとめなおし、出会いなおしていける。そう感じられることで、ご法事やお墓参りの時の心持ちも、さらに温かなものとなるのでしょうね。還相という考え方には、そうした温もりのある世界観が広がっています。
苦しみ悲しみの出来事がありながらも、大切な方に見まもられながら、「ああ、この人生をいただいて良かった」と、人生を心豊かに味わっていくような心や見方がひらかれてくる。そうしたことが、仏縁に遇い、仏法を聞き学ぶ意味ともなると言われます。
そしてこの仏縁には、先に往かれた大切な方の還相のはたらきがあり、その方のことを受けとめなおし、出会いなおしていくことともなる。
私たちが手を合わせるようになった、そのもとを訪ねれば、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきがあるわけですが、その阿弥陀仏の救いの教えに導こうとする還相のはたらきを、先に往かれた方はしてくださっている。そうした還相の世界観が、今を生きる私たちの心を温かくしてくれることがあります。
死が死で終わらない。この世でのいのち尽きた後にも、今度は仏となり、生まれていく。私たちもいずれ、今生のいのちが尽きていきますが、それでも、家族や友人などの縁のある方々と出会いなおしていくような、還相の世界観がそこには広がっています。
◆
いかがだったでしょうか。今回は、「証大涅槃」という言葉を中心に、「安らかなさとりをひらく」という内容でお話させていただきました。
この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、同時に(すぐさま)安らかな仏のさとりをひらく。そうした往生即成仏の考え方が、浄土真宗における阿弥陀仏の救いの内容であり、「正信偈」には「証大涅槃」という言葉で表現されていました。
では、浄土真宗の教え、阿弥陀仏の救いは、いのち尽きた後のことだけを言っているかというと、そうではありませんでした。
還相のように、仏縁をいただく中で、先に往かれた方とも出会いなおしたり、苦しみ悲しみの中にも、「ああ、この人生をいただいて良かった」と、今のこの人生を心豊かに味わっていくような心や見方がひらかれてくるということがあります。「正信偈」には、そうしたこの人生を生きていく中での利益についても示されています。
この世でのいのち終えた時に、阿弥陀仏によって救われていくという後生での救いだけでなく、現生(この世を生きる)中にも、人生を心豊かに味わっていくような現生の利益が展開していきます。
そうしたことが、「正信偈」の「成等覚証大涅槃」という言葉の「成等覚」というところに示されています。次回は、「成等覚」という言葉を中心に、「現生の利益」について見ていきたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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