浄土真宗【正信偈を学ぶ】第32回_成等覚証大涅槃_現生の利益①悪を転じて善となす

【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

さてこの数回、「正信偈」の「本願名号正定業」から「必至滅度願成就」までの四句を見ています。 今回は、その中の「成等覚証大涅槃」という句の「成等覚」という言葉を中心に、見ていきたいと思います。

テーマは「現生の利益」「悪を転じて善と成す」です。

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◆成等覚の意味

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さて、「正信偈」の「成等覚証大涅槃」の「成等覚」という言葉をご覧ください。これは、書き下し文では、「等覚を成り」という言葉です。

等覚(とうがく)とは、等正覚(とうしょうがく)という言葉の略です。そして正覚とは、「安らかな仏のさとり」のことです。等覚、等正覚とは、その正覚に等しいということで、「安らかな仏のさとりに等しい位」という意味になります。

等覚と同じ意味の言葉として、正定聚(しょうじょうじゅ)という言葉があります。正定聚とは、「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間」という意味です。

等覚とは正定聚と同じ意味ですから、「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まっている仲間」とか、「安らかな仏のさとりに等しい位」という意味になります。

そして「正信偈」では、成等覚となっていますから、「安らかな仏のさとりに等しい位」に成るということですね。

またそれを、入正定聚とも言います。入正定聚の入とは、入ると書きますが、「安らかな仏さとりをひらくことが、正しく定まった仲間」に入るということで、入正定聚です。

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さて浄土真宗では、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、安らかな仏のさとりをひらくと考えます。

これを往生即成仏と言いました。この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれることを往生と言い、すぐさま仏のさとりをひらくことを即成仏と言います。

即という言葉が、すぐさまという意味で、成仏という言葉が、仏となる、安らかな仏のさとりをひらくという意味ですね。

本来は、浄土に往き生まれることと、仏のさとりをひらくことは別のことで、同時なことではありません。

しかし、阿弥陀仏という仏様は、「悩み苦しむものを浄土に生まれさせ、仏とならせる」と誓われた仏様です。ですから、「浄土に往き生まれると、すぐさま仏のさとりをひらく」ことになるはずだ。そのように親鸞聖人は、阿弥陀仏のお心を読みといていかれました。

この世でのいのち尽きた時、阿弥陀仏の願いと救いのはたらきによって、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれ、すぐさま安らかな仏のさとりをひらく。

この往生即成仏の考え方が、浄土真宗における阿弥陀仏の救いの内容であり、「正信偈」には「証大涅槃」という言葉で表現されていました。

そしてそれは、この世でのいのち尽きた後の救いですから、後生の救いとも言われます。そうしたお話を前回までにさせていただきました。

では、その次の疑問として、いのち尽きた後の救いならば、この浄土真宗の教え、阿弥陀仏の救いは、いのち尽きた後のことだけを言っているのかという疑問がおこってきます。しかし、そうではないのですね。

◆現生の利益

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親鸞聖人の書物の中にも、現生の利益といって、この世を生きる上での利益も示されています。利益とは、ここでは阿弥陀仏の救いによって得られるお徳のことです。

お念仏の教え、阿弥陀仏の救いに遇っていく中に、後生の救いだけではなく、現生の利益も展開していきます。

親鸞聖人の代表的な書物である『教行信証』には、現生十益(げんしょうじゅうやく)という、この世を生きる上での十種類の利益が示されています。

もし、お念仏の教えが、死後の救いだけを説いたものならば、死後の不安や恐怖に対しては安心を与えますが、今を生きる喜びや力にはなりづらいですね。

しかし、お念仏の教え、阿弥陀仏の救いに遇っていく中に、後生の救いだけでなく、現生の利益(この世を生きる上での利益)もあるのだと示されています。

それが、具体的には現生十益という十種類の利益が示され、それをまとめると「入正定聚」だと言われます。浄土真宗における現生の利益をまとめると、「入正定聚」であり、それが「正信偈」には「成等覚」と示されています。

では、これらの現生の利益とは、どういうものなのでしょうか。ここから、親鸞聖人が示された現生十益について、見ていきましょう。

◆現生十益

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親鸞聖人の代表的な書物である『教行信証』には、現生十益と言って、この世を生きる上での十種類の利益が示されています。お念仏の教え、阿弥陀仏の救いに遇っていく中に、このような利益が与えられるというのですね。順に見ていきましょう。

まず、現生十益の一つ目は、冥衆護持の益(みょうしゅごじのやく)です。これは、「菩薩や神々などの目に見えない存在にいつも護られること」だと言います。

目に見えない存在に護られるとは、具体的にどういうことかと説明するのは難しいことです。ですが、あまり頭で難しく考えようとせずに、言葉のままにすっと受け止めていくことが大事ではないかと、先達の方々もおっしゃっていますが、私もそう思います。

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親鸞聖人のつくられた『浄土和讃』といううたの中に、現生の利益についてうたわれたものがいくつかあります。その和讃を、説明の代わりにご紹介しておきます。

南無阿弥陀仏をとなふれば
梵王(ぼんのう)・帝釈(たいしゃく)帰敬(ききょう)す
諸天善神ことごとく
よるひるつねにまもるなり

『浄土和讃』「現世利益讃」

南無阿弥陀仏をとなふれば
四天大王もろともに
よるひるつねにまもりつつ
よろづの悪鬼をちかづけず

『浄土和讃』「現世利益讃」

阿弥陀仏の救いを信じ、南無阿弥陀仏とお念仏を称える心をいただいたものは、梵天や帝釈天、四天王などの神々から、夜も昼もつねに護られるという言葉が示されています。

こうした目に見えない存在に護られるというのが、現生十益の一つ目の、冥衆護持の益です。

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現生十益の二つ目は、至徳具足の益です。これは、「名号に込められたこの上ない尊いお徳が、身にそなわること」だと言います。

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阿弥陀仏は、「悩み苦しむものを救いたい」と本願(根本の願い)をおこされ、その願いを成就するために、兆載永劫(ちょうさいようごう)というとても長い間、ご修行に励まれたと経典に説かれています。

そうした阿弥陀仏の本願の願いや修行の功徳が、南無阿弥陀仏の名号に込められ、私たちを救おうと阿弥陀仏がはたらきかけておられる。そうした阿弥陀仏の願いと救いのはたらきについて、これまでもお話をしてきました。

その阿弥陀仏の願いと修行の功徳が込められた名号のこの上ない功徳を、南無阿弥陀仏と称えるこの身にいただいていく。別の言い方をすれば、阿弥陀仏の清らかなお心である信心をいただいていく。

そうした利益が、至徳具足の益という「名号に込められたこの上ない尊いお徳が、身にそなわること」です。

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現生十益の三つ目は、転悪成善(てんあくじょうぜん)の益です。これは、「罪悪が転じて善となること」だと言われます。

親鸞聖人のつくられた『高僧和讃』には、このようなうたがあります。

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罪障(ざいしょう)功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし

『高僧和讃』「曇鸞讃」

罪や障りは、本来は良くないものです。しかし、氷が多ければ、水も多くなるように、罪や障りが多ければ、功徳も多くなる。この和讃には、そのように示されています。

罪や障りがそのままであれば、良くないのですが、阿弥陀仏の救いに遇い、阿弥陀仏の清らかなお心に触れ、南無阿弥陀仏と称える中に、悪が転じて善と成る。障りが転じて徳となるということが示されています。この和讃は、転悪成善の益の内容がうたわれた和讃と言えるかと思います。

もちろん、悪いことをしてもいいということではなく、私たちは自分本位の煩悩をもっているという考え方が前提になっています。

良かれと思ってしたことでも、相手にとっては迷惑になることも、私たちにはありますね。また、自分が悪い行為をしようと思っていなくても、結果的に悪い行為となってしまうこともあります。

なぜそうなってしまうかというと、私たちは自分本位の煩悩を持っているから、そういう結果になると仏教では考えるのですね。

どこまでいっても、自分本位というところから離れられない。本当に相手の立場になって考えたり、本当に思いやるということは、かなり難しいことなのですね。

お念仏の教えを聞き、自分本位の煩悩に気付かされていくと、どこまで相手の立場に立てるか、どこまで人のことを思いやれるかということに、疑問がわいてくることがあります。

相手の立場に立って考えようとすることや、相手のことを思いやろうとする心は、とても素晴らしいことです。ですが、根源的なところで、自分本位、自分中心に考えてしまう自分がいる。そういう自分の本性に、お念仏の教えを聞いていくことで気付かされることがあります。

そうすると、自分は相手の立場に立って考えているとか、相手のことを思いやっているとは、おこがましくて、中々そうは思えなくなってきます。

相手の立場に立ちたいが立てない。相手のことを思いやりたいが思いやれない。そして同時に、自分がこれまでいかに、自分本位のままに生きてきたか。そうしたことにも気付かされてきます。

しかし、それはネガティブなことではなくて、相手のことが分からないということが分かるということです。自分本位の自分を中心とした見方だけではない見方がひらかれてくるということです。

人と自分は違うのだという前提にたって、相手と接するような心や姿勢が育まれてきます。相手の立場には立てないけれども、相手の思いを本当には分からないかもしれないけれども、できる中でやっていこうとする。

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お念仏の教えを聞く中で、自分本位の煩悩に気付かされ、罪や悪を恥じるような慚愧(ざんぎ)の思いがおこってくる。そして、謙虚な心がひらかれてくる。

阿弥陀仏の救いに遇う中で、自分本位の煩悩が縁となって、それが徳に変わっていく。そうしたことが、転悪成善の利益として示されている内容かと思います。

そして、転悪成善の利益とは、また別の角度からも味わえます。

私たちは生きていると、自分の思い通りにならないことを色々と経験しますね。思い通りにならないことを、仏教では苦(苦しみ)と示されています。

苦の代表的なものでは、老いによる苦しみや、病気による苦しみ、死による苦しみなどが挙げられています。他にも、大切な人と別れていく苦しみや、苦手な人と合わなければならない苦しみ、欲しいものが手に入らない苦しみなども挙げられています。

こうした思いどおりにならないことは、本当は経験したくはないことですね。思い通りにならないことは苦しいですから、経験したくはありません。

しかし、人生を生きていれば、いずれそうしたことを経験します。そして、私たちはなぜ苦しいかというと、思い通りにはいかない現実を中々受け止められない、納得できないからですね。

病気になって、その現実を中々受け止められない、納得できない。「何で自分だけ、こんな病気にならなければいけないのか」。そう思ってしまう私たちがいますね。

自分がこうあってほしいという思いとは違う現実が訪れた時に、私たちはそのことを中々受け止められず、納得できないことがあります。そして、この受け止められない、納得できないという思いが、私たちの苦しみのもとなのですね。

老いや病気自体の苦しみもありますが、歳を重ねていくことが受け止められない、病気になったことに納得できない。その現実を受け止められない、納得できないと捉われてしまうところに、私たちは苦しむわけです。

その捉われの心を煩悩と言い、煩悩が苦しみの根本原因だと仏教では考えます。

現実を受け止める、現実に納得するということは、簡単なことではないですね。それができるなら、私たちはあまり苦しんだり、悩んだりしませんね。そして、現実に納得しているなら、差別や偏見、争いや戦争などもおこらないでしょうね。

現実を受け止めたり、納得ができないと、いつまでも悩み苦しみ、つらい思いの中で生きていくことにもなります。そして、悩み苦しみが、怒りや憎しみともなり、誰かを傷つけたりもします。そのことを私たちは分かりながらも、中々どうしようもないということがありますね。

しかし、そうした思い通りにならない現実に苦しみながらも、その思い通りにならないことが逆縁となり、大切なことに気付かされていく、心が育まれていくということがあります。

お子様が病気になったことに苦しむお母様がおられました。我が子が病気になることは、場合によっては、自分が病気になることよりもつらいことかもしれませんね。

何で、自分の子どもがそんな病気になったのだろうか。私が悪かったのだろうかと自分を責め、苦しんでおられました。

しかし、病気を通して、お子様と時間を過ごすことが多くなり、お子様の思いにこれまでよりも触れるようになり、大切なことに気付かされたそうです。そのお母様は、このように語ってくださいました。

「これまでも子どもと一緒に過ごしていましたし、子どものことを気にかけていると思っていました。しかし、子どもが病気になったことで、違ったのだということに気付かされました。

時間を一緒に過ごしていても、心が触れ合っていたかというと、必ずしもそうではなかったように思います。子どもにこうあってほしいという親の思いを押し付けることが多く、本当に子どもの思いを分かろうとはしていませんでした。

今は、この子が幸せにいてくれたらそれでいい。生まれてきて良かったと思ってくれたら、それだけでいい。そう願っている自分の本当の思いに気付かされました。

私がこうあってほしいという思いを押し付けるのではなく、この子が今を喜んで過ごしてくれたら、それだけでいいんだということに気付かされました」。お母様は、このような言葉を語ってくださいました。

私たちは人生の中で、思い通りにならないことを数多く経験します。そしてその思い通りにならないことに苦しみます。

しかし、苦しみの中にも、そうした出来事が逆縁となり、人生の大切なことに気付かされていく、心が育まれていくということがあるようです。

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自分にとって思わしくないことが、自分を育んでくれたというような心がひらかれていく。悪や障りが、善や徳として受け止められていくような世界観がひらけてくる。

常々言うことですが、お念仏の教えに出遇う中で、「ああ、この人生をいただいて良かった」と、今のこの人生を心豊かに味わっていくような心や見方がひらかれてくることがあります。

そうしたお徳が、転悪成善の利益として示されている内容かと思います。

いかがだったでしょうか。

今回は「正信偈」の「成等覚」という言葉を中心に、現生の利益、現生十益について味わっていきました。現生十益の途中までお話しましたので、次回はまた続きをお話させていただこうと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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・『浄土真宗聖典』七祖篇 注釈版/浄土真宗本願寺派
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・『浄土真宗聖典』浄土三部経(現代語版)/浄土真宗本願寺派
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・『浄土真宗聖典』教行信証(現代語版)/浄土真宗本願寺派
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