【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

さてこの数回、「正信偈」の「本願名号正定業」から「必至滅度願成就」までの四句を見ています。前回は、その中の「成等覚証大涅槃」という句の「成等覚」という言葉から、現生の利益についてお話していました。

現生の利益とは、現生(この世)を生きる上での利益のことです。お念仏の教えに遇っていく中に、このような利益がありますよというのが、現生の利益ですね。具体的には、親鸞聖人が現生十益という、十種類の利益を示されています。

前回は、現生十益の一つ目から三つ目までを見ていきました。今回は、現生十益の四つ目から見ていきましょう。テーマは、「人生を喜ぶ心が開かれる」です。

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◆仏様に護られる

さて、現生十益の四つ目は、「諸仏護念の益」(しょぶつごねんのやく)です。「諸仏護念の益」とは、「諸仏に護られること」です。様々な仏様に護られるということです。

現生十益の五つ目は、「諸仏称讃の益」(しょぶつしょうさんのやく)です。「諸仏称讃の益」とは、「諸仏にほめたたえられること」です。様々な仏様に、ほめたたえられるということですね。

現生十益の六つ目は、「心光常護の益」(しんこうじょうごのやく)です。「心光常護の益」とは、「阿弥陀仏の光に摂め取られて常に護られること」です。

このように現生十益には、「諸仏護念の益」「諸仏称讃の益」「心光常護の益」というように、阿弥陀仏や様々な仏様に護られ、ほめたたえられるという利益が示されています。

親鸞聖人のつくられた和讃といううたに、このようなものがあります。

十方微塵(みじん)世界の
念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(『浄土和讃』「弥陀経讃」)

阿弥陀仏という仏様は、お念仏を称えるものたちを、光の中に摂め取って、決して見捨てることがない。そのような内容の和讃です。

また、このような和讃もあります。

南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞(いにょう)して
よろこびまもりたまふなり
(『浄土和讃』「現世利益讃」)

南無阿弥陀仏というお念仏を称えれば、様々な仏様が、百重にも千重にも取り囲んで、喜んで護ってくださる。そのような内容の和讃です。

この二つの和讃には、南無阿弥陀仏とお念仏を称える人々を、阿弥陀仏や様々な仏様が護ってくださるということが示されています。先程の現生十益の「諸仏護念の益」「諸仏称讃の益」「心光常護の益」に重なる内容かと思います。

このように、お念仏の教えに遇っていく中に、現生の利益として、阿弥陀仏や様々な仏様に護られ、ほめたたえられるという利益が示されています

では、阿弥陀仏や様々な仏様に護られるとは、どういうことなのでしょうか。

まずは、言葉のままの受け止め方があります。前回の冥衆護持の益(みょうしゅごじのやく)のところでもお話しましたが、あまり頭で難しく考えずに、仏様に護られるということを、言葉のままにすっと受け止めていくというあり方ですね。

◆人生を喜ぶ心が開かれる

また、仏様に護られるということを、もう少し深く味わっていくと、このような受け止め方もできるのではないでしょうか。

仏様に護られるとは、お念仏の教えに出遇い、「生きていて良かった」と人生を喜べる。そのような人生を喜ぶ心が開かれることとも言えます。護られるという言葉に寄せて言えば、お念仏の教えに出遇い、人生を喜ぶ生き方に導かれていくこととも言えます。

私たちは、「生きていて良かった」と人生を喜べたら、本当はそれで幸せなのではないでしょうか。あれもほしい、これもほしいと、何かを手に入れようと躍起になったり、手に入らずに不満に思うこともある私たちです。しかし、今あることに満たされ、「生きていて良かった」と人生を喜べたら、本当はそれで幸せだと思うのですね。

それが、人生の終着点と言ってもいいかもしれません。この人生、どこに向かって歩んでいるかと言えば、「生きていて良かった」と人生を喜べることだと、そう言ってもいいのではないでしょうか。

以前、ご法話でこのような言葉を伺いました。

朝目覚めたことを喜ぶ人は少ない。

私たちは果たして、朝目覚めたことを喜んでいるでしょうか。朝目が覚めたことを当たり前のこととして、一日をスタートしているかもしれませんね。

朝当たり前に目覚めると思えるからこそ、すんなりと夜眠りにつけるのでしょう。もし、翌朝目覚めないかもしれないと思うと、夜怖くて眠れないかもしれません。

白血病の治療をされている方が、夜眠ることが怖くなる時があるとおっしゃられていました。

白血病の治療で、病院に入院していて、夜を迎えます。病気の痛みや治療の苦しみもあることでしょう。真っ暗な病室の中で、明日目覚めることができるだろうかと考え始めると、眠ることが怖くなるそうなのですね。そんな考えがグルグルと頭の中を巡って、中々寝付けないそうです。そうでしょうね。それでも何とか眠ることができ、翌朝目覚めた時には、「今日も目覚めることができた。今日も一日を迎えることができた」と安堵するとおっしゃっていました。

そしてまた、そのような死の恐怖を感じる時に、お念仏の教えに出遇っていて良かったと、しみじみと思うともおっしゃっていました。死への恐怖と同時に、阿弥陀仏の光の中に摂め取られているという安心もあるのでしょうね。

朝目覚めたことを喜ぶ人は少ない。

私も、朝目覚めたことを当たり前のこととして、特に何とも思わずに一日を過ごすことがあります。ですが、朝目覚めることにも、本当は大きな喜びがあるのでしょうね。そして、今の一瞬を噛みしめながら、喜びと感謝の中に、一日を過ごすこともできるのでしょうね。

私たちは、今あることに満たされ、「生きていて良かった」と人生を喜べたら、本当はそれで幸せなのではないでしょうか。

確か『本願寺新報』という本願寺から出ている新聞で拝見したと思いますが、花岡尚樹さんというお坊さんが、このような言葉を紹介されていました。

ぼくのあしはまほうのあし
はしったりあるいたり
みんなとおなじようには
できないことばかりだけど
やさしさやおもいやりを
きづかせておしえてくれる
ぼくのあしはまほうのあし

この言葉は、全身の筋肉が弱って、身体の機能が失われる難病になった方が書かれた詩だそうです。

その方は、病気のため、歩くことができなくなったそうです。思い通りに動けないと、イライラしたり、その状況に絶望することもあるのではないでしょうか。しかしその方は、動かなくなった僕の足は魔法の足だと、詩に書かれたそうです。

自分が乗った車椅子を、他の方が押してくれる。歩けない自分を、運んでくれる。走ったり、歩いたり、皆と同じようにできないことばかりだけれど、人の優しさや思いやりに触れて、その大切さに気付かされたり、教えられることがあったのでしょうね。元気だった時、自分で歩けた時よりも、そうした優しさや思いやりに気付かされたのでしょうね。

その方は、日常生活のほとんどが、介護がいる状態だと書いてありました。歩くことだけではなくて、食事を取ること、お風呂に入ること、トイレに行くこと、寝返りを打つこと。その全てを、誰かのサポートを必要とする状態だったかもしれません。

しかし、動けないことで、歩けないことで、人の優しさや思いやりを気付かせて教えてくれた。だから、僕の足は魔法の足だと。そういうことを詩に書かれていたそうです。

思い通りに動けない苦しさも、きっとあったことでしょう。すぐに感謝の気持ちになったわけではないかもしれませんね。苦しさや葛藤もあったことでしょう。

しかし、病気になり動けなくなって、動けることのありがたさや喜び、人の優しさや思いやりなど、これまで気付けなかった多くのことに気付かされたのでしょうね。

私たちは、病気などでなければ、自分で歩いたり、食事をしたり、お風呂に入ったりしています。それらが自分にとって当たり前なことであれば、特にありがたいこととも思いませんね。

私も、いつもいつも、一つ一つに感謝や喜びを感じながら過ごしているかと言うと、そうできていないことも多いですね。忙しい時などは、流れるように日々が過ぎていきます。

しかし、こうしたお話を伺えば、私たちが当たり前に歩いたり、食事をしたり、お風呂に入っていること。そのどれもが、実は当たり前なことではないことを思わされます。一つ一つのことを、噛みしめながら、今の一瞬一瞬を大切にしながら過ごしたいと思い直します。

私たちは、人の一生を見たり、思い通りにならないことを自分自身も色々と経験しながら、生きるとはどういうことかと知らされ、気付かされていくことがあります。そして、人の思いやりや優しさを、より感じるのでしょうね。

そうした時に、仏法の言葉、お念仏の教えというのが、これまでと全く違って聞こえてきて、心に響き渡る、心に染みわたるということがあります。

仏様に護られるとは、お念仏の教えに出遇い、「生きていて良かった」と人生を喜べる。そのような人生を喜ぶ心が開かれることとも言えます。人生を喜ぶ生き方に導かれていくこととも言えます。

そして、こうした内容が、現生十益の七つ目にも示されています。

現生十益の七つ目は、「心多歓喜の益」です。「心多歓喜の益」とは、「心に喜びが多いこと」です。これは、直接的には、お念仏の教えに出遇ったことを喜ぶ心であり、信心をいただいたことから感じられる利益です。

それは、先程から言っているような、お念仏の教えに出遇い、「生きていて良かった」と人生を喜べる。そのような人生を喜ぶ心が開かれることとも言えるでしょう。こうしたことが、現生の利益という、この世を生きる上での利益として示されています。

いかがだったでしょうか。

今回も、「正信偈」の「成等覚証大涅槃」という句の「成等覚」という言葉から、現生の利益についてお話しました。次回も続きを見ていきたいと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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・『浄土真宗聖典』七祖篇 注釈版/浄土真宗本願寺派
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