浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信偈」を、なるべく分かりやすく読み進めています。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。
【正信偈を学ぶ】シリーズ。第26回目の今回は、十二光の中の無称光(説き尽くすことのできない光)について、味わっていきたいと思います。
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さて無称光とは、説き尽くすことのできない光のことです。
称とは、称えるとも読みますが、ここでは説くとか、述べる、ほめるといった意味で用いられています。その称に無とついているので、説くことができないとか、述べることができない、ほめることができないという意味になります。
ここでは無称光で、説き尽くすことのできない光と訳しています。
前回、難思光(思いはかることができない光)について、お話いたしました。救われようのない、罪や悪の深く重いものたちを、阿弥陀仏という仏様は救わずにはおれないと、慈悲の心をかけてくださっている。そうした、阿弥陀仏の救いの力やお徳について、難思光(思いはかることができない光)という言葉で表現されていました。
今回の無称光も、難思光と似た意味の言葉になります。つまり無称光とは、阿弥陀仏の救いの力やお徳について、説き尽くすことができない、言葉も及ばないというような意味の言葉になります。
救いの力やお徳とは具体的には、阿弥陀仏が生きとし生けるものを、浄土という仏の国に往き生まれさせること。そして、阿弥陀仏と同じ光明をはなつような仏とならせること。
そうした阿弥陀仏の救いの力やお徳を、無称光(説き尽くすことのできない光)という言葉で表現されています。
親鸞聖人がつくられた和讃といううたに、無称光についてうたわれたものがあります。
この和讃を意訳すると、このような意味になります。
まずこの和讃には、神光という言葉が出てきます。神光とは、威神光明とも言われます。阿弥陀仏のはなつ光明は、威神光明とも言われるすぐれた光であることを、神光という言葉で表しています。
そして、その次に離相という言葉がありますが、これは、相を離れているという意味の言葉です。相とは、すがたかたちのことで、それを離れているということですから、離相で、すがたかたちを離れているという意味になります。
この離相という、すがたかたちを離れているという言葉で、仏のさとりを表しています。阿弥陀仏という仏のさとりの境涯からはなたれる光明は、すがたかたちを離れているということです。
すがたかたちを離れているので、我々にはなかなか理解できない、説き尽くすことができない、言葉も及ばない。ですので、そうした阿弥陀仏のはなつ光明を無称光(説き尽くすことができない光)と言い、阿弥陀仏を無称光仏と言う。
そうした内容が、この和讃の前半部分の意味になります。
もう一度、この和讃の前半部分を読んでみましょう。
「神光の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり」
「威神光明とも言われる阿弥陀仏の光明は、すがたかたちを離れていて説き尽くすことができません。そのため、阿弥陀仏のことを、無称光仏と申します」
このような意味になります。
我々は、物事や現象を、知覚して理解しようとしますね。眼で見たり、身体で感じたり、音を聞いたり、臭いをかいだり、舌で味わったりして、物事や現象を知覚して理解しようとします。
ですが、我々が知覚できるものは限られています。例えば、人間が聞こえる音の高さの範囲を可聴域と言うそうです。その可聴域以外の音は、我々には聞こえづらいんですね。
可聴域は、年齢などによって個人差があり、年齢とともにせばまっていくと言います。子どもが聞こえる高さの音が、年齢を重ねると聞こえなくなったりします。
人間に聞こえる可聴域より高い音のことを、超音波というそうですね。その超音波を使って、周囲の状況を確認しているのが、イルカやコウモリだと言われます。
人間には知覚できないような音であっても、実際にはその音が出ていて、それを使っている生き物もいるんですね。
他にも、人間が知覚できないものといえば、宇宙の広さなどもそうですね。とてもではないですが、宇宙全体を知覚して理解することは難しいでしょう。しかし、宇宙は存在しています。
我々は、目で見たり、身体で感じたり、知覚したものでないと、理解したり、実感することが難しいものです。ですが、人間に知覚できる範囲以外のものも存在しています。
我々が知覚できる範囲は限られているので、全てのことを知り通すことは難しいですね。すがたかたちを離れた仏のさとりというものも、我々にはなかなか知覚することが難しいものです。
そうした、すがたかたちを離れた仏のさとりの境涯からはなたれる光明を、離相という言葉で表されているかと思います。
阿弥陀仏のはなつ光明は、離相と言われるように、すがたかたちを離れていて、我々には知覚して理解することが難しいものです。
ですので、そのような阿弥陀仏の光明を、無称光(説き尽くすことができない光)と表現されているかと思います。
今の話を少し補足しておくと、イルカやコウモリの音波や、宇宙の広さなど、我々には知覚できないけれども、測定することで理解できる部分もありますね。
それ自体を直接は知覚できなくても、可聴域以外の音があることや、宇宙の広さについて、測定できる範囲で理解できる部分もあります。
そして、こうした知覚できないものを、たとえ間接的にであっても、何とか理解できるようにと、伝えたり、表現しようとする営みは大事だと思います。
仏のさとりという境涯についても、我々には分からないことだからという一言で片づけてしまっては、もやもやしますよね。
たとえ知覚できないものであっても、何とか伝えよう、表現しようとする営みがあるからこそ、仏のさとりの境涯というものがあるのだということが理解できます。
仏のさとりとは、すがたかたちを離れていて、我々には知覚が難しいかもしれない。しかし、そうであっても、すがたかたちを離れているという言葉でもって、仏のさとりを伝えようとし、表現しようとする。
すがたかたちを離れているという言葉そのものは、仏のさとりそのものではないかもしれないけれども、仏のさとりを間接的に表現した言葉で、仏のさとりがどういうものかを、我々に伝えようとしているんですね。
そうした伝えようとする営みすらなければ、仏のさとりの境涯というものがあることすら分からず、手がかりも得られません。
知覚できないことを、分からないと一言で片づけるのではなく、分からないのだけれども何とか伝えよう、表現しようとする営みがあってはじめて、我々にその手がかりや、わずかながらでも理解できることにつながると思います。
とにかくここでは、仏のさとりの境涯からはなたれた阿弥陀仏の光明は、すがたかたちを離れていると表現されています。ですから、そんな阿弥陀仏の光明は、我々には知覚することが難しく、説き尽くすことができません。
ですので、この和讃では、阿弥陀仏のはなつ光明を、無称光(説き尽くすことができない光)と言い、そのような阿弥陀仏を無称光仏と言われています。
続いて、因光成仏(いんこうじょうぶつ)という言葉があります。この因光成仏という言葉は、直訳すると、光によって成仏する、光明によって成仏するという意味です。
因光は、光によってという意味です。そして成仏とは、仏となるということです。
この因光成仏という言葉には、二つの意味があると言われています。そのうちの一つの意味ですが、それは、生きとし生けるものを、阿弥陀仏のはなつ光明によって、仏の国(浄土)に往き生まれさせ、仏とならせるという意味です。
これは、浄土真宗の考え方が前提になっていますので、少し説明をしておきます。
浄土真宗の考え方として、阿弥陀仏の救いの光に照らされたものは、阿弥陀仏の救いの力によって、この世でのいのち尽きた時、浄土という仏の国に往き生まれ、仏とならせていただくという考え方があります。
仏の国に往き生まれさせていただくことを往生と言い、仏とならせていただくことを成仏と言います。浄土真宗では、そうした考え方をするんですね。
阿弥陀仏の光明によって、仏の国に往き生まれさせていただき、仏とならせていただく。そして、阿弥陀仏と同じ光明をはなつ。因光成仏とはこういう意味の言葉であると、昔から言われています。
こうした生きとし生けるものを、浄土へと生まれさせ、仏とならせ、阿弥陀仏と同じ光明をはなたせる。それら全てが、阿弥陀仏の救いの力、はたらきによってなされたものであり、そうした阿弥陀仏のお徳を、諸仏という様々な仏方が讃えておられる。和讃の後半部分の意味は、このような意味になります。
生きとし生けるものを、浄土という安らな仏の国へと生まれさせ、尊い仏とならせる。仏とならせ、光をはなたせ、この世を生きるものたちを、浄土のさとりへといざなっていく。
こうした阿弥陀仏の救いの力やお徳もまた、説き尽くすことができません。ですから、阿弥陀仏のはなつ光明を無称光(説き尽くすことができない光)と言い、阿弥陀仏のことを無称光仏と言う。この和讃から、そのようなことが伺えようかと思います。
最後に今一度、和讃を味わってみましょう。
◆
いかがだったでしょうか。今回は、十二光の中の無称光(説き尽くすことのできない光)についてお話させていただきました。
次回も、「正信偈」の続きを味わっていきたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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