【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。
さて前回からは、「正信偈」の「如来所以興出世」から「応信如来如実言」までの四句について見ています。前回、この四句の言葉の意味と、概要を見ていきました。
今回は、これらの言葉に込められた心を、もう少し深く見ていきたいと思います。テーマは、「お念仏の教えとの出遇い」です。それでは、さっそく見ていきましょう。
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ではまず、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」という言葉をご覧ください。今回は、この言葉を中心に見ていきます。
書き下し文にするとこのようになります。
この文章を意訳すると、このような意味になります。
お釈迦様がこの世にお出になられたのは、ただ阿弥陀仏の救いを説き伝えるためだった。親鸞聖人は、そのように受け止められ、「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と記されています。
さて、お釈迦様は、今から約2500年前に生まれ、現在のインドやネパールあたりを中心に活動された実在の人物とされています。お釈迦様は、釈迦族という一族の王子として誕生します。釈迦族の聖者(聖らかな人)という意味から、お釈迦様や釈尊と言われます。
お釈迦様は、王子としてお城に住み、経済的、物質的に恵まれた生活を送っていたと言われています。しかし、この人生を何のために生きているのだろうかと深く悩み、道を求めて出家をなさったそうです。そして、ご修行の後に、真理をさとったと言われています。真理をさとった人、真理に目覚めた人という意味から、ブッダとも言われます。
お釈迦様はさとりをひらかれた後、各地を回り、様々な教えを説かれました。お釈迦様が亡くなられた後、有力弟子を中心に、お釈迦様がお説きになられた言葉を記録しておこうと編纂事業がなされます。そのお釈迦様の説法をまとめたものが、現代に伝わるお経です。
その後、数百年と時間をかけながら、教えが徐々に体系化されていきます。お経は、八万四千の法門とも言われ、八万四千種類もあるとも言われます。この八万四千という数字は、無数にあることを指した言葉です。それはつまり、お経の数や教えの内容は、膨大な数があることを表しています。
数ある教えの中で、どの教えがその時代に適しているのか。どの教えがお釈迦様が特に説かれたいことだったのか。仏教を依りどころとする人々の中で、そうした議論があり、教えをもとに徐々に学派や宗派が分かれていきます。
お釈迦様が説かれた数ある教えの中に、阿弥陀仏という仏様の救いについて説かれた経典があります。浄土真宗においては、その阿弥陀仏の救いについて説かれたお経を、とても大切にしています。
本願寺から出版されている『日常勤行聖典』というお経をまとめた聖典がありますが、その最初のほうに「浄土真宗の教章」という部分があります。その教章の「聖典」という項目には、浄土真宗で根本とするお経が書いてあります。
どう書いてあるかというと、釈迦如来が説かれた「浄土三部経」とあります。そして続いて、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』と書かれています。
この『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』という三つのお経を、浄土真宗では根本の経典とし、特に大切にしています。「浄土三部経」とは、これら三つのお経をまとめた言い方です。
お釈迦様が一生涯の中で説かれたかった教えとは、これら「浄土三部経」の経典に説かれている阿弥陀仏の救い、お念仏の教えではなかったか。親鸞聖人は、そのように見られています。だからこそ、浄土真宗においては、これらのお経を根本の経典として特に大切にしているのですね。
改めて、「正信偈」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」という言葉を見てみましょう。
お釈迦様がこの世にお出になられたのは、ただ阿弥陀仏の救いを説き伝えるためだった。親鸞聖人は、そのように受け止められ、「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と記されています。
しかしなぜ親鸞聖人は、お釈迦様がこの世にお出になられたのは、ただ阿弥陀仏の救いを説き伝えるためだったと思われたのでしょうか。なぜ、「正信偈」にこの言葉を記されたのでしょうか。それを知るため、ここからは親鸞聖人のお念仏の教えとの出遇いについて見ていきましょう。
親鸞聖人は、9歳で親元を離れ、お寺に預けられました。得度をしてお坊さんとなり、そこから29歳まで、約20年にわたり、比叡山にて仏道修行に励まれたと言われています。
親鸞聖人は比叡山にて、堂僧(どうそう)をつとめていたとも言われています。当時の堂僧は、どういうことをおこなっていたのか、はっきりと分からないそうですが、一説には常行三昧(じょうぎょうざんまい)をおこなっていたのではないかと言われています。
常行三昧とは、常行三昧堂というお堂にこもり、90日間ご本尊である阿弥陀仏の周囲をお念仏をとなえながらまわり続けるという行だと言います。その行の間、坐ることも横になることもできない、とても過酷な行と言われています。
比叡山時代の親鸞聖人がおこなわれていたことは、詳しくは分かってはいませんが、お釈迦様が説かれた数々のお経について学ばれ、そこに記されている修行に励まれていたことは確かなことでしょう。後に親鸞聖人が書かれた書物などを拝見すると、仏法に対する理解の深さが表れています。
しかし、仏法を学び、仏道修行に励もうとも、いっこうに仏のさとりをひらけない。欲や怒りなどの煩悩が、いっこうにおさまらない。そんな自分自身に、親鸞聖人は深く悩まれます。そして29歳の時に、失意と絶望の中、比叡山を下山されたと伝わっています。
それから親鸞聖人は、京都の六角堂に約100日間参篭をされ、その後、法然聖人のもとで、阿弥陀仏の救い、お念仏の教えに出遇うことになります。
親鸞聖人は、法然聖人の弟子となられます。その法然聖人とは、親鸞聖人と同じように、比叡山にて仏法を学ばれ、仏道修行に励まれた方でした。智慧第一の法然房と言われるほど経典を読み、仏法に精通された方でした。
しかし、そんな法然聖人でも、戒を守り続ける難しさを実感されたり、また煩悩を抱える人々が、仏のさとりをひらいていく仏道があるのかという問題に悩まれたと言います。そしてくる日も来る日も、経典やお経の解説書を読む中で、阿弥陀仏の救い、お念仏の教えに出遇います。
欲や怒りや愚かさといった煩悩を抱えたままでも、阿弥陀仏に帰依し、南無阿弥陀仏とお念仏を称え、救われていく。浄土という仏の国に往き生まれ、安らかな仏のさとりをひらいていく。法然聖人はそうしたお念仏の教えに出遇われます。
阿弥陀仏という仏様とは、迷い苦しむ全てのものを救おうとなさる仏様であった。欲や怒りや愚かさといった煩悩を抱え、迷い苦しんでいるものを救おうと願い、立ち上がってくださった仏様だった。
法然聖人はそれまでにも、阿弥陀仏の救いが説かれた経典や解説書は何度となく読まれていたはずです。しかし、煩悩を抱える自らや人々が、仏のさとりをひらくことのできる仏道があるのかという悩みの中で、新たな視点からお念仏の教えに出遇い直されたことではないでしょうか。
阿弥陀仏という仏様とは、迷い苦しむ全てのものを救おうとなさる仏様であった。欲や怒りや愚かさといった煩悩を抱え、迷い苦しんでいるものを救おうと願い、立ち上がってくださった仏様だった。阿弥陀仏の救いによって、煩悩を抱えたものが仏のさとりに至る道が、そこに開かれていきます。
法然聖人は、親鸞聖人より40歳ほど年齢が上です。親鸞聖人よりも前に、親鸞聖人と同じような悩みを経験された方でした。そして、煩悩を抱えたものが仏のさとりをひらくという仏道のあり方を確立された方でした。
親鸞聖人が、失意と絶望の中、比叡山を下山された頃、法然聖人は既に浄土宗という宗派をおこされ、京都東山の吉水というところを中心に、人々にお念仏の教えを伝え、勧めておられました。
親鸞聖人は、その法然聖人をもとを訪ね、毎日のようにお念仏の教えを聞かれたと言います。法然聖人を通して、親鸞聖人もまたお念仏の教えに出遇っていかれます。
親鸞聖人は、比叡山におられた頃は、横川(よかわ)という場所でご修行をされていたと言われています。この横川という場所は、お念仏の教えが豊かな場所です。
ですから、親鸞聖人も以前から、阿弥陀仏の救いについて説かれた経典や解説書は何度も読まれていたはずです。その時には、お念仏の教えを生きる依りどころとされてはいませんでした。
しかし、仏法を学び、仏道修行に励もうとも、いっこうに仏のさとりをひらけない。欲や怒りなどの煩悩を抱えた自分自身に深く悩む。親鸞聖人は、そのような失意や絶望を経験した後に、法然聖人のもとでお念仏の教えを聞かれます。その時に、親鸞聖人もまた新たな視点からお念仏の教えに出遇い直されたのではないでしょうか。
欲や怒りや愚かさといった煩悩を抱えたままでも、阿弥陀仏に帰依し、南無阿弥陀仏とお念仏を称え、救われていく。浄土という仏の国に往き生まれ、仏のさとりをひらいていく。
そうした法然聖人の説かれる阿弥陀仏の救い、お念仏の教えに出遇い直すことによって、煩悩を抱えた自らが仏のさとりに至る道が、そこに開かれてきたのではないでしょうか。
親鸞聖人は、お念仏の教えに出遇った喜びを、このように表現しておられます。
ここに挙げられている聖典とは、お釈迦様が説かれた「浄土三部経」、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』のことを指しています。そこには、阿弥陀仏の救い、お念仏の教えが説かれています。
そして、それを伝えてくださったインド、中国、日本の祖師方とは、法然聖人も含む七高僧という七人の高僧の存在であり、その七高僧が書かれたお経の解説書のことを指しています。
お釈迦様や七高僧。そうした方々のおかげで、私親鸞はお念仏の教えに出遇うことができました。そういう喜びが、この文章には綴られています。
仏法を学び、仏道修行に励もうとも、いっこうに仏のさとりをひらけない。欲や怒りなどの煩悩が、いっこうにおさまらない。親鸞聖人は、そんな自分自身に深く悩まれます。
しかし、阿弥陀仏という仏様とは、迷い苦しむ全てのものを救おうとなさる仏様であった。欲や怒りや愚かさといった煩悩を抱え、迷い苦しんでいるものを救おうと願い、立ち上がってくださった仏様だった。
そうした阿弥陀仏の救い、お念仏の教えに、親鸞聖人は法然聖人のもとで出遇い、仏のさとりに至る道が開かれていきました。
そして、そうした阿弥陀仏の救い、お念仏の教えを説かれたのは、お釈迦様であり、お釈迦様はそうしたお念仏の教えを説かれるために、この世にお出になられたのではないか。親鸞聖人は、そのように受け止められ、「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と記されたのではないでしょうか。
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いかがだったでしょうか。今回は、「お念仏の教えとの出遇い」というテーマでお話させていただきました。
なぜ親鸞聖人は、お釈迦様がこの世にお出になられたのは、ただ阿弥陀仏の救いを説き伝えるためだったと思われたのか。なぜ、「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と記されたのか。
それを知るため、親鸞聖人のお念仏の教えとの出遇いについて見ていきました。皆様はどのように感じられたでしょうか。
また今回の内容に関わることとして、末法という考え方があります。次回は、そうしたことについて見ていきたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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