時代を超え、多くの人を魅了してきた仏教書『歎異抄』。稀代の宗教家、思想家と言われる親鸞聖人の、人間や世の中の本質を突いた逆説的な言葉の数々が、現代の私たちの常識や価値観が揺さぶられるような感覚を覚える書物です。
信行寺で開催している「真宗講座」では、その『歎異抄』を読み進めながら、人生の意味を味わい、生きる喜びや感謝の心を深めています。
今回は、『歎異抄』の「第十一条」を拝読しました。その時の内容を、文章と動画でご覧いただけるように致しましたので、ご関心がある方はご覧くださいませ。
▼動画でもご覧いただけます
皆様、こんにちは。真宗講座では、「人生を考える」と題して、『歎異抄』を読んでおります。
前回、前々回と、『歎異抄』の「第十条」と「中序」を見ていきました。お念仏の教えに対して、「自らのはからい」をまじえないことがとても重要であること。そのことを、「第十条」と「中序」を通して見ていきました。
「自らのはからい」をまじえるとは、たとえば、自分の立場をもっと良くしようという時。または、相手を言い負かしてやろうというような時。そうした利己的な思いが強くはたらく時に、教えを利用して、そこに「自らのはからい」をまじえて伝え、教えが異なって伝わっていくことがあります。
だからこそ、お念仏の教えに対して、「自らのはからい」をまじえない」ことがとても重要である。そうした内容を見ていきました。
今回は、『歎異抄』の「第十一条」を見ていきます。「第十一条」から「第十八条」までが、『歎異抄』の後半部分になります。この「第十一条」から「第十八条」までは、「唯円房の歎異」と言われる部分です。
親鸞聖人が伝えてくださったお念仏の教えが、異なって伝わっていることを歎き、記されたのが『歎異抄』です。
『歎異抄』の前半には、親鸞聖人の言葉が収録されていると言われています。そして後半は、『歎異抄』の著者と言われる唯円房が言葉を記した部分であると言われています。今回から、その後半部分を見ていきます。
この後半の「第十一条」から「第十八条」には、お念仏の教えの異なった解釈について、具体的に記されています。そして、それらの異なった解釈が生まれてくる根本的な原因として、「自らのはからい」をまじえるという問題があります。この「自らのはからい」をまじえるという問題が、『歎異抄』を貫くテーマとなっています。
今回見ていく「第十一条」は、「誓名不二章」(せいみょうふにしょう)と言われる章です。ここでは、「誓名別信」(せいみょうべっしん)という異なった解釈が挙げられています。
「誓名別信」とは、どのような異なった解釈なのか。また、その背景に「自らのはからい」という問題があること。今回は、そうした内容を見ていきたいと思います。
ではまず、『歎異抄』「第十一条」の本文と意訳を、拝読致しましょう。「第十一条」の全文を記載すると、理解しづらいかもしれないと思いましたので、要点の部分を中心に記載しております。
さて、『歎異抄』「第十一条」では、「誓名別信」(せいみょうべっしん)という異義(異なった解釈)が挙げられています。「誓名別信」とは何かというと、「誓願不思議」を信じることと、「名号不思議」を信じることとを区別して考えることです。
この部分の結論を申しますと、「誓願不思議」を信じることと、「名号不思議」を信じることとは、別のことではないということが結論になります。ですから、「誓願不思議」と「名号不思議」とを区別して解釈することが異義(異なった解釈)であるとして、この「第十一条」に挙げられています。
言葉が難しいので、簡単に補足をしておきます。誓願とは「迷い苦しむものを救う」という阿弥陀仏の誓い、願いのことです。阿弥陀仏の根本の願いということで、本願とも言います。ご法話などで、本願という言葉はよく出てきます。阿弥陀仏の根本の願いのことですね。それを、別の言い方で誓願とも言います。
また名号とは、「迷い苦しむものを救う」という阿弥陀仏の喚び声であり、はたらきのことです。南無阿弥陀仏の名号と言われます。南無阿弥陀仏というと、私たちが口に称えるお念仏のことが思い浮かびます。その口に称えるお念仏も南無阿弥陀仏です。
そして、阿弥陀仏が私たちに救おうと喚びかけてくださっている喚び声も南無阿弥陀仏であり、それを名号と言います。阿弥陀仏から私たちへの喚び声を、南無阿弥陀仏の名号と言うのですね。
言葉の詳しい説明をし始めますと、時間がかかりますので、それは別の回に譲ります。ここで押さえておきたいのは、その誓願と名号とは別のものではないということです。迷い苦しむものを見て、救おうと誓う阿弥陀仏の誓願と、救うためにはたらきかけている名号とは、別のものではないということです。
今回は、誓願と名号とは別のものではない、ということを押さえていただいたら大丈夫です。その誓願と名号とを別のものとしてとらえる異なった解釈のことを、誓名別信の異義と言います。
本来は別のものではない誓願と名号とを、区別して解釈する「誓名別信」の異義と、そうした異義を人に伝え、言い惑わす人がいたことが、「第十一条」に記されています。
では改めて、『歎異抄』「第十一条」の文章を見ながら、そうした内容を確認していきましょう。
「第十一条」には、「お前は、阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏を申しているのか。それとも、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じているのか」という言葉が出てきます。
文字一つ知らないような同行(仲間)に対して、このような言葉を言って驚かせる人がいる様子が、「第十一条」には記されています。
当時は鎌倉時代です。誰もが文字を読み書きできるような時代ではなかったでしょう。文字は読めないけれども、お寺に通い、お念仏の教えを聞いて、日々の生活の中で、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称えている。ここに出てくる文字一つ知らない同行とは、そのような人々ではないでしょうか。
例えば、川で野菜を洗ったり洗濯をしながら、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称えている。食事をいただきながら、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称えている。そのような素朴な生活の中で、「南無阿弥陀仏」のお念仏が溶け込むように称えられている。何かそういう情景が思い浮かびます。
また、当時の生活と言えば、苦しさや厳しさも多かったことでしょうね。今のように、電気やガスや水道があるわけではありませんし、家電製品もありません。洗濯は川でおこない、食事の準備は火起こしからする必要があったでしょう。
そして、今のような食料の生産体制や物流が整ってもいません。年によっては飢饉が起こり、次の収穫までどう食いつないでいくか、一冬をどう越すか。そんな厳しさもあったことでしょう。
そういう苦しさや厳しさの伴う質素な生活の中で、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、依りどころとしながら、何とか日々を過ごしている。そのような人々の姿も、思い浮かんできます。
そうした苦しさと厳しさの伴う、素朴で質素な生活の中で、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、それを依りどころとしながら生きている人々に対して、「お前は、阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏を申しているのか。それとも、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じているのか」と言って驚かせる。
そして、誓願や名号という難しい議論を持ち出し、その内容を詳しく説き明かすこともしない。そうして人々の心は惑わされ、人によっては、今まで依りどころとしてきたものはいったい何だったんだろうかと、人生が虚しく感じられ、日々の生活が揺らぐような方もいたのではないでしょうか。
「お前は」という言葉遣いからも、人を見下し、威圧するような態度で、接しているように思われ、こうした姿勢からは、人々のことを思っているような様子は全く見えません。
子や孫のことを思い、一生懸命貯めていたお金を、騙して奪う。子どもと偽って電話をかけ、子どもが事業に失敗した、病気になったと嘘をつき、動揺させお金を奪う。そのような詐欺にも等しいようなことでもあるように感じます。
このように、苦しさと厳しさの伴う、素朴で質素な生活の中で、必死に生きている人々の心を惑わせ、依りどころとしてきたものを揺らがせる。『歎異抄』「第十一条」に記されている状況とは、そういうものであると考えると、とても罪深いことであると感じます。
こうした異義によって人を惑わせるような人が表れる原因として、欲の問題があるように思われます。人を見下したり、権威を笠に着たり、自分の正当性を主張したり、または他人を支配するような自己顕示欲や権力欲、支配欲、自分の立場への執着といった欲の問題が原因としてあることを感じます。
文字一つ知らないような同行(仲間)に対して、誓願や名号と言った難しい言葉を持ち出して、議論をふっかけていく。それによって、自分の権威性や正当性を誇示する。そうした自己顕示欲や権力欲、支配欲、執着といった欲にまみれた醜い姿勢が、ここに見受けられます。
そして、これらの欲とは、はからいのことです。ですから結局のところ、お念仏の教えに対する異義(異なった解釈)が生まれてくるのは、「自らのはからい」をまじえることが根本的な原因となっていることが分かります。
そしてまた、自らの知識や理屈でもってお念仏の教えを捉え、分別してしまうという問題があります。誓願と名号とを異なったものとして捉え、分別していく。人間のはからいを超えた、永遠普遍の真理を、「自らのはからい」で捉えていこうとする。
こうした、自らの知識や理屈でもってお念仏の教えを捉え、分別していこうとすることもまた、「自らのはからい」をまじえていくことです。
このように、『歎異抄』「第十一条」からも、お念仏の教えに対する異義が生まれる根本的な原因として、「自らのはからい」という問題があることが分かります。
ちなみに、この「第十一条」の文章は、親鸞聖人が亡くなった後に、書かれたものだと言われています。しかし、親鸞聖人の在世時から、同じような異義があったことが、親鸞聖人が記された手紙から分かります。その手紙には、このような言葉が記されています。
この文章を、意訳するとこのような意味になります。
この親鸞聖人の手紙には、誓願と名号とを区別して捉えていくことの誤りが指摘されています。誓願と名号とは同一のものであり、誓願をはなれた名号もなく、名号をはなれた誓願もない。そう記されています。
誓願とは、阿弥陀仏が「迷い苦しむものを救う」と誓ってくださった願いのことでした。そして名号とは、「迷い苦しむものを救う」という阿弥陀仏の喚び声であり、はたらきでした。迷い苦しむものを見て、救おうと誓った阿弥陀仏の誓願と、救うためにはたらきかけている名号とは、別のものではないということです。親鸞聖人の手紙には、そのような誓願と名号とが同一であることが示されています。
そして、誓願と名号とが同一であることを、あえて手紙に記されているということは、誓願と名号とを区別して解釈したり、伝えたりすることがあったということでしょう。
この『歎異抄』「第十一条」に挙げられている「誓名別信」の異義は、親鸞聖人在世時からあったことが分かります。
そしてまた、誓願と名号とを区別して解釈することは、はからいであると示されています。つまり、人間のはからいを超えたお念仏の教えを、人間の理屈や知識でもって分別していこうとするようなあり方を「自らのはからい」であるとして、戒められているということが分かります。
そして、自己顕示欲や権力欲、支配欲や執着といった、欲による「自らのはからい」もまた、異義を生み出す原因と言えます。
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今回は、「第十一条」の「誓名不二章」という章の重要な文章を抜き出して見ていきました。
そして、ここには、阿弥陀仏の誓願と名号とを異なったものとして考える「誓名別信」という異義が挙げられていました。
「誓名別信」とは、どのような異義なのか。また、その異義が生まれてくる根本的な原因として、「自らのはからい」をまじえてしまうという問題があること。そうした内容を見ていきました。
ちなみに、こうした「自らのはからい」のことを、本願寺の第八代宗主 蓮如上人は、「無明業障のおそろしき病」と言われています。
あらゆるものを自らの知識や理屈でもって分別していこうとする。そして、その自らの見解を正しいものとして主張し、固執し、人を見下し、惑わしていく。そのような性質を我々は抱えている。
「自らのはからい」とは、そうしたおそろしい病のようなものであるということが、蓮如上人の言葉から伺えます。
そして、そうしたあらゆるものを自らの基準で分別し、主張し、固執していくようなあり方は、お念仏の教えに限ったことではなく、私たちの日頃のおこないやあり方にも密接に関わっています。
そうした自分の性質を知り、気を付けていなければ、私たちもまた、日頃の生活の中で、分別し、自らの見解を主張し、固執し、人を見下し、傷つけ、惑わせてしまう。そのようなおこないをしている可能性が多分にあるわけです。
こうした仏法を学ぶということは、単に教えを学ぶということではありません。教えを自らのおこないやあり方に引き寄せて考えた時に、ああそうだったなという気付きや、反省を通して、新たな自分に変化していくということがなければ、あまり意味がありません。
次回は、「第十一条」をもう少し、私たちの日頃のおこないやあり方に引き寄せて、考えてみたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼前回の内容
『歎異抄』中序_異なった解釈が生まれてくる理由 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)
▼次回の内容
南無阿弥陀仏