みなさん、こんにちは。
僧侶の神崎修生です。

https://www.youtube.com/watch?v=6qJM8qzB3eg


この新型コロナウイルスは、人間の思いがはかなく打ち砕かれる、そのような事態だと思います。これまで頑張って築いてきたものも、一つのウイルスで、打ち砕かれてしまうわけです。

例えば、個人経営の飲食店の方。これまで、ずっと頑張ってお店を切り盛りされてきたのに、ウイルス一つでお店を閉じないといけない事態に直面しています。

自分のお店をもつのが夢で、バイトをしてお金を貯めて、ようやくオープンした方も、多くの借金を残しながら、どうしようもない事態に陥っています。

色々な産業、中小零細企業、育児や介護を自宅でしている方など、経済的に追い込まれたり、生活に余裕がなくなると、かなり厳しくなってきます。現実問題としてどうしたらよいのかという課題に直面しています。


そして、自分のこと、家族のこと、周囲のこと、仕事のこと、困っている人のこと、様々な角度で考えることが多々あり、複雑で、何をどうしてよいか、簡単に答えが出ることでもありません。

当面の現実的な課題にどう対応するのか、困っている人のためにできることをする、今後の有事の際にどうすればよいのかを考えておく、どうにもならない時の心のあり方や生き方を考える。

論点はいくつもあります。それぞれの置かれた立場で、状況や感じ方は様々でしょう。


こういう時には、人として何ができるかと考えることがとても重要ですが、また同時に、自分の立場で何ができるかを考えることも重要だと思います。なぜなら、政治家だからできること、行政だからできること、医療関係者だからできること、宗教者だからできること、それぞれに特徴が活きる部分もあり、自分の領域で善処することが、結果的に、役立つことになることもあるからです。


人としてできることと、僧侶としてできることの狭間に揺らぎつつも、今回は、僧侶という立場から、こうした有事における心のあり方、生き方ということについて考えてみたいと思います。

テーマは、「諸行無常の世を生きる。有事における心のあり方、生き方」です。

本当に大きなテーマで、難しいことですが、これまで震災などの時にも、どうにもならない事態に直面した時に、「どうあれば良いのか」、「どう生きるのか」という問いを、いつも突きつけられてきたように思います。

現時点で、感じるところを書き、読んでいただいた方に何か感じていただければ幸いです。

目次

  1. 実はいつも有事を生きている
  2. 諸行無常と一切皆苦
  3. 我々は常に自分中心に見ていると気付く
  4. まかせる、てばなす、あきらめる。
  5. まとめ

 

実はいつも有事を生きている

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宇宙や世界や自然は、人間を中心にして形成されてはいません。人間がどれほど、こうありたいと望もうとも、そうはならない事実に直面することがあります。

震災や食糧不足(飢饉)、今回の新型コロナウイルスのような疫病など、これまでも人類は繰り返し経験してきました。


考えてみると、思い通りにならないことは数多くあります。病気になりたいとか、事故にあいたいと思っている人はいません。病気にもなりたくない、事故にもあいたくないと思って我々は生きています。しかし、なってしまうこともあるわけです。


脳梗塞で、半身不随になった方がおっしゃっていました。今まで、歩けていたのに、歩けなくなる。本当につらいです。自分の頭の中では足が前に出ているのに、実際はまったく動かない。トイレに行くのも、お風呂に入るのも、食事をとるのも、当たり前にできていたことができなくなることは、これほどきついことだとは思いませんでした。


定年前に奥さんを亡くした男性が、こうおっしゃっていました。これまで頑張って働いて貯金して、老後に夫婦で旅をしたいと思っていました。でも、その前に奥さんが亡くなるなんて。全く考えてもいませんでした。


幼い子を、水難事故で亡くしたお母さんがおっしゃっていました。目を離した隙に。なんであの時、目を離したんだろう、なんで海に行ったんだろう。悔やんでも悔やみきれません。


いくつか挙げさせていただきましたが、我々は、健康や安全を願っています。しかし、その我々の願いは、いつも叶うわけでも、末通るわけでもありません。だから我々は悩み苦しみます。

そう、実は我々は、いつも有事を生きているんですね。我々は思い通りにならない生を生きている、我々は亡くなっていく生を生きている。

新型コロナウイルスの事態を経験している今、こうしたことがこれまで以上に自分ごととして感じられるように思いますが、皆さんはいかがでしょうか。


そして、こうしたことを経験すると、いかに当たり前だと思っていたことが当たり前ではないかに気付かされ、今を大切に、大切なものを大切に生きるようになります。

 

諸行無常と一切皆苦

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仏教に、諸行無常一切皆苦という言葉があります。諸行無常とは、「全てのものは、移り変わっていく」ということで、一切皆苦とは、「あらゆるものは、思い通りにならない」ということです。

永遠不変なものはない。全てのものは移り変わっていく。そして、あらゆるものは思い通りにならない。生まれる場所、時代、どの家庭に生まれるかも決められない。歳をとりたくなくても重ねていく。病気になりたくなくてもなってしまう。死にたくなくても、いずれ今生のいのちは終える。大切な方とも、突然の別れがくることもある。


こうした事実に、我々直面せず、できるだけ健康に、無事に生きていたいものです。健康で無事に生きていけるって、幸せなことだなと本当に思います。

しかし、中々そうはならない。だから我々は悩み苦しむんですね。


仏教で苦とは、思い通りにならないという意味があります。苦とは、苦しいということだけでなくて、思い通りにならないという意味があることが重要なことです。

一切皆苦、思い通りにならない人生を生きているという前提を、仏教では置くんですね。平時であれば、なんてことを言うんだと思うかもしれませんが、この新型コロナウイルスのような事態があると、当たり前だったことが当たり前でなくなり、思い通りにならない事実を実感されている方も多いのではないでしょうか。


自分をコントロールすることすら難しいのに、他人や、まして自然や宇宙をコントロールすることなんて不可能です。人間の心理とは、まったく別の法則で動いています。

人生は思い通りにならないという前提を置いて生きていく。我々は、いつも有事を生きていて、いつどうなるか分からない。そして、中々思い通りにならない人生を生きている。そう受け止めていくと、これまでと全く人生の見え方が変わってくるかもしれません。


そうすることで、思い通りにならないことに対して、必要以上に悲観的にならなくて済みますし、悩んでいるのは自分だけではないこともよく分かります。そして、些細なことにも喜べるようになります。

 

我々は常に自分中心に見ていると気付く

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我々が、悩んだり、苦しむのは、自分の思い通りになっていない時なんですね。いつも、我(が)という自分が中心にあるわけです。

自分の思い通りにある程度なっていれば、心地良い感情がおこるし、思い通りにならなければ、悩み苦しみ、腹を立てたりします。

このように、自分中心にものごとを見て考え、周囲の環境の変化や、自分自身の変化に対して、ポジティブな感情やネガティブな感情を起こしながら、我々は生きています。


我々は常に、自分中心にものごとを見て考えていると気付いていくことも、とても重要なことです。

心が変われば世界変わると言われることがありますが、同じものごとでも、人によって見え方や感じ方が違います。我々は、必要以上に、不安や恐怖を感じていることもあります。


有事ほど事実を平静に見つめることが重要です。有事は感情的、感傷的になりやすいですから、ものごとをいつもより自分中心に見てしまいがちです。そうすると、正しく認識できなくなります。なるべく、平静に、事実を見て、対応方法を考えることが重要です。

それには、やはり、自分は常に自分中心に見てしまっている可能性があるのだと気付いていくことが大切です。そうすることで、少し客観的に見てみよう、考えてみようという心理がはたらきます。


ただし、我々には感情がありますから、経済的に追い込まれたり、自分が病気になったり、大切な方を失うようなことが、いざ自分の身に起きると、事実を受け止めることは難しく、気が動転することもあります。

どこまでいっても、自分中心の我が中々捨てられません。生きようともがき、何とかしたいと願うのも、我々人間のあり方です。そうした自分を責める必要はありません。

 

まかせる、てばなす、あきらめる。

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自分がどうしようもない事態にあった時、もう一つ重要だと思う心のあり方、生き方があります。それは、まかせる、てばなす、あきらめるということです。

とても後ろ向きな言葉に聞こえますが、常用語の意味ではなく、仏教的な意味があります。


まかせるとは、大きな何かにまかせていくということです。完治しない病気になった時など、もう自分ではどうしようもない事実にあった時、我々はもうおまかせするしかないということがあります。

大きな何かとは、人によっては神仏でしょうし、先に亡くなられた方かもしれません。最後の最後は、我々まかせるしかないのですね。だから、昔から人は神仏やご先祖を拝んできたのでしょう。

東日本大震災では、多くの人が津波で流された海に向かって、ただ手を合わせるしかできなかったというお言葉を聞きました。この新型コロナウイルスでも、できることは善処しながらも、ただ祈らざるを得ないという意見もお聞きします。


手を合わせるとか、願い祈り、まかせるという行為は、もうそれしかできないというような、人間のとても原初的な営みだと思います。平時と有事とでは、手を合わせるという行為に込められた思いは、全然違うものでしょう。

おまかせするというのも、平時は中々思わないことかもしれません。ですが、おまかせできるものがある、依りどころとなるものがあるということは、とても大きな安心につながります

そして、自分が握りしめてきた悔しさや悲しさや寂しさなどの色々な思いが、優しく包み込まれ、手離していけるものです。そして、力強く歩んでいける道となるものです。


また、あきらめる(諦める)とは、本来はあきらかにする、あきらかに見えるという意味があります。そして、さとるという意味があります。

我々は、思い通りにならないことを、思い通りにしようとして、悩み苦しんでいることがあります。あきらめるとは、どうしようもない出来事を、ありのままに受け止め、そして、おまかせしていくことです。


最終的に、おかませできる神仏がいる。そう考えると、心が和らぎませんか。

 

まとめ

今回は、「有事における心のあり方、生き方」というテーマでお話をさせていただきました。

・実は、いつも有事と言えるような、諸行無常・一切皆苦の人生を歩んでいる。

・有事を経験すると、いかに当たり前だと思っていたことが当たり前ではないかに気付かされ、今を大切に、大切なものを大切に生きるようになる。

・人生は思い通りにならないという前提を置いて生きてみる。

・そうすることで、必要以上に悲観的にならなずに済み、悩んでいるのは自分だけではないこともよく分かる。些細なことも喜べるようになる。

・自分は常に自分中心に見てしまっている可能性があると気付いていくことも大切。

・心のあり方で世界の見え方が変わる。有事ほど、平静にものごとを見る必要がある。

・ただ、平静になれなくても、自分を責める必要はない。

・まかせる、てばなす、あきらめるも大切。

・おまかせできるという依りどころがあることは、安心につながる。

・自分の抱えてきた色々な思いが、優しく包み込まれ、手離していける。


といった内容について、お話をさせていただきました。今回は、心のあり方、生き方について、主に見てきましたが、何とかできることに対して、善処していくという姿勢は大切です。

新型コロナウイルスに対して、今も医療現場の方をはじめとした様々な方々が、自分のいのちの危険や、色々なものを置いて、対応に注力してくださっていることに、頭が下がります。

人が生き、社会が成立するためには、このような善処が必ず必要になります。私も、拡大防止など、善処できることはしていきます。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

合掌


浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

神崎修生

 

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