愚者の自覚【仏教ひとくち法話】

この内容は、2020年12月23日におこなわれたお寺の朝会「ヘルシーテンプル@オンライン」での法話を文字起こししたものです。

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ヘルシーテンプル@オンライン。本日は、信行寺版ですね。幸せを育む法話の時間ということで、ご参加の皆様とご一緒に、幸せや人生について考えていきたいと思います。今日のテーマは、愚者の自覚ということで考えてみたいと思います。

私は中央仏教学院という僧侶を養成する学校で、仏教を学ばせていただく機会がありました。確か入学式の時だったと思うのですが、当時の中央仏教学院の院長であった白川先生というお坊さんが、入学生の我々に向けてご挨拶なさいました。その時の言葉が印象的で今も覚えています。

一言一句そのままではないかもしれませんけれども、このようなことをおっしゃられました。

何かを学ぶということは、普通は賢くなるために学びます。入学したら賢くなって卒業していきます。しかし、この中央仏教学院では、賢くなって卒業するのではなく、愚かになって卒業していくんです。

このような内容のことをおっしゃいました。

入学のお祝いの言葉として、愚かになっていくと言うところは、他の学校ではあまりないかと思います。愚かになるなら誰が入学するんだと思ってしまうかもしれませんが、そこは仏教の学校ということで、らしいなと思ったことを覚えています。

しかし、愚かになるとは、いったいどういことでしょうか。

浄土宗の開祖である法然聖人(ほうねんしょうにん)は、「愚者(ぐしゃ)になりて往生(おうじょう)す」という言葉を残されています。

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自分は愚かな存在であったと気付いて、仏様の国に生まれて往くんだという言葉ですね。

仏教でいう愚かとは、知識がないとか、教養がないとか、そういう意味ではありません。愚かさとは、欲や怒りを抱えて生きている我々は、いつも自分中心の思いをいだいている。そして、自分中心の見方や考え方しかできない存在であるというような意味です。

愚かさを別の言葉でいうと無明(むみょう)という言葉になります。無明とは、明るく無いこと、つまり暗闇のことです。欲や怒りといった、自分中心の思いを抱えた我々は、物事を自分中心に見てしまう。そのことをまるで暗闇のようだと表現されています。暗闇だと、物事がはっきりと見えません。愚かであるとは、物事をありのままに見ていない、自分中心に見てしまっている状態をいう言葉です。

朝、私はお寺の掃除をしているんですが、お寺の前の道が通学路になっていて、子どもたちや、散歩の方や通勤される方などがお寺の前を通るんですね。お寺の門前を掃いている時などは、行き交う方に「おはようございます」とご挨拶をしますが、ほとんどの方が挨拶を返してくださいます。向こうから挨拶もしてくださいます。

信行寺は福岡の地方にありまして、東京の新宿とか東京駅のように大勢の人が行き交っているような場所ではありませんので、お互い顔を見て挨拶ができます。

そんな中、70代くらいの男性の方で、挨拶をしても全く反応をしない方がおられます。おそらく、その方は散歩をしておられて、よく見かけるんですけれども、ひたすら歩いていて、全く反応しないんですね。

車も通っていない、幅2、3メートルくらいの道に、その方と私の二人だけしかいない時もあるんですね。ですから、私がその方に対して挨拶をしているのは、その方も分かってらっしゃるはずなんですね。そんな状況で、挨拶への反応がないというのは、逆に不自然なんですね。

何でそんなに頑なに挨拶しないのかなと思ってしまうわけです。何回かご挨拶したんですけれども、全く反応がないので、もう私から挨拶をするのはやめたんです。そして、私の中で、段々とその人に対しての思いも湧いてくるんです。

あの人はちょっと変わった人だなとか、挨拶もせずに失礼な人だなと、そう思ってしまう自分がいるわけです。

我々は、自分をないがしろにされたり、自分にしてほしくないことをされると、怒ったりして、その人を嫌いになったりしませんか。

ただ、先程の散歩の男性でいうと、その人が本当に変わった人なのか、失礼な人なのかどうかは、実は分からないわけですね。ひょっとしたら耳が遠いのかもしれない。また、ひょっとしたら、以前にその方が私に挨拶をして、私が気付かなくて挨拶をしなかったのかもしれない。その方にとっては、私が失礼な人なのかもしれない。

見方は人によって、立場によって様々なんですよね。ただ、我々自分中心の思いを抱えていますから、常に我を立て、自分というフィルターを通して物事を見てしまいます。

先日、信行寺でご法話をされた中川清昭先生というお坊さんが、こんなお話をしてくださいました。

我々は、自分中心の思いを抱えて生きていて、それは中々治りようがない。しかし、自分は自分中心であるということに気付くことはできる。無自覚性の自己中心のあり方から、自覚性の自己中心のあり方にはなれる。自分中心であることに無自覚か、自覚しているか。これは大きな違いじゃありませんかとおっしゃっておられました。

自分中心であることを自覚することによって、自分を顧みることがあるように思います。

自分中心の生き方をして、それが当然として生きている我々がいないだろうか。物事の見方は、状況や立場によっても変わるのに、人の考え方を一蹴してはいないだろうか。自分の言動によって、傷付いている人がいるんじゃないだろうか。

自分中心ということを自覚していくと、自分を顧みたり、気付きも生まれてきます。

何かを学ぶということは、普通は賢くなるために学びます。入学したら賢くなって卒業していきます。しかし、この中央仏教学院では、賢くなって卒業するのではなく、愚かになって卒業していくんです。

愚者になりて往生す

こうした言葉の意味が、仏教を学んでいくと、深く心にしみわたり、自分の愚かさが見えてくるような気が致します。

お釈迦様も、このようにおっしゃいました。

もし愚かな者が、自分を愚かであると自覚するなら、すなわち賢者となる。
愚かな者が、自分は賢いと考えるなら、そういう者こそ愚か者だと言われる。
『ダンマパダ』63

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人類史上でもまれに見るほどの天才であるお釈迦様が、愚かであることの自覚の大切さを言われています。また、智慧第一の法然房とまで言われた法然聖人が、愚者になりて往生すと言い切っていかれました。何千年、何百年にもわたり、伝えられてきたその言葉は、必聴すべき言葉であり、人間のあるべき姿勢が語られているようにも思われます。

自分中心であることの自覚、物事を分かっているようで、実はありのままには見れていないこと。仏教に触れていく、人類の智慧に触れていくとは、賢くなるというよりは、自分の愚かさに気付かされていくということがあるのでしょう。

自分中心の自覚によって、自らの言動への反省や、謙虚さや素直さ、感謝や思いやりの心が育まれていくのだと思います。しかし、そうは言われても正直者は馬鹿をみるというように、中々頷けない我々もいるかもしれませんね。

だからこそ、このように繰り返し仏法に触れ、共に考えていくようなご縁が大切になるかと思います。

幸せを育む法話の時間ということで、本日は愚者の自覚というテーマでお話をさせていただきました。

皆さんどんなことを感じられたでしょうか?

7時20分になりましたので、このあたりで一度終わりまして、お時間が許される方は、ご感想など伺い、ご一緒に考えてまいりたいと思います。

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最後までご覧いただきありがとうございます。

合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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