【浄土真宗の法話】講師:中川清昭師【報恩講法要】二日目

こちらは、2020年12月12日に、信行寺にて配信した報恩講法要(二日目)でのご講師の法話を書き起こしたものです。

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【御讃題】(ごさんだい)
これ経教(きょうきょう)はこれを喩ふるに鏡のごとし。
しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発(かいほつ)す。
『観経疏』(かんぎょうしょ)

【意訳】
お経に説かれた仏様の教えは、喩えるならば鏡のようなものです。
幾度も読み、幾度もそのお心を尋ねるならば、智慧が開けていきます。

【法話】
講師:中川清昭師
浄土真宗本願寺派布教使 福岡県筑紫野市 願應寺
2020年12月11日 福岡県宇美町 信行寺にて

 筑紫野市 願應寺の前住職 中川と申します。どうぞ宜しくお願い致します。今いただきました御文は、七高僧、七高僧ご存じですかね。お釈迦様が阿弥陀様のお心を、私ども人間に分かる言葉で教えてくださいました。そのお釈迦様の言葉が、文字になった、後のお弟子様方の力によって文字になった。それを、インドの言葉ではスートラ、それを中国語に訳しまして、音をとって修多羅(しゅたら)って言います。そして、意味をとって経。経というのは、たて糸ということであります。

お釈迦様のお説法を文字に遺した時に、何かに筆記しなければなりません。ちょっと前に返りますが、当時のインドではですね、大事なことは紙に書いて遺すとか、ものに書いて遺すという風習はあまりなくて、全部自分で記憶するっていうことが言われていました。ですから、お釈迦様のお弟子様たちも、お釈迦様のお説法を全部覚えようと。覚えたことを次に伝えていくということで、仏教、お釈迦様の教えは広まっていったんですが。

お釈迦様も、おさとりをひらかれたとはいえ、生身の身体を持つ人というところでは、私どもと一緒であります。ですから、やがて亡くなっていかれました。お釈迦様が亡くなられますと、お弟子様方の間に焦りがはしった。どんな焦りかっていうと、このまましておったら、お釈迦様のお説法がうやむやになってしまうんではないか。忘れられてしまうんではないか。生きていらっしゃる間は、少し記憶が薄れてきたら、お釈迦様のところまで行って確認すればよかったんですよね。その確認する場所が無くなったわけですから、焦りがはしったわけです。

 そこで、お弟子様方が集まって、文字にしようということになった。これをね、今は結集(けっしゅう)と読みますが、結ぶという字と集まるという字を書いて、結集(けつじゅう)と言います。何回かおこなわれたようですね。直接聞いたお弟子様方が、お釈迦様のお話をお互い語り合った。ですから、お経は如是我聞(にょぜがもん)、私はこのように聞きましたよって始まっていきます。

 そしてそれを、筆記係がいたのでしょうか、書記がいたのでしょうか、全部書き留めていきました。それを何に書き留めていったかっていう時にですね、色んな説があります。色んな説がありますけれども、その中でこれくらい(10数センチくらい)の木の葉っぱって言われています。私のお寺の庭にも実は、その木が植わっているのですけれども、この葉っぱはちょっと特徴がありまして、裏側は先の尖ったものでひっかくと、黒い汁が出てきて定着します。だから、それに文字を書くことができるんですね。

 でもね、大きさはこの程度(10数センチ程度)です。インドで育てば、もうちょっと大きくなるかもしれません。けれども、どんなに大きくてもね、この程度の大きさじゃ、一つのスートラを一枚に書き留めることはできません。何十枚、何百枚となってきます。この何十枚、何百枚になったものが、バラバラにならないように、そのために糸で通していった。その糸のことがスートラです。直訳すると、たて糸ということなんです。そのたて糸ということを表すのが経ですね。

 皆様方、地球儀をちょっと想像していただいたら分かります。地球儀は縦線、横線ありますが、横線のことを緯線、緯度線って言います。縦線は、経線って言います。あの経(けい)の字が経(きょう)です。で、そいういう形になって、仏教はインドから、高い高い山を越えて、中国へと伝わってきました。大勢の方が伝えてくださったんですが、その中から親鸞(しんらん)様は、特に七人のお坊さんを選ばれました。七高僧(しちこうそう)と言っています。七高僧。

 正信偈(しょうしんげ)の後半部分は、この七高僧のご実績について、それぞれ5,6行程で親鸞聖人が書かれた文章でありますね。その五番目、あちらのほうに絵像がありますけれども、七人のお坊さんの絵、分かりますかね。上から三段目の右側の方、正信偈でいただきますと、途中いっぺん切って、声がちょっと高くなりますね。「善導独明仏正意」(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)と高くなります。その善導様のお言葉です。

 善導様は、お経は、教えであるよ。その教えは、私を映し出す鏡のようなものですというふうに教えてくださいました。ただお経もね、じっと置いといただけでは、教えにはならんのです。どうしなければならないか、善導様はおっしゃいます。しばしば読み、しばしば尋ぬればとおっしゃる。このしばしばという言葉が少し問題になりますが、私は色々なもので調べましたら、積極的にといった意味が、一番分かりやすいんではなかろうかなと思うんですね。

 お経は、積極的に読みましょう。しかも、もう一つ大事なことは、口に出して読むということです。読誦(どくじゅ)と言います。そして、読んだだけでは中々意味が通じないよね。だったら、しばしば尋ぬればですから、積極的にその中身を尋ねる。すなわち、お聴聞(ちょうもん)しましょうということですね。ですからお経は、読み、そしてその中身をお聴聞することによって、教えとなっていきます。その教えは、ちょうど私を映し出す鏡のようなものでありますとこう言われるわけですね。

 鏡。皆様、今日鏡見られましたかね。何が映ってましたか。大勢の前で私が、「今日鏡見て来た」と聞いても、皆様そう、へへへと笑うくらいで、ドキッともしないと思うんですが。町で出会った時にね、町で出会った友達からじっと顔を見られて、「あんた今日鏡見て来た」と言われたら、どんな思いがしますか。えっ、何事かなって、ちょっとびっくりするでしょう。で、早く自分の顔をどこかに映して見たい。何かに映して見たい。女性の方だったら、ひょっとしたらハンドバックの中に手鏡があるかもしれないですね。そんなもので映して見る。男性だったら、鏡は持っていないかもしれない。じゃあ、どっかに鏡を探すとか、ショーウィンドウを見るとかして、我が顔を映しますよ。

 びっくりした。どこで付いたか、どう付いたか分からんけれども、顔のおでこのあたりに、ものすごい汚れがあったとしたら、皆様どんな思いになりますか。恥ずかしいという思いがたつでしょう。恥ずかしいという思いがたったら、すぐ行動をとります。どんな行動か。ぬぐうという行動です。そして、恥ずかしくない自分に戻っていこうとする。それが、外見です。私たち、外見上の鏡は、そのために見るといっても過言ではないです。どこか恥ずかしいところはなかろうか。人様の前に出る時に、この姿でいいかなという思いで、鏡を見ると思うんですね。

じゃあ、お経を鏡と喩えられたその鏡には、どんな姿が映っているのでしょうか。前回は、諸行無常という人生苦なり、私の思った通りにいかんのが人生だよということを、ちょっとくどかったけれども申し上げました。今日はね、どういう姿が映るかっていったら、自己中心、すなわち凡夫(ぼんぶ)である私が映りますよ。普通、凡夫と言いますと、平凡な人というイメージがあるけれども、凡夫というのはね、自己中心症。何でもかんでも、自分中心でないと収まりがつかんというんですかね。

しかもですね、私たちは、その自己中心であるということに、気付かずに毎日生きておるような気が致します。ですから、ある先生は病名にされました。凡夫って何か。無自覚性自己中心症と言うんだそうです。自分が自己中心であって、俺がおればこそ、私がおればこそ。この家がうまくいくのは私が我慢しておればこそ。いやいや、私がよそで働いていっぱい稼いでくるからこそ、この家がうまくいくんだと。まあ自分中心。ところが私たちは、やっばりそうじゃない。人に助けられて助けられて生きておる。そのことに中々気が付かんですね。

こうやって、お聴聞するということは、その自己中心症である私を聞かせていただくということです。でも、親鸞聖人はね、それだけ聞かせていただいても、自己中心症は死ぬまでなおらんとおっしゃるんですよ。ちょっと悲しいですね。でもね、一つあります。それは何か。自己中心症に気が付いて生きる身になれるということです。ここは大きいと思いませんか。無自覚性自己中心症から、自覚性自己中心症に変わる。自己中心であるということは変わりはせんけれども、どうもそういう生き方しかできていなかった私だなあということに気が付くことができる。それが、私はお聴聞することの甲斐だと思うんですね。

そしたら、自己中心症に気が付いた、自覚したら、恥ずかしいという思いがわくはずですよ。先程、恥ずかしいと思ったら、ぬぐうとか、そうじゃない姿に変わろうとすると申し上げましたけれども。今の生き様が自己中心で恥ずかしい生き方だったな。その生き方の方向を、ちょっと変えてみようかな。今まで、この道でよしと、まっすぐ進んでおった生き方を、そうじゃない、ちょっと方向を変えて、恥ずかしくない生き方をしてみようかなって変わっていくところに、私はお経が教えであり、その教えは私を映し出す鏡のようなものでありますということを、教えてくれるんじゃないかなと思うんですね。

短い時間ではありましたけれども、今日の話をこれで終わらせていただきます。

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最後までご覧いただきありがとうございます。

合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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