「正信偈を学ぶ」シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が記された「正信念仏偈」について、皆様とその内容を味わっています。
日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。
さて前回は、「已能雖破無明闇」という一文の中にある「無明の闇が破られる」という言葉の意味について、みていきました。
「無明の闇が破られる」とは、「阿弥陀仏の救いやお念仏の教えに対して、疑いなく信じること」を言いました。
それは、「お念仏の教えを聞いてありがたいと思ったり、そうだと深く頷く心が育まれること」でした。
お念仏の教え、仏様の願いとはどういうものかを聞かせていただき、それを受け止め、頷いていく心をいただいていく。
そういう心を信心と言いますが、お念仏の教えを聞く中で、そうした心をいただき、育まれていくということがあります。
そして、「お念仏の教えを聞くことを通して、自らの生き方やあり方が、お念仏の教えや仏様の願いに背いたものとなっていないかと、自らの言動を顧みる心が育まれる」ということがあります。
こうした状態を、「無明の闇が破られる」と言っていることを、前回見ていきました。
では、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」とは、具体的にどういうことを言うのでしょうか。
今回は、「正信偈」の言葉から、そうした問いについて考えてみたいと思います。
▼この内容は動画でもご覧いただけます。
◆「正信偈」の偈文
ではまず、今回見ていく「正信偈」の本文、書き下し文、意訳を見ていきましょう。宜しい方は、ご一緒ください。まずは、本文からです。
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
(せっしゅしんこうじょうしょうご いのうすいはむみょうあん)
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
(とんないしんぞうしうんむ じょうふしんじつしんじんてん)
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
(ひにょにっこうふうんむ うんむしげみょうむあん)
次に、書き下し文です。
摂取の心光(しんこう)、つねに照護(しょうご)したまふ。すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといへども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇(やみ)なきがごとし。
次に、意訳です。
阿弥陀仏の光は、阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ人を摂め取って捨てず、常に照らし護ってくださいます。すでに疑いの闇ははれて、阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただいていても、貪りとらわれの心や、怒り憎しみの心といった煩悩の雲や霧が、いつもその真実の信心の空を覆っています。しかし、たとえ空が雲や霧に覆われていても、太陽が出ていればその下は明るく、闇ではないのと同じようなものです。
◆念仏の教えに背いた生き方

では改めて、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」とは、具体的にどういうことを言うのでしょうか。
「無明」という言葉自体に、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」という意味がありました。
前回からの繰り返しになりますが、「無明」とは、仏教全般的な意味としては、「真理に暗い」とか、「物事の道理が分かっていない」という意味の言葉でした。
こうした「真理に暗い」「物事の道理が分かっていない」といった「無明」の状態も、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」の一つです。
「真理に暗い」「物事の道理が分かっていない」とはどういうことかについては、後ほどお話します。

さて「無明」とは、「三毒の煩悩」と言われる煩悩の代表格のうちの一つです。
私たちの心身を悩み煩わせるものを「煩悩」と言いますが、その代表的な三つを取り上げて、「三毒の煩悩」と言っています。
「三毒の煩悩」の三つとは、「貪欲」「瞋恚」「無明」です。
そして、この「三毒の煩悩」である「貪欲」「瞋恚」「無明」といった生き方やあり方が、まさに「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」と言えます。
どういうことか、見ていきましょう。

「貪欲」(とんよく)とは、貪りや執着のことです。
「正信偈」の「貪愛瞋憎之雲霧」という一文をご覧ください。
ここに、「貪愛」(とんない)という言葉が出てきますね。
この「貪愛」という言葉も、「貪欲」とほとんど同じ意味の言葉として、ここでは使われています。
「貪愛」もまた、貪りや執着のことです。
「貪欲」や「貪愛」とは、自分にとって都合の良いものを好み、近づけようとする心のことです。
自分にとって都合の良いものを好み、近づけよう、もっと手に入れようとする、それが貪りや執着です。
自分の都合を基準にして、自分に都合の良いものを好む性質を私たちは持っています。
そうした心や性質を、「貪欲」や「貪愛」と言います。

「三毒の煩悩」のもう一つである「瞋恚」(しんに)とは、怒り、腹立ちのことです。
「正信偈」の先ほどの一文に「瞋憎」(しんぞう)という言葉があります。
この「瞋憎」という言葉も、「瞋恚」とほとんど同じ意味の言葉として使われています。
「瞋憎」も、怒り、腹立ちのことであり、そこに憎しみという意味合いが加わっています。
「瞋恚」や「瞋憎」とは、自分にとって都合の悪いものを嫌い、遠ざけようとする心のことです。
私たちが、怒りや腹立ち、憎しみといった思いを抱く時、それは自分にとって都合の悪いものを嫌い、遠ざけようとする思いの現れなのですね。
自分の都合を基準にして、自分に都合の悪いものを嫌う性質を私たちは持っています。
そうした心や性質を、「瞋恚」や「瞋憎」と言います。

そして「無明」とは、「真理に暗い」「物事の道理が分かっていない」という意味の言葉でした。
それはどういうことかというと、「自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断する」ようなあり方のことを言います。
自分の都合を基準にして見てしまうということは、つまり、物事をありのままに見ていないわけです。
そういう「自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断する」あり方のことを、「無明」と言い、「真理に暗い」とか、「物事の道理が分かっていない」という言葉で表現されています。
「貪欲」「瞋恚」「無明」と、それぞれに言葉や意味に違いはありますが、自分の都合を基準にしているところに共通点があります。
◆判断の基準をどこに置くか

私たちは様々な物事に対して、「良し悪し」や「好き嫌い」、「正邪」などを判断しています。
「あの人は良い人だ」「あの人は悪い人だ」「これは良いことだ」「あれは悪いことだ」「これは正しい」「あれは間違っている」といった具合です。
その判断基準をどこに置いているかと考えていくと、自分の都合を基準に置いていることが案外多いことに気付かされます。
私たちが考える「良いもの」や「正しいもの」とは、本当に「良いもの」「正しいもの」なのでしょうか。
自分にとって都合の良いものを、「良いもの」「正しいもの」と言ってはいないでしょうか。
逆に、自分にとって都合の悪いものを、「悪いもの」「間違っているもの」と言ってはいないでしょうか。
私たちの日頃の言動を振り返ってみると、そのように自分の都合を基準にして見て考え、判断していることが案外多いのですね。
さて、最初に挙げた問いを今一度確認すると、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」とは、具体的にどういうことを言うのかという問いでした。

ここまでの文脈からその問いに答えると、「貪欲」「瞋恚」「無明」といった生き方やあり方が、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」の具体的な姿と言えます。
「貪欲」「瞋恚」「無明」と、それぞれに言葉や意味に違いはありますが、これらは自分の都合を基準にしているところに共通点があります。
自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断し、行動してしまう。
そういうところが、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」と言えるかと思います。
もちろん、私たちは自分の都合を抜きにして考えることはできません。
しかし、自分の都合ばかりを優先して、相手の都合を考えないと、様々な問題が起きます。
例えば、相手と言い争いになるなど、人間関係に摩擦が生じます。
また、相手の思いを理解せずに、思いを踏みにじることもあります。
暴力やいやがらせ、いじめ、差別、仲間外れ、理解し合えないことなど、家庭や職場、学校などでの人間関係のトラブルの多くは、自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断し、行動してしまうところに端を発しています。
「自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断する」ところに、様々な弊害があるからこそ、仏教では常々それを問題にしてきました。
分かりやすいように、例を出して考えてみましょう。
ある夫婦が、次の休日の過ごし方について話し合っているとします。
夫は、「休日は家でゆっくりしたい」と考えているとします。
一方で妻は、「せっかくの休日だから、出かけてリフレッシュしたい」と思っています。
ここでお互いが、自分の都合だけを考えて主張を繰り返すと、どうなるでしょうか。
夫は妻に対して、「家にいればいいのに、なんでわざわざ出かけなきゃいけないんだ」と怒り出すかもしれません。
妻も夫に対して、「どうしていつも家にいるばかりなの。つまらない」と、不愉快になるかもしれません。
しかし、夫の「休日は家でゆっくりしたい」という気持ちも理解できますし、妻の「せっかくの休日だから、出かけたい」という気持ちも理解できますよね。
本来、どちらが正しいとか、どちらが間違っているということはありません。

ですが、自分の都合だけを基準にして考えると、自分の考えが正しいものと思い込んだり、相手の思いや都合を無視したり、踏みにじることがあります。
そうなると、お互いに理解し合うことはできず、言い争いや不満が生まれます。
一例ではありますが、これらが自分の都合を基準にして物事を見て考え、判断することの問題点です。
そして、そういう生き方やあり方を、「お念仏の教えや仏様の願いに背いた生き方、あり方」と言われているのでしょうね。
もう一つ例を挙げてみましょう。
今度は、職場での例です。
職場で、上司と部下の間で、このようなやり取りがあったとします。
上司が部下に対して、「この仕事を今日中に終わらせてほしい」とお願いしたとします。
部下は上司に対して、「別の仕事が溜まっていて、今日は手を付けられません」と言いました。
この場合も、夫婦の例と同様、どちらの言い分が正しい、間違っているということはありません。
しかし、ここでもお互いが、自分の都合だけを考えて主張すると、どうなるでしょうか。
上司は部下に対して、「なぜ指示通りに動かないのか。怠けているのか」と詰問するかもしれません。
一方部下は、「上司は自分の状況を全く理解してくれない」と、上司に対して不満を募らせたり、上司のことを無能だと思うかもしれません。
先ほどの夫婦の場合も、この上司と部下の場合も、大事なのは、相手のことも考えることですね。
例えば、夫が妻に対して、「妻は外出がストレス解消になるのかもしれない」というように、妻の気持ちを考えてみようとするだけでも、受け答えは変わってくるのではないでしょうか。
妻も、「夫は仕事で疲れているから家で休みたいのかもしれない」と、少し気遣うだけでも、かける言葉は変わってくるかもしれません。
上司が、「部下の仕事量が多いのは確かだろう」と思いやったり、部下は「上司がこの仕事を急いでいるのには理由があるのかもしれない」と考えてみると、冷静に解決策が見いだせるかもしれません。
自分の都合を基準にして考える場合よりも、相手のことも考えてみようとすることで、これまでよりもお互いの気持ちを理解し合えたり、折り合いをつけることができるかもしれません。
◆寛容さを育むには

前回も申しましたが、浄土真宗で大切にされているお経の中には、教えが記されています。
その教えを、浄土真宗の教えとか、お念仏の教えと言います。
そこには、「あなたがこの教えに遇ったならば、このように生きてほしい」という願いが記されています。
それが、阿弥陀仏という仏様の願いとして記されています。
「お念仏の教えを聞くことを通して、自らの生き方やあり方が、お念仏の教えや仏様の願いに背いたものとなっていないかと、自らの言動を顧みる心が育まれる」ことがあります。
そうすると、これまでと物事の見え方が違って見えてくることがあります。
そして、自分都合の主張をしっぱなしで終わるのではなく、自らの言動を顧みたり、相手の立場でも考えてみようとする見方が育まれてきます。
こうした状態を、「無明の闇が破られる」と言っているのでしょうね。
しかし、だからといって、完全に相手の立場に立ち切れるかというと、そうではありません。
そして、自分にとって都合が良くないことがあれば、怒りや腹立ち、憎しみといった心がおこってきます。
空が雲や霧に覆われるように、私たちの心には、怒りや腹立ち、憎しみ、貪り、執着などがわきおこってきます。
しかし、空が雲や霧に覆われていても、太陽が出ていれば真っ暗闇ではありません。
それと同じように、お念仏の教えに出遇い、それを信じ喜ぶものは、自らの言動を顧みたり、自らが完全ではないことを知らされます。
そして、相手への理解や寛容さや、感謝や謙虚な姿勢などが育まれていきます。
「正信偈」の「摂取心光常照護」から「雲霧之下明無闇」という部分の内容から、そのようなことを思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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