まだ思いをきちんと言語化できていないのですが、今日は最近感じたことを共有させていただこうと思います。
信行寺では、皆様にご縁を喜んでいただけるようにと、様々な取り組みをしています。
法要に加えて、「朝参り」や「キッズサンガ」、「真宗講座」や「オンラインお寺参り」など、様々な場を開いています。
喜びの声をいただき、やっていて良かったと思う一方で、葛藤を感じることもあります。
こうした取り組みが、本当に皆様のためになっているのだろうか。
やること自体が目的化したり、自己満足のためにやっているのではないだろうか。
色々な活動をしながら、そのような疑問がわいてくることも、正直あるのですね。
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◆自力と他力
そんなことを思っている時、親鸞聖人がよく使われる言葉が、ふと頭に浮かんできました。
それは、「自力」と「他力」という言葉です。
「自力」と「他力」という言葉は、一般用語として使われることもありますが、もとは仏教用語です。
一般用語では、「自力」とは「自分の力で頑張ること、努力すること」というような意味で使われますね。
そして「他力」とは、「他人の力をあてにすること、人任せにすること」というような意味で使われることが多いです。
しかし、特に「他力」という言葉は、一般用語と仏教用語とでは、意味がかなり違います。
仏教用語では、「自力」とは「自らのおさめた善の功徳で迷いを離れようとすること」という意味の言葉です。
そして「他力」とは、「阿弥陀仏の力(はたらき)によって、迷いから離れること」という意味です。
「他力」とは、「他人の力」ではなく、「阿弥陀仏の力(はたらき)」のことなのですね。
そして浄土真宗では、「他力をたよりとすること」を大切にしています。
つまりは、「阿弥陀仏におまかせすること」「阿弥陀仏に身も心もゆだねていくこと」を、とても大切にしているということです。
今思うと、私はこれまで「他力」について、理屈としては理解しながらも、実感をともなって頷くことができていませんでした。
色々なところで、仏教や浄土真宗のお話をさせていただくご縁がありながら、肝心な「他力」が頷けていなかったのだと、今になって思います。
それは、本当に申し訳ないことだと思います。
しかし先日、「他力」とはどういうものなのかが、実感を伴って感じられることがありました。
それは、この「自力」と「他力」という言葉がふっと頭に浮かんできた時のことでした。
この「自力」と「他力」という言葉が頭に浮かんできた時には、これまでお寺で取り組んできたこと、自分なりに精一杯やってきたことなども頭に浮かんでいました。
そして、それらが本当に皆様のためになっているのだろうかという葛藤もわいていました。
その時に、「自力」と「他力」という言葉が頭に浮かんできたのは、お寺での取り組みが独りよがりになっているのではないか、人のための取り組み、阿弥陀仏の願いにかなった取り組みになっていないのではないかと、そういう疑問が心の底にあったからではないかと思います。
そんな中で自然と、「他力におまかせしてみよう」「阿弥陀様に全てをゆだねてみよう」という思いになりました。
「自力」的な生き方ではなく、「他力」にかなった生き方をしようという思いになったのかもしれません。
すると、これまでしてきたことと、これまで触れてきたお念仏の教えとがつながるような感覚になりました。
そして、心が楽になり、大きなものに支えられている感覚になりました。
「ああ、他力とはこういうものなのか」と、その時初めて実感を伴って感じられました。
そして、お前は頑張ってきたなと、何か許された気持ちにもなりました。
「阿弥陀様に身も心をゆだねる」ということが、こんなに安心を感じ、ありがたいことなのかと、その時から思うようになりました。
◆それぞれに精一杯生きている
徳川家康の言葉に、このような言葉があります。
人生とは、重い荷物を背負って遠い道を行くようなものだというのですね。
私はこの言葉は、本当にそうだなあと思います。
人はそれぞれに、一生懸命生きているのではないでしょうか。
誰も変わることのできない人生を、重荷を背負いながら、精一杯生きていると思うのですね。
人はそれぞれ違いますから、はたから見るとそうは見えないこともあるでしょう。
それでもやはり、それぞれその人なりに精一杯生きているのだと思います。
そんな時に、その人を支えてくれるもの、よりどころとなるものがあると、大きな安心になると思うのですね。
よく頑張っているなと認めてくれる方がいると、心が楽になると思うのですね。
◆難行道と易行道
親鸞聖人がつくられた「正信念仏偈」の中に、このような文章が出てきます。
意訳すると、このような意味になります。
これは直接的には、仏道において自力の道は険しく、他力の道は往きやすいことを表しています。
この文章を、人生や生き方にも当てはめてみると、このようにも受け止められるように思います。
自らの身や心を励まして生きる生き方は、とても苦しいものです。しかし、大きなものに身も心もゆだねてゆく生き方は、深い安心に包まれるようなものです。
自らの身や心を励まして生きる生き方は、とても立派な生き方だと思います。
ですが、自分自身のこれまでを振り返ってみると、自分がそういう生き方をしていた時は、重い荷物を背負いながら、何とか自分の足で歩いているような苦しみがありました。
それでももちろん、色々な方に支えられているのですが、支えられていることをすぐに忘れ、独りよがりになってしまって、孤独を感じていました。
それは、いつも自分が中心にあるからではないかと思います。
しかし、阿弥陀仏に身も心もゆだねた時には、大きなものに支えられているという深い安心を感じました。
ゆだねるとは、決して安直に妥協するということではありません。
むしろ、他力という大きな力によって支えられ、その力によって突き動かされ、行動となっていきます。
自らの身体や心を励まして、何とか頑張っている時は、自らの力以上のものは出せませんでした。
自らの力で、何とか抱えられるものしか、抱えられませんでした。
自力という言葉の通り、自らの力の範囲に収まってしまうのですね。
しかし、他力によって支えられてからは、阿弥陀仏の願いに乗り、突き動かされているような感覚があります。
ですので、他力とは安易な人任せとは全く違います。
そして、まかせたのだから何をしなくてもよいと居直ることでもありません。
とにかく、「阿弥陀仏に身も心をゆだねる」ということが、こんなに安心を感じ、ありがたいことなのかと、その時思いました。
そして、阿弥陀仏の願いに生きるとは、こういうことなのかと思いました。
これまで信行寺で取り組んできたことも、それなりに精一杯してきたつもりではありますが、これからはさらにお念仏の教えに基づきながら、皆様のためになるような場にしていければと思います。
まだ思いをきちんと言語化できていないので、伝わりにくいかもしれませんが、今日は最近感じたことを共有させていただきました。
宜しければ、感想などもお聞かせください。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼一口法話シリーズ
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南無阿弥陀仏