置かれている環境は人によって様々です。
しかし、自らが置かれた環境をどう受けとめるのかについては、仏教では三種類に大別できるそうです。
真宗大谷派の僧侶である宮城顗(しずか)先生の『歎異抄講義』という本の中で、そのことが紹介されていました。
とても興味深い内容でしたので、ご紹介をさせていただこうと思います。
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◆三受
自らが置かれた環境をどう受けとめるのか。
三種類の中の一つ目の受けとめ方は、「苦受」(くじゅ)です。
「苦受」とは、「自分の置かれた環境をつらいもの、苦しいものと受けとめること」です。
二つ目は、「楽受」(らくじゅ)です。
「楽受」とは、「自分の置かれた環境をありがたいもの、幸せなものと受けとめること」です。
三つ目は、「不苦不楽受」(ふくふらくじゅ)です。
これは、「自分の置かれた環境を、それほど苦しいとも、幸せとも受けとめないこと」です。
置かれた環境は人によって様々ですが、それをどう受けとめるのかは、この三種類におさまるそうなのですね。
この三種類の受けとめ方を、「三受」(さんじゅ)と言います。
苦しいと思って生きているか。幸せだと思って生きているか。苦しいとも幸せとも思わず生きているか。
考えてみれば、だいたいこの三種類かもしれませんね。
自分はどの傾向が強いか。今どういう受けとめ方をしているか。
そう考えてみると、自分への理解が深まるかもしれません。
さらに、この三つの受けとめ方には、それぞれ感じる苦しみがあると言います。
◆苦苦
自分の置かれた環境に対する三つの受けとめ方のうちの一つ目は、「苦受」でした。
「苦受」とは、「自分の置かれた環境をつらいもの、苦しいものと受けとめること」でした。
その「苦受」における苦しみを、「苦苦」(くく)と言います。
「苦苦」とは、「つらく苦しい環境にあることを苦しむ」ということです。
ただでさえ苦しい環境の中で、「なんで自分だけがこんな目に合うのか」と思うことで、さらに苦しみが増幅することがあります。
自分が苦しい環境にあることを苦しむ。それが、「苦苦」です。
さらにこれを展開して、仏教の八苦という八つの苦しみに当てはめていく見方があります。
「苦苦」の中に八苦を当てはめると、その一つは「病苦」です。
「病苦」とは、「病気の苦しみ」ですね。
「なんで自分だけがこんな病気にならなければいけないのか」。
病気という、ただでさえ苦しい環境を、何で自分だけがと思うことで、さらに苦しみが増幅していくことが、私たちにはあります。
「苦苦」の中のまた一つは、「求不得苦」(ぐふとっく)です。
「求不得苦」とは、「求めるものが得られない苦しみ」のことです。
「なんで自分だけが評価されないのか」「なんで自分だけ給料があがらないのか」「なんであいつは良い思いをしているのか」。
そのように、自分の求めるものが得られないことによって、怒りの感情が湧いたり、他人と比較して苦しみが増幅していくということがあります。
「苦苦」の中のもう一つは、「怨憎会苦」(おんぞうえく)です。
「怨憎会苦」とは、「嫌いな人と会わなければならない苦しみ」です。
「あんなやつの顔も見たくない」「なんで自分の上司はあんな嫌なやつなんだ」。
そのように、嫌いな人をどんどん嫌いになって、苦しみが増幅していくことがあります。
このように、「つらく苦しい環境にあることを苦しむ」ことが私たちにはあり、それを「苦苦」と言います。
◆壊苦
「三受」の二つ目の「楽受」とは、「自分の置かれた環境をありがたいもの、幸せなものと受けとめること」でした。
こうした受けとめ方ができれば、苦しみはないように思えますが、そうでもないのですね。
「楽受」における苦しみを、「壊苦」(えく)と言います。
「壊苦」とは、「壊れていく苦しみ」です。
今が幸せであるほど、それが失われていくことに対して、私たちは不安や苦しみを感じることがあります。
「壊苦」の中に八苦を当てはめると、その一つは「老苦」です。
「老苦」とは、「老いる苦しみ」ですね。
年を重ねるごとに、若さや美しさや健康などが失われていくように感じることがあります。
それらが失われていくことに、私たちは少なからず苦しみを感じるということがありますね。
「壊苦」の中のまた一つは、「死苦」です。
「死苦」とは、「死んでいかなければならない苦しみ」です。
亡くなっていく時には、自分の身体や、これまで築いてきたものも手離していかなければなりません。
また、子や孫の存在が大切であるほど、自分がいなくなった後の心配まですることもあるでしょう。
「壊苦」の中のもう一つは、「愛別離苦」(あいべつりく)です。
「愛別離苦」とは、「愛する人、大切な人とも別れていかなければならない苦しみ」です。
親や連れ合いや、子や孫に先立たれるなどして、私たちは大切な人を見送っていくことがあります。
このように、たとえ今が幸せでも、それが壊れていくことに対して、不安や苦しみを感じることがあります。
それを、「壊苦」と言います。
◆行苦
「三受」の三つ目の「不苦不楽受」とは、「自分の置かれた環境を、それほど苦しいとも、幸せとも受けとめないこと」でした。
ぼうっと生きていれば苦しみがないかというと、これもそうではありません。
「不苦不楽受」における苦しみを、「行苦」(ぎょうく)と言います。
「行苦」とは、「時が移り変わっていく苦しみ」であり、「虚しさ」のことです。
何となくぼうっと過ごしている間に、一日が終わり、一週間が過ぎ、一カ月が過ぎていたということはありませんか。
そして、振り返ってみれば、何ものこっていないように感じる。
「行苦」とは、そういう虚しさのことです。
「行苦」の中に八苦を当てはめると、一つは「生苦」(しょうく)です。
「生苦」とは、「生まれてきた苦しみ」や「生きている苦しみ」のことです。
「自分はなぜ生まれてきたのだろうか」「自分はいったい何のために生きているのだろうか」。
こうした問いに直面した時に、私たちは不安や虚しさ、苦しさを味わいます。
この苦しみは、自分が生きる意味や依って立つものが揺らぐような苦しみです。
食べる物もない時代では、今日の食事にありつけた時に安堵したでしょうし、豊作の年には大喜びをしたことでしょう。
また戦時中などは、家族で食事ができることに幸せを感じたり、安心してお風呂に入れたり、温かい布団で寝れることに、ありがたさを感じることでしょう。
しかし、インフラが整備された現代の日本では、そうした喜びや幸せの感度は、非常に弱くなっているのではないでしょうか。
生きている喜びや、日々のことに幸せを感じづらい、鈍感な時代を私たちは生きています。
もちろん、平和でインフラが整備されていることはありがたいのですが、それを当たり前に思ってしまうことがあります。
それが、「虚しさ」の一因にもなっているように感じます。
「行苦」の中のもう一つは、「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)です。
「五蘊盛苦」とは、「自らに執着する苦しみ」や「生きているだけで湧き上がってくる苦しみ」のことです。
恐怖心から、自分の可能性に挑戦せずに、時が流れていくこともあるでしょう。
また、自らの欲に振り回されて生きているうちに、時が流れてしまうこともあります。
振り返ってみて、「あの時もっと勉強しておけば良かった」とか、「ああしておけば良かった」と後悔することがあります。
このように、私たちは幸せや苦しさを、表面的にはそれほど感じない場合でも、「虚しさ」という根源的な苦しみを抱えていることがあります。
それを、「行苦」と言います。
◆仏法に尋ねる
思い通りにならない苦しみや、大切なものが失われていく不安を抱え、生きる意味を見出せないような時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
これはとても大きな問いです。
私の限られた経験や知識でいくら考えても、中々良い答えは見つかりませんでした。
仮に自分なりの答えを出したとしても、それはとってつけたような答えで、自分自身すら納得させることができませんでした。
そんな時、宗教学者の阿満利麿(あまとしまろ)先生が、言われていた言葉を思い出しました。
「我々は、日頃苦しみや不安があっても、適当にあしらって生きています。しかし、あしらいきれなかった時に、初めて苦しみや不安と向き合うわけです。けれども、苦しみや不安の原因をたずねても、我々の手では究明しきれない。例えば、私はどこから生まれてきて、どこへ死んでいくのか。そういう質問を仮に持ったとしても、それに対する答えは(我々の中には)ないわけですね。人生の苦しみや不安の多くは、原因を明らかにする智慧がないところから生まれている。仏教とは、そうした人間の根本的な苦しみや不安を解決するための智慧を与える宗教なんですね。」(NHKこころの時代にて)
あしらいきれない苦しみや不安に直面した時、生きる意味を見出せないような時、仏様の智慧に尋ねるということが、仏法とご縁のある私たちにできることかもしれません。
親鸞聖人という方は、苦しみと絶望の中、自らの力ではいかんともしがたいことに気付き、お念仏の教えをたよりとされました。
そのお念仏の教えに出遇った喜びを、親鸞聖人はこのような言葉で表現されています。
仏法を聞き、仏法に尋ねる中で、私たちは苦しみや不安の中にも深い喜びに支えられた、虚しくない人生を歩むことができるのかもしれません。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼一口法話シリーズ
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南無阿弥陀仏