信行寺で開催している「朝参り」では、皆様の心が少しでも安らぐようなご縁となればと思い、法話をしております。今回は、利他(日々に精一杯つとめる)というテーマで、お話させていただきました。
文章と動画でご覧いただけるようにしましたので、ご関心がある方は、どうぞご覧くださいませ。
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◆私たちのちかい
皆様、改めてようこそ、信行寺の朝参りにお参りくださいました。
この数回、「私たちのちかい」についてご紹介しております。「私たちのちかい」には、日々このようなことを心がけて過ごすといいですよということが、浄土真宗の教えに照らして示されています。
日々を生きる中で、色々なことがありながらも、「ああ生きていて良かったな」と人生を心豊かに味わっていける。そのような心が育まれ、開かれてくることが、仏縁や仏法をいただく大きな意味だと言われます。
仏法に照らされながら、日々を安らかに、心豊かに過ごし、人生を深く味わっていける。そうした生き方につながる日々の心がけや習慣が、この「私たちのちかい」に示されています。
今回は、「私たちのちかい」の四つ目の文章について、ご一緒にその意味を味わっていきたいと思います。
◆生かされていることに気付く
ご年配の方で、「日々生かされています」とおっしゃる方がおられます。そのお言葉を伺うだけで、私はありがたいなと思います。
日々がどうなるか分からない。ひょっとしたら、朝目覚めないかもしれない。そんなことを思われる時もあるからでしょうか。生かされているということを、身に染みて感じておられるのでしょうね。
ご法話で以前、そのような言葉を聞いたことがあります。今日も目覚めることができたと喜び、感謝できると、本当はいいのでしょうね。
今が当たり前だと思っていれば、生かされているという実感や、感謝の思いもわいてきません。自分の人生は、自分が生きている。今があって当たり前だという感覚で過ごしてしまいます。
しかし、今が当たり前ではないと実感する時に、生かされているという思いや、感謝の思いもわいてくるのでしょうね。
◆感謝の思いがわいてくる
そしてまた私たちは、誰かの思いに触れた時や、支えられていると実感した時に、ありがたいと思うことがありますね。
以前、ご法事をされた方が、このようにおっしゃっておられました。
これまではご法事というと、父母がするもので、若かった私は自分事に感じませんでした。しかし、父が亡くなり、母も歳をとって、今度は私がご法事をお迎えさせていただく番になりました。ご法事の準備をする間、どんなことをすればいいのか分からず困りました。しかし、父が書き遺していたノートがありました。そのノートには、ご法事ではどんな準備をしたらいいのかが、細かく書いてありました。今日は、父の教えの通りに準備をして、ご法事を迎えることができました。
その方は、ご法事の時に、そのようなことを教えてくださいました。
「父はこんな思いでご法事の日を迎えていたのだ」と、何十年越しに、お父様の思いに触れたとのことでした。
私たちは、誰かの思いに触れた時や、支えられていると実感した時に、ありがたいと思うことがありますね。
「生かされている」「思われている」「支えられている」。そう実感する時に、感謝の思いが湧いてきます。そして、これまでの出会いや出来事に対して、感じ方が随分と変わってきます。
人生がとても深く、豊かに味わわれてきます。当たり前のように過ごしていた日々が、かけがえのない今の連続であったのだと気付かされてきます。
そうして出てくる言葉が、「生かされている」とか、「おかげさま」とか、「南無阿弥陀仏」という言葉でしょうね。
◆日々に精一杯つとめる
「おかげさまで、生かされている」と実感する時に、感謝の思いや、今を大切に生きていこうとする思いもわいてきます。生かされている日々に精一杯つとめさせていただこう。そんな気持ちがわいてきます。
「私たちのちかい」には、「日々に精一杯つとめます」という言葉が出てきます。これは、自分の欲を満たすために、遮二無二頑張るというようなものとは、種類が違うものでしょうね。
「生かされている」「思われている」「支えられている」。そう実感する時に、わきおこってくるものですね。
当たり前ではない今を生かされているという実感や、誰かの思いや支えに喜びや感謝を感じながら、日々に精一杯つとめさせていただく。
仏法をいただいていく中で、人生を深く味わい、日々に精一杯つとめさせていただく心が育まれ、開かれてくることがあるようです。
今回は、そのような内容が書かれた「私たちのちかい」の文章を、味わっていきました。
本日も、信行寺の朝参りに、ようこそお参りくださいました。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
南無阿弥陀仏