数回にわたり「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)の概要についてみています。
「正信偈」は、三つの段落から構成されています。
一つ目の段落が「帰敬序」(ききょうじょ)、二つ目が「依経段」(えきょうだん)、三つ目が「依釈段」(えしゃくだん)でした。
そして前回まで、「帰敬序」と「依経段」の内容についてみていきました。
今回は、三つ目の段落である「依釈段」の内容についてご紹介いたします。
お経本をお持ちの方は、宜しければお手元にご準備いただき、照らし合わせたり、書き込んだりしながらご覧ください。
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◆依釈段
では、「依釈段」(えしゃくだん)についてみていきましょう。
まず、「依釈段」の段落の確認ですが、「正信偈」の中ほどの「印度西天之論家」(いんどさいてんしろんげ)というところから、最後の「唯可信斯高僧説」(ゆいかしんしこうそうせつ)というところまでが、「依釈段」となります。
「依釈段」には、親鸞聖人が尊敬をされた七人の僧侶である「七高僧」(しちこうそう)の名前が挙げられ、お念仏の教えの要点が記されています。
「七高僧」の全員についてみていければよいのですが、時間に限りがありますので、今回は「七高僧」の中でも、法然聖人と善導大師の部分について、主にご紹介しようと思います。
◆法然聖人
「七高僧」の一番最後に名前が出てくるのが、法然聖人(ほうねんしょうにん)です。
法然聖人は、法然房源空(げんくう)と言います。
そのため、「正信偈」には「源空」と記されています。
法然聖人は、親鸞聖人の直接の師です。
親鸞聖人は、29歳の時に法然聖人のもとを訪ね、お念仏の教えに出遇い、帰依されました。
「法然聖人がおられなければ、今回の人生も虚しく過ぎていた」と言われるほど、親鸞聖人にとって法然聖人との出遇いは、大きなものでした。
以前にもお話しましたが、法然聖人や親鸞聖人の生きた平安時代末期から鎌倉時代の初期は、戦争や飢饉、地震や疫病などによって、多くの人々がいのちを落とし、この世に救いを見出せなくなっていた時代でした。
法然聖人はそんな時代にあって、迷い苦しむ多くの人々が救われていく道はないものかと思い続けておられたそうです。
そんな中、法然聖人は阿弥陀仏の救いが説かれたお念仏の教えに出遇います。
そして、このお念仏の教えは、多くの人々が救われていく教えだと確信し、お念仏の教えを人々に説きひろめました。
そうしたことが、「正信偈」の「本師源空明仏教」というところから「選択本願弘悪世」というところにかけて記されています。
その部分の意訳を見てみましょう。
◆善導大師
迷い苦しむ人々が救われていく道はないものかと、法然聖人が悩み続けておられた時、お念仏の教えに出遇ったのは、善導大師(ぜんどうだいし)の書物を通してでした。
「正信偈」には、「善導」と記されていますが、それが善導大師のことです。
善導大師は、西暦600年代に今の中国に生まれた方です。
善導大師と法然聖人とでは、生まれた時代も国も違いますので、お二人が直接会ったことはありません。
しかし法然聖人は、迷い苦しむ人々が救われていく道はないものかと悩み続けていた時に、善導大師の書物の中にその答えを見つけます。
病気や飢えなどに苦しむ人でも、日々の生活に追われる人でも、誰であれ、阿弥陀仏を心の依りどころとし、南無阿弥陀仏と念仏を称えれば救われていくということを、法然聖人は善導大師の書物の中から見出したのでした。
「正信偈」には、「善導独明仏正意」という言葉が記されています。
その部分を意訳すると、このような意味なります。
善導大師が明らかにされたお念仏の教えを、法然聖人は時代や国を超えて受け継ぎ、日本にひろめました。
そうして伝わってきたお念仏の教えを親鸞聖人は喜び、また後世に伝えようと、「正信偈」などの書物をつくられていきます。
「正信偈」の「依釈段」には、その他に5名の僧侶の名前が挙げられ、お念仏の教えの要点が記されています。
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いかがだったでしょうか。
今回は、「正信偈」の「依釈段」の内容についてご紹介しました。
「帰敬序」「依経段」「依釈段」と、「正信偈」の内容を何回かに分けてお話してきましたが、どのようなことを感じられたでしょうか。
「正信偈」の詳しい内容については、「正信偈を学ぶ」というシリーズで細かく解説をしています。
ご関心がある方は、そちらもぜひご覧になってみてください。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼【正信偈を学ぶ】シリーズ
https://shingyoji.jp/category/shoshinge/
南無阿弥陀仏