2020年12月11日に、信行寺にて配信した報恩講法要でのご講師の法話を書き起こしております。
どうぞご覧くださいませ。
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【御讃題】(ごさんだい)
人間のはかなきことは老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。【意訳】
人の世のはかないことは、老い若いに関わらないことですから、誰も皆、いのち亡き後のことも心にかけて、阿弥陀仏という仏様におまかせして、お念仏をとなえることが大切なことです。【法話】
講師:中川清昭師
浄土真宗本願寺派布教使 福岡県筑紫野市 願應寺
2020年12月11日 福岡県宇美町 信行寺にて
こんにちは。本来ならば、ようこそお参りくださいましたとご挨拶致しますけれども、今年は特別な年、新型ウイルスのコロナの中にありますので、こうして動画で私の法話を配信してくださるということで、しばらく時間をいただきたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
今申しましたように、大変な一年でありました。皆様方も色々な面で、生活がコロッと変わってしまったんではないかなと思いますね。お仕事によりましては、仕事が全く無くなったという方もあるでしょうし、そういう私も実は、布教使という仕事をしておりますと、今年の2月末、3月のお彼岸、4月とですね、全く布教というお仕事がありませんでした。
どんな病気でも、普段はやるインフルエンザでも、大流行をみせても、大体4月の末から5月になり、温かくなって湿度が増してくると、終息するっていうことが多いですから。私も今回もそのつもりになっておりましたら、何が何が。4月、5月、6月、7月、8月のお盆まで、全く布教というお仕事がありませんでした。全部キャンセルという形であります。
あまり良くないんですが、最初の2月3月くらいはちょっと喜びました。もう少ししたら終息するだろうという思いがあったもんですから、ちょっと長い休みができたなあというような思いでね、少し喜んでおりました。趣味が、ガーデニングということでありますから、外の仕事をさせていただきました。境内地もおかげで随分綺麗になりました。草取りしたんです。
ところが、先程申しましたように、(ウイルスの流行が)どんどん長引きます。長引くと暑くなってきます。そうすると、前は時々でしたから、そういう(外での)仕事が楽しかったんですけれども、毎日毎日になってきまして、しかも温かくなってきて汗が出る、そういう季節になりますと、もう飽きてしまいましてね。嫌になりまして、そういう仕事に全く手が付けられないという状況になってきました。
こんなことであったわけですが、皆様方も、楽しみにしていらっしゃった色々な行事が中止になったり、そういうことがあったろうかと思います。私自身も、一番楽しみにしておりましたのは、10月の末頃に予定でした高校時代の同窓会が、やはり中止になりました。数年に一度の同窓会ですから、とても楽しみにしておったのですが、それもだめになりました。
そんな中でね、よく耳にした言葉があるんです。つい2、3日前に聞きましたよ。その方はね、大相撲が大好きなおじさんであります。今年は、コロナのおかげで九州場所が中止になりまして、東京で開催されるということになりました。そのおじさん、毎年九州場所が来ると、友達と誘い合って、必ず九州場所を見に行くそうです。それができなくなった。その時おっしゃった言葉がね、「本当なら今日あたり、大相撲を見に行って、お酒をいただいて、いい気持になって、ワイワイ言うてたのになあ」と、そういうことをおっしゃってました。
皆様もおっしゃいませんでしたか。「本当ならば、今頃こうしとったのなあ」という言葉をね、随分私、今年聞いたような気がします。結構言うんですよ。ところが、お釈迦様のお経をいただきますと、その通りの言葉は出てきませんが、「本当ならばこうやったということはないよ」と教えてくださるんです。そうですよね。今、現実ということと、本当やったらこうやろうなということは、まずないわけです。
ちょっと言葉を変えますとね、「こんなはずではなかった」という言葉に変わるんではなかろうかなと思うんですね。これ結構多くないですか。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。結婚をする。愛し合って結婚をする。しばらくすると、お互い見つめながら、「こんなはずじゃ・・・」。そんなことはないですかね(笑)。
可愛らしい子どもが生まれます。おそらく子どもは、私の思い通り、こう育ってくれるだろうと思うわけですが、育っていく中で、やんちゃをすれば、「こんなはずじゃなかった」。いつも泣いてばかりおれば、「こんなはずじゃなかった」とですね、身の回りのことを、そういうふうに言っていく私がいます。
実は私たち、そのはずということで非常に苦しくなっていませんか。こんなはずじゃなかったという思いが、悲しい思いになったり、辛い思いになったり、嫌な思いになったりですね。それを、お釈迦様は苦と教えてくださったんでしょうね。私の思い通りになることは一つもないよ。そういうことを身に感じながら、特に今年はそういうことを強く感じた一年であったような気が致します。
そのような中でですね、インターネットというものを見ておりましたら、お顔は分かりません、文字だけ出てましたので、お顔は分かりませんけれども、名前も本名かどうか分からないですね。23歳か24歳くらいだと思うんですが、そういう女性がある文章を載せてくださいました。それを見てみますと、ほおなるほど、こんなこともあるのかとですね、コロナということがこういう方向に向かったら私も非常にいいんじゃないかなと、そんな思いをしたんですね。
どういうことかと言いますと、その方が書かれた文章どおりには覚えておりませんけれども、その方はですね、コロナという病気がはやり出した頃に、当時は死者の数も随分多くてね。特に外国では、死者の数がものすごい量でした。びっくりしました。そんな時、彼女はどう思ったかといったら、このコロナって他人ごとじゃないんだと思ったそうです。自分のことかもしれないと思ったそうです。
そこでどうしたかと言いましたら、彼女はお母さんとエンディングノートを二人分買ってきまして、そのエンディングノートを書きながら、二人で死ということについて話し合ったそうですよ。自分の死、そして相手の死ということをですね。どっちかというとどうですかね、皆様、自分やすぐ目の前の人の死を語るというのは、どっちかというとタブー視されている。あんまり言わない方がいいような、そんなことできたような気が致します。
その方も初めてお母さんと、自分やお母さんの死について語った。結構、色々な思いがお互い出てきて、そして、死について語るって、楽しいとは書いてなかったけれども、こんなに真剣になれるんだ。そして、お互いの気持ちが何か通じ合うことになったということを書いていらっしゃって。一番最後にはですね、死を語り合うということは、実は生、生きるということを語り合うということなんだということに気が付いたという一文で文章を終わってくださいました。
いかがでしょうか。死を語る、死を考えるということは、生を考えることなんだ。そこに気が付いたっておっしゃるんですね。コロナという悲惨な状況の中で、そこに思い至ったこの親子さん、とても素晴らしい時間じゃなかったろうかなと思うんですね。いかがでしょう。
私たちも考えてみると、もっと積極的に死を語るという場面をもたなければいけないんじゃなかろうかなあと思うんですね。お寺の本堂で聞くこともあるでしょう。あるいは、それぞれのお宅でおこなわれる、先立たった方々のご法事の中で死ということも考えるでしょう、聞くでしょう。でも、今それだけになっていませんか。もっとフランクにといいますか、もっと日常の会話として死を語るということができたら、生きるってどんなことなのかということがお互いの中で芽生えてくるのではなかろうかなと思うんですね。
死は他人ごとではなかった。生まれた以上、必ず死してゆくいのちである。その死してゆくいのちを今、私たちは生きているんだということですね。その女性の文章を見て以来、ご法事の法話では必ずこれを私はするようにしています。そして、「どうぞ自分の死を真剣に考えていただけませんか」、「それは生きるということを考えることなんですよ」と。死ということを考えている時に、今生きておることのかけがえのなさ、有難さ、喜び、そういうものが胸にわいてくるのではなかろうかなと思うんですね。
先程、一番最初にいただきました、蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文章』(ごぶんしょう)。最後のほうの一部だけ読ませていただいたんですが、私たちのいのち、いつ、どこで、どうなるか分からんいのちを生きておるということでありますね。お年寄りが先なのか、若い人が先なのか、これも全く分からん。じゃあその分からんならばこのいのち、阿弥陀仏におまかせして生きていきましょうよ。そういうことを蓮如上人は、私たちに教えてくださるわけであります。
繰り返しになりますが、我が死を思うということ、我が死を語るということ、それは我が生、生きるということを考えていくことにつながってくると思うんですね。そんな日常生活が送れたらいいのではないかなと思います。
報恩講(ほうおんこう)という親鸞聖人のご命日。親鸞聖人は、そういうことを仏様として私たちに教えてくださる。なぜ亡くなった人を仏様というのかなって考えてみたら、亡くなった人がそのご命日を縁として。ご命日ってどんな字が書いてあるか。ご命日とはいのちの日と書いてあります。没日とか亡日とか、そういうふうな表現はしないわけですよ。いのちの日です。ということは、そこに一緒に亡き方を目の前にして、手を合わせ、阿弥陀様を拝んでいくということは、我がいのちを考えていくということにつながるんではなかろうかなと思うんですね。
どうぞ今後とも、そういうことを考えながら日暮らしをしていただければ有難いかなと思います。
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最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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