【仏教解説】第6回_煩悩③_愚痴・無明(愚かさ・無知・真理に暗い状態)

【お坊さんのかんたん「仏教解説」】のコーナーでは、仏教に関するテーマを一つ取り上げて、できるだけ分かりやすくご紹介しています。

仏教やお寺を身近に感じていただいたり、日々を安らかに、穏やかに過ごすようなご縁となれば幸いです。

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◆煩悩とは?

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さて、何回かにわたり、「煩悩」について見ています。

煩悩とは、心身を煩わせ、悩ませるものの総称です。もっと簡単に言うならば、煩悩とは、我々の悩みや苦しみの原因となっているものでした。

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前回もお話しましたが、煩悩には、代表的な煩悩が三つあります。貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の3つです。これら三つで、三毒の煩悩とも言っています。

前回まで、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに)について、見ていきました。
今回は、三毒の煩悩の三つ目、愚痴(ぐち)について、ご紹介させていただきます。

◆愚痴、無明とは

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さて、今言ったように、三毒の煩悩の三つ目は、愚痴(ぐち)です。愚痴とは、愚かさや無知、真理に暗いことといった意味です。

愚痴というと、愚痴をこぼすというように使うことがありますが、もともとはこの仏教用語がもとになっているとも言われます。

愚痴のことを別名、無明とも言います。無明とは、明るく無いと書きますので、真理に暗いこということがより分かりやすい言葉かと思います。そして、この愚痴や無明が、煩悩の根源であると言われます。

◆煩悩によって苦悩していることに気付かない

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さて、愚痴や無明の意味である、愚かさとか無知とか、真理に暗いとは、どういう状態のことでしょうか。

愚痴とは愚かさや無知のことですよと言われても、言葉も抽象的で捉えにくいですし、そうかと納得しずらいですよね。ですので、例を出しながら解説していきます。前々回にお話した、三毒の煩悩の貪欲を例に考えてみましょう。

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貪欲とは、貪りの心のことで、もっと欲しい、もっと欲しいと思う心のことでした。もっと欲しいという貪ぼりの心が、我々の悩み苦しみの代表的な原因の一つでした。

例えば、我々は日々生活をする上で、より良い生活を望みます。それは人として、ある意味当然のこととも言えます。しかし、より良い生活といっても、物質的な豊かさを目指していけば、上はきりがありません。

一部の資産家の方は、お金や人脈で様々なモノやサービスなどを手に入れ、ある程度の願いをかなえられるかもしれません。しかし、世界中のほとんどの人は、そうではありません。多くの人が、その日の暮らしや、その月の暮らし、その年の暮らしを、稼いでいるお金や年金などの収入と相談しながら、やりくりして生活しています。

ですから、世界中のほとんどの人は、物質的な豊かさを目指すといっても、手に入れられるものは限られていますね。ある程度計画的にお金を使わないと破産してしまいます。

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もっと欲しい、もっと欲しいと思ってみても、願いは思ったようにはかなわず、ちょうどいいと納得していくことがなければ、欲望は尽きることがなく、かえって苦しみになります。

また、欲望をかなえたらかなえたで、それを失わないかと心配したり、新たな悩みも出てきます。新車を買ったら、盗難や車上荒らしにあわないかと心配したり、子どもがいれば、子どもの将来を心配したり、あればあるで悩みが出てくることもありますね。

田や宅(いえ)といった財産は、あればあるで悩み、なければないで悩む。そうしたことを、貪欲の話の時に、お経の一節から紹介をさせていただきました。

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この貪欲のように、煩悩が我々の悩みや苦しみの多くの原因となっています。そして、このことと愚痴や無明がどう関係しているかというと、この煩悩によって苦悩していることに気付いていない状態のことを、愚痴や無明と言います。

愚かや無知、真理に暗い状態とは、こうした煩悩によって苦悩していることに気付いていない状態のことを言うのですね。

もっともっとと思う貪りの心が、自分を苦しめているにも関わらず、それに気付かずもっと欲しがったり、一生それに振り回されたりしながら生きているようなあり方です。そう言われると、何だか耳が痛くなりますね。

◆気付いていてもどうしようもない

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そしてまた、煩悩によって悩み苦しんでいることに気付かないだけでなく、気付いていてもどうしようもない、そこまで自分を変えようと思えないといった問題もあります。それも、愚痴や無明の状態と言われます。

例えば、人が自分より評価されている時に、不満や嫉妬の心を抱くことがあるかもしれません。その時に、人は人、自分は自分と、比較することをやめればいいのですが、そうと分かっていても、人と自分とを比較してしまうことがあるかもしれません。そして、不満や嫉妬の心を抱いてしまう。

このような場合が、気付いていてもどうしようもない、分かっていてもやめられないというような場合です。

他にも、人からどう見られているのかが気になるということも、自分がよく見られたいという気持ちの裏返しから起こるものであったり、劣等感から自分が悪く言われているのではないかと思ってしまうこともあります。

人からどう見られているかを気にしないようにすればいいのは分かっているけれども、それが中々やめられないとか、そういうこともあるかもしれませんね。

このように、煩悩によって悩み苦しんでいると気付いていてもどうしようもないとか、そもそもそこまで自分を変えようと思えないということもあるでしょう。こうしたことも、無明や愚痴といった、愚かや無知、真理に暗い状態と言われます。

このように、無明や愚痴とは、煩悩によって悩み苦しんでいることに気付かない、気付いていてもどうしようもない、そこまで自分を変えようと思えないというように、煩悩の中でも根深いもので、煩悩の根源であると言われます。

◆煩悩だらけ

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浄土真宗の宗祖である親鸞聖人も、このような言葉を遺しています。

無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
(『一念多念文意』/親鸞聖人)

無明の煩悩は、この身にみちみちて、欲や怒り、腹立ち、そねみ、妬むといった心が多く、常におこり、いのち終えるその時までとどまることなく、消えることなく、たえることがない。

自分の奥底、人の奥底まで見つめてみたら、煩悩だらけだった。この言葉は、親鸞聖人が自分自身のありようを告白した言葉として、また人の根本的なありようが示された言葉として、浄土真宗では受けとめられています。

自分のある程度思い通りになっている時や、体調の良い時、機嫌のいい時には、ちょっと人のことも考えようと思う時があっても、自分の思い通りにならない時があれば怒り、体調や機嫌が悪ければ、人にきつくあたってしまう我々がいるかもしれません。

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我々は、自分自身を見つめてみれば、いつも煩悩というものに振り回されながら、感情が上がり下がりしたり、関心があっちこっちにいったりしながら生きているのかもしれません。

煩悩が、悩み苦しみの原因となっている。その煩悩をどうするかというのが、仏教の根本命題(テーマ)です。では、そんな煩悩に対してどうすればいいのか。

それは、仏教各宗派でも色々なアプローチがあるかと思います。次回は、煩悩に対する浄土真宗的なアプローチについて、ご紹介したいと思います。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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▼次回の内容

【仏教解説】第7回_煩悩④_煩悩に苦しんだ親鸞聖人 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

▼前回の内容

煩悩って何?②【お坊さんのかんたん「仏教解説」】 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

◇参照文献:

・『浄土真宗聖典』注釈版/浄土真宗本願寺派
https://amzn.to/2TA8xPX
・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
https://amzn.to/3ha42oh