【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

前回より、「正信偈」の「能発一念喜愛心」から「如衆水入海一味」までの四つ句を見ています。今回は、その四つの句の中の「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という句の意味について、見ていきます。テーマは「仏縁を喜ぶ」です。それではさっそく見ていきましょう。

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◆煩悩を断ぜずして涅槃を得る

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さて、それではまず、「正信偈」の「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」(のうほついちねんきあいしん ふだんぼんのうとくねはん)という句の意味について、最初に見ておきましょう。その後、内容について味わっていきます。

書き下し文では、「よく一念喜愛(いちねんきあい)の心を発(ほっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得(う)るなり」とあります。

阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただくと、煩悩を断ち切れないままでも、浄土という仏の国に往き生まれ、安らかな仏のさとりをひらくことが定まるのです。

意訳では、このような意味となっています。

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仏教では、「煩悩を断じて涅槃を得る」というのが、通常の考え方です。

「煩悩」とは、欲や怒りなどのことで、私たちの悩みや煩いを生じさせるものです。煩悩が私たちの苦しみを生む根本的な原因であると仏教では考えます。ですので、その煩悩を断じていく、煩悩を手ばなしていくことが、心の安らぎにつながるというのが、仏教の通常の考え方です。

「涅槃」という言葉は、煩悩の炎が吹き消された、とても安らかな状態のことを言います。その安らかな状態のことを「さとり」と呼び、仏教での最終的な境地とされています。

煩悩の炎が吹き消された、とても安らかな状態を表した「涅槃」という言葉からも、「煩悩」を断じて、安らかなさとりに至ることが、仏教における通常の考え方であることが伺えます。

しかし、「正信偈」には、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と書かれています。煩悩を断ずることなく、煩悩を抱えたまま、安らかなさとりに至ると記されています。これは、どういうことなのでしょうか。

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今一度、「正信偈」の言葉の意訳を見ると、このように示されています。

「阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただくと、煩悩を断ち切れないままでも、安らかな仏のさとりをひらくことが定まる」

通常であれば、煩悩を断じることでしか、安らかなさとりに至ることはできないけれども、阿弥陀仏の救いのはたらきによって、阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただき、安らかなさとりへの道がひらかれるということが示されています。

欲や怒りといった煩悩を抱え、迷い苦しんでいるものも、阿弥陀仏の救いのはたらきによって、安らかなさとりへの道がひらかれてくることが示されています。そして、この言葉は単に、煩悩を断じなくてもいいんだという意味の言葉ではないでしょう。

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様々な学問や修行に励み、煩悩を断じて、迷い苦しみから抜け出そうとも、それが叶わなかった。安らかなさとりへと至る道が途切れてしまい、挫折と絶望を感じた。そうした苦悩の中に、法然聖人との出遇いや、阿弥陀仏の救いが説かれたお念仏の教えとの出遇いによって道がひらかれた。

そうした親鸞聖人の経験と喜びから記された言葉が、この「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という言葉ではないかと思います。

では、親鸞聖人は、どのような人生を歩まれたのでしょうか。親鸞聖人のご修行時代などを通して、この「正信偈」の文章をさらに味わっていきましょう。

◆親鸞聖人の修行時代

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親鸞聖人は、承安(じょうあん)3年(1173年)に京都に生まれ、弘長(こうちょう)2年(1263年)にご往生されるまで、90年の生涯を送られた方でした。親鸞聖人が生きた、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、戦乱や飢饉、地震、疫病などが重なり、非常に混沌とした激動の時代だったと言います。

そんな中、親鸞聖人はお父様、お母様と若くして別れ、わずか9歳にしてお寺に預けられ、ご出家をされます。その後、比叡山にて、約20年間、仏道修行に励まれたと伝わっています。

比叡山には、伝教大師最澄(でんきょうだいしさいちょう/767~822)によってひらかれた天台宗延暦寺があり、多くの僧侶たちが仏道に励んでいました。

親鸞聖人の奥様が書かれたとされる『恵信尼消息』というお手紙によると、親鸞聖人は比叡山時代に「堂僧」(どうそう)をつとめていたと書かれています。

当時の「堂僧」が、どのようなことをしていたのかは、詳しくは分からないそうですが、一説では、常行三昧(じょうぎょうざんまい)という厳しい修行をおこなっていたのではないかとも言われています。

常行三昧とは、常行三昧堂にこもり、90日間、ご本尊である阿弥陀仏の周囲をお念仏をとなえながらまわり続けるという行です。その行の間、坐ることも横になることもできない、とても過酷な修行だといいます。

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親鸞聖人の比叡山時代について、はっきりとは分かってはいませんが、約20年間にわたり、仏教における様々な学問や修行に励まれたことは間違いないでしょう。それは、その後に親鸞聖人が記された、数多くの書物などを見ればよく分かります。そして、そのように学問や修行に励まれたのは、迷い苦しみから抜け出すことのできる道を求めるためだったと言います。

現代の私たちは、「迷い苦しみから抜け出す」というと、「今抱えている苦しみから抜け出す」ことだと思うのではないでしょうか。今抱えている苦しみから解放されることも、もちろん重要なことではありますが、親鸞聖人の言われる迷い苦しみとは、今抱えているものだけに限らなかったかもしれません。

◆迷い苦しみから抜け出す道

浄土真宗でも大切にしている、「礼讃文」と言われる言葉があります。

人身(にんじん)受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生(こんじょう)にむかって度せずんば、さらにいずれの生(しょう)にむかってかこの身を度せん。大衆(だいしゅ)もろともに至心に三宝(さんぼう)に帰依したてまつるべし。

人として、この世にいのちを受けるのは難しいことですが、今すでに受けています。仏の教えにめぐり遇うことは難しいことですが、今すでに遇い、聞くことができました。今生において、さとりの道へと歩むことがなければ、いつ迷い苦しみから抜け出せるというのでしょうか。ですから、皆と共に心から、仏と仏の教えと、仏の教えを信じる人々という三つの宝を敬い、帰依するべきです。

この「礼讃文」には、仏教で前提としている世界観が表れています。

仏教的な世界観で言えば、この人生というのは、何度も生まれ変わり死に変わりしながら、長い間、迷いと苦しみの生を送ってきた末に、いただいた人生と言えます。人として生まれてくることは、とても難しいことであるにも関わらず、このたびの生において、人としてのいのちをいただきました。

そして、この人生をどこに向かって歩んでいくと良いのかが示されたお念仏の教えに、何の縁でか遇うことができたわけです。今回の生において、人生の最終的な境地と言われる安らかなさとりへと歩みを進めることがなければ、いつこの迷いと苦しみから抜け出せるのでしょうか。

親鸞聖人も、こうした仏教的な世界観を前提にしていたと考えられます。

何度も生まれ変わり死に変わりしながら、長い間、迷いと苦しみの生を送ってきた。そして今、人として生まれ、仏門に入り、仏法とのご縁をいただいた。今回の生において、安らかなさとりに至る道へと歩みを進めることがなければ、いったいいつ、この迷い苦しみから抜け出せるというのか。そう思いながら、比叡山において、様々な学問や修行に励まれたことではないでしょうか。

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しかし、安らかなさとりに至る道が、まったくひらけてこない。もっと具体的に言えば、欲や怒りといった煩悩を断じることが難しい。そのことに、親鸞聖人は悩まれたのではないかと言われています。

こうした悩みは、求道者だからこそ、真剣に道を求めているからこそ、おこってくるものでしょうね。順風満帆に、問題なくことが進んでいたり、また何となく日々を送れるのであれば、そこまで悩みも抱かないでしょう。

しかし親鸞聖人は、青春時代のほぼ全てをかけて、真剣に求めてきたさとりへの道が途切れてしまい、そこからどうすることもできなくなったのではないでしょうか。大きな挫折と絶望の中、比叡山を下山されたと伝わっています。

私たちにおいても、人生をかけて挑んでいたことが失敗に終わった時には、挫折や絶望を味わうものではないでしょうか。どうしても入りたかった大学や企業に入れなかったり、多くのものを犠牲にしてまで臨んでいた仕事が上手くいかなかったり。また、リストラや病気や死別などによって、人生設計が狂ってしまうこともあるでしょう。

これまでの自分の人生は、いったい何だったのだろうか。これまで自分が歩んできた道は、果たして正しかったのだろうか。そう考えさせられる時、人は挫折を感じ、絶望することもあるのでしょう。親鸞聖人が比叡山を下山すると決意するに至った時も、まさにそうした挫折と絶望の中にあったのではないでしょうか。

そして、その悩み苦しみとは、今生のものだけではなく、これまで生まれ変わり死に変わりしてきたことも含めた、長い時間軸における迷い苦しみだったのかもしれません。

◆仏縁を喜ぶ

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親鸞聖人は、比叡山を下山された後も、安らかなさとりに至る道が何とかひらかれないものかと、求道を続けます。そこで出遇ったのが、生涯の師となる法然聖人であり、阿弥陀仏の救いが説かれたお念仏の教えでした。

法然聖人とお念仏の教えとの出遇いが、親鸞聖人の人生を変えます。この出遇いによって、親鸞聖人の人生の歩みは、煩悩を断じて涅槃を得る道から、煩悩を断ぜずして涅槃を得る道へと転換されていきました。そうした人生が転換された出遇いへの喜びの中に記された言葉が、「正信偈」の「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という言葉ではないでしょうか。

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今一度、「正信偈」の言葉を見てみると、このようなものでした。

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」

「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」

阿弥陀仏の救いを信じ喜ぶ心をいただくと、煩悩を断ち切れないままでも、浄土という仏の国に往き生まれ、安らかな仏のさとりをひらくことが定まるのです。

通常であれば、煩悩を断じることでしか、安らかなさとりに至ることはできないけれども、阿弥陀仏の救いのはたらきによって、安らかなさとりへの道がひらかれることが、この言葉には示されています。

欲や怒りといった煩悩を抱え、迷い苦しんでいるものも、阿弥陀仏の救いのはたらきによって、安らかなさとりへの道がひらかれてくることが示されています。そしてこの言葉は単に、煩悩を断じなくてもいいんだという意味の言葉ではないでしょう。

様々な学問や修行に励み、煩悩を断じて、迷い苦しみから抜け出そうとも、それが叶わなかった。安らかなさとりへと至る道が途切れてしまい、挫折と絶望を感じた。そうした苦悩の中に、法然聖人との出遇いや、阿弥陀仏の救いが説かれたお念仏の教えとの出遇いによって道がひらかれた。

そうした親鸞聖人の経験と喜びから記された言葉が、この「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という言葉ではないかと思います。

親鸞聖人がつくられた和讃といううたには、この「正信偈」の言葉と同じ内容が、別の言葉で表現されています。

弥陀(みだ)の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうかく)をばさとるなり
(『正像末和讃』/親鸞聖人)

この和讃を意訳すると、このような意味になります。

「必ず救う」と誓われた阿弥陀仏の大いなる願いを信じるべきです。この願いを信じる心をいただいた人はみな、摂め取って捨てないという阿弥陀仏の利益によって、安らかなさとりをひらくのです。

たとえ欲や怒りといった煩悩を抱えていても、そうした迷い苦しんでいるものを見捨てないという阿弥陀仏の力とはたらきによって、安らかなさとりをひらいていく。そうした「正信偈」の言葉にも通じる内容が、この和讃には記されています。

そして、そのお念仏の教えに出遇った喜びと、それをどうか信じ、大切にしてほしいという親鸞聖人の思いも、この和讃には込められているように感じます。

他にも、親鸞聖人は、お念仏の教えとのご縁を、このように喜ばれています。

ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲がたし。たまたま行信(ぎょうしん)を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
(『教行信証』「総序」/親鸞聖人)

ああ、大いなる阿弥陀仏の誓いが説かれたお念仏の教えには、何度生を重ねても、なかなかあえるものではなく、真実の浄らかな信心は、どれだけの時を経てもいただくことはできません。もしたまたま、真実の行と信が説かれたお念仏の教えに遇うことができたならば、遠い過去世からの因縁を慶びましょう。

親鸞聖人は、この言葉のように、遇うことの難しいお念仏の教えとのご縁を喜ばれています。その喜びとは、様々な学問や修行に励もうとも、ひらけてこなかったさとりへの道がひらかれたことへの喜びでもあろうかと思います。

そしてまた、そうしたご縁も、過去世から長い間、生まれ変わり死に変わりして、迷い苦しんできたからこそいただいたご縁でもあります。今生において、安らかな仏のさとりをひらくことが定まっていくことは、こうした過去世からの迷いも含め、全てが転換され、さとりへとつながっていくことでもあります。そうした道がひらけた喜びは、とても大きなものだったことでしょう。

安らかなさとりへとつながるお念仏の教えに出遇い、お念仏の道を歩むご縁をいただくことができた。そうした仏縁の喜びの中に、筆を取って記されたのが、「正信偈」の「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という言葉ではないでしょうか。そしてこの言葉は、その喜びを後世の人にも伝え、自分がこうして出遇ったお念仏の道に、どうか歩みを進めてほしいという思いが込められた言葉ではないでしょうか。

「必ず救う。私にまかせなさい」という阿弥陀仏の温もりに触れてほしい、気付いてほしい。そして、安堵の中に生きていける、お念仏の道を歩んでほしい。そのような親鸞聖人の喜びと、その喜びを他の人にも伝えたいという思いが、「正信偈」のこの言葉には込められているのではないでしょうか。

考えてみたら、私たちも昆虫や動物など、人間以外に生まれていてもおかしくはなかった人生かもしれません。その中で、人としての生をいただいたからには、どのようにこの人生の歩みを進めていくと良いのでしょうか。何を依りどころとし、何を大切にして、この人生を生きていったら良いのでしょうか。

たまたまかもしれませんが、しかし確かにいただいたこの仏縁とは、阿弥陀仏の願いと、多くの方々の勧めによって、ここまでつながってきたものでした。そうした仏縁を喜び、大切にしていくことは、この人生が利己に閉じたものではなく、大きくひらかれた人生を生きることにもつながるのかもしれません。実は目の前にお念仏の道がひらかれているにも関わらず、その道に背を向けて、もがき苦しんでいる自分がいるのかもしれない。今回の「正信偈」の言葉から、そんなことを考えさせられます。

いかがだったでしょうか。

今回は、「仏縁を喜ぶ」というテーマで、「正信偈」の「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という句の意味について見ていきました。皆様、どのように感じられたでしょうか。また感想もお聞かせください。

次回も「正信偈」の続きを見ていきます。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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