【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

さてこの数回、「正信偈」の「如来所以興出世」から「応信如来如実言」までの四つの句について見ています。前回は、「五濁」という言葉から、現代の私たちに引き寄せて「正信偈」を味わっていきました。

「五濁」とは、末法のような悪世に見られる五つの濁りのことを言います。その五つとは、「劫濁」(こうじょく)、「見濁」(けんじょく)、「煩悩濁」(ぼんのうじょく)、「衆生濁」(しゅじょうじょく)、「命濁」(みょうじょく)の五つです。

前回は、「五濁」の中の「劫濁」と「見濁」について、見ていきました。今回はその続きの「煩悩濁」と「衆生濁」について見ていきたいと思います。それでは、さっそく見ていきましょう。

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◆煩悩濁

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「五濁」の三つの目は、「煩悩濁」(ぼんのうじょく)です。「煩悩濁」とは、煩悩が盛んになることです。

煩悩とは、私たちの身体や心を悩み煩わせるもののことです。煩悩の代表と言えば、貪欲(とんよく)という貪りの心や、瞋恚(しんに)という怒りの心、また愚痴(ぐち)という真理に対する無知などがあります。

煩悩は、108あると言われるように、数多くありますが、その中でも、貪欲、瞋恚、愚痴の三つが煩悩の代表とされ、三毒の煩悩とも言われています。

「煩悩濁」とは、末法の世に生きる人々の貪りの心や、怒りの心が強くなっているように感じられたり、真理への無知が明らかに見られる、そうした傾向や状態のことを言います。

さて、この「煩悩濁」について、少し現代に引き寄せて考えてみましょう。例えば、貪欲という人間の欲の結果として、悪い方向に出ている顕著な例は、地球温暖化などの気候変動ではないでしょうか。

気候変動は、自然による変動もありますが、特に1800年代以降は、人間の活動が気候変動を引き起こしていると言われています。

気候変動の要因となっている温室効果ガスは、人間の活動によって多く排出されています。そしてそれは、人間社会の発展と維持に大きく関わっています。

私たちが使用している電気を発電するために、石油や石炭、天然ガスが多く使われています。石油や石炭、天然ガスを燃やすことで、温室効果ガスが排出されます。

また、製品を生産する際にも、多くの温室効果ガスが排出されています。他にも、移動や製品の輸送などに使用する自動車やトラック、船や飛行機などの多くは、化石燃料が使われ、温室効果ガスを出しています。

温室効果ガスは、地球を毛布のように覆ってしまい、太陽の熱を地球に閉じ込めるそうですね。本来であれば、太陽からの熱は、地球を暖めた後宇宙に放出されます。しかし、その毛布のように覆った温室効果ガスによって、熱が地球に閉じ込められ、気温が上昇し、地球温暖化につながっています。

地球温暖化などの気候変動によって、暴風雨が頻発し、土砂災害や洪水などの被害も増加しています。日本各地でも災害が頻発していますので、気候変動を実感する方も多いのではないでしょうか。

バングラデシュでは、大雨による河川の氾濫により、数百万人規模で被災している状況が伝わってきました。また近年、オーストラリアでおきた大規模な森林火災では、10億以上の動物が亡くなったと言います。コアラやカンガルーの焼け焦げた遺体や、全身に大やけどをおっている姿は、見るに堪えませんでした。

このように、気候変動によって、多くの自然災害や環境破壊、生物種の絶滅や減少などの状況が引き起こされています。そして、この気候変動は、先ほど言ったように、特に1800年代以降は、人間社会の発展と維持するための活動によって、引き起こされたものと言われています。

人間社会を発展させ、維持しようとする原動力の根本には、便利な生活を送りたいという私たちの望みがあります。そういう点で、私たちの欲と、今起きている気候変動との間には、密接な関わりがあります。特に先進国と言われる国々において、温室効果ガスの多くが排出されています。現代の日本に生きる私たちも、他人ごとではないのですね。

とはいえ、人間社会の発展と維持を願い、便利な生活を送りたいと望むことを全て否定することはできません。それを全て否定するのであれば、現代の人間社会に住んでいることと矛盾してしまいます。しかし、気候変動や環境破壊などを引き起こしている状況を考えれば、人間の欲は肥大化し過ぎていると言えるのではないでしょうか。そのことに、私たちはもっと目を向ける必要があると思います。

温室効果ガスをなるべく排出しないことや、生態系になるべく負荷をかけないような技術的工夫も必要でしょう。それと共に、私たち一人ひとりが、「足るを知る」ことも重要ではないでしょうか。

私たちの欲と、気候変動との間には、密接な関わりがある。「煩悩濁」を、現代に引き寄せて考えてみると、このようなことを思わされます。

◆衆生濁

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続いて「五濁」の四つ目は、「衆生濁」(しゅじょうじょく)です。『浄土真宗辞典』によると、「衆生濁」とは、「衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること」とあります。

衆生という言葉は、生きとし生けるものという意味ですが、ここでは人々と訳していいかと思います。そして十悪とは、仏教で悪いとされる10種類の行為のことで、殺生や盗み、不倫、嘘をつくといったことです。

ですので、「衆生濁」とは、末法には、人々の資質が低下している傾向が見られること。そして、その結果として、殺生や盗みといった悪しき行為となって表れていること。そうした内容が、衆生濁ということでしょう。

世のニュースでも、胸が痛くなるような出来事が見受けられます。児童虐待や、通り魔事件、連続強盗事件など、多くの事件の報道を目にします。本当に胸が痛くなるような事件も多いですね。そうしたことを目にすると、今も末法なのだと感じられるかもしれません。

少し補足しておくと、こうした事件は、今だけに関わらず昔からありますね。むしろ、事件の件数としては、ここ数年は減少傾向ですし、凶悪事件も減少しているそうです。ただし、事件が減っているからと言って、今が末法ではないという話でもないのでしょう。心の豊かさや、思いやりに溢れた社会になっているかというと、そうでもないような気がします。

そもそも、末法という考え方は、もっと長い時間軸のことですから、ここ数年、事件が少なくなっているから、今は末法ではないというものでもないのでしょう。さらには、お釈迦様の頃と今とを客観的な事実から比較して、お釈迦様の時が良かった、今が悪いというような種類の話でもないのでしょう。

この末法などの仏教の時代観は、どのように考えればいいのでしょうか。一つは、仏道に励むのに適しているかどうかという観点があります。

仏道に励み、仏道を歩み、仏法に基づいて生活をするという点において、お釈迦様がおられた時は、環境としては素晴らしいものだったでしょう。

直接、お釈迦様に遇った人は、お釈迦様の考え方や言動、生き様、日々の過ごし方などを、眼のあたりにすることができました。この人生をどのように生きていくと良いのか。その模範となる方が、間近にいたわけですね。

分からないことがあれば、お釈迦様にたずねることもできました。お釈迦様の教えに基づいて生活をする、サンガという仏弟子の集まりもありました。そうした環境は、仏道に励む上で素晴らしいものだったのではないでしょうか。私たちも、何かに打ち込む時に、環境って大事ですよね。

お釈迦様が入滅された後、有力弟子も徐々に亡くなり、正しく教えを実践するものがいなくなり、さとりをひらくものもいなくなる。教えだけがのこっても、それをどのように実践すれば良いのか、どうしたらさとりをひらくことができるのか。そうしたものが段々と分からなくなっていきます。

このように、仏道に励むのに適しているかという点からすれば、お釈迦様がおられた頃を良い時代とし、徐々に乱れ、実践するものがいなくなっていく、さとりをひらくものがいなくなっていく。そのような時代観は、自然な見方のように思われます。

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お釈迦様が入滅されてから、時代を経るごとに、時代は乱れ、濁りに満ちていくという仏教の歴史観、時代観があります。それは、時代を主に三つに区分する、三時という考え方でした。その三つとは、正法、像法、末法でした。三時の時代区分のうちの末の世を、末法と言います。

末法には、お釈迦様の説かれた教え(教)だけがのこり、正しい教えの実践法(行)や、それによってさとりをひらく人(証)もない時代のことでした。

親鸞聖人が生きた平安時代末期から、鎌倉時代は、既に末法に入り、末法の真っただ中であったとされています。そして現代も、仏教の時代観で言えば末法です。

親鸞聖人は、比叡山にて、仏道修行に励まれましたが、いっこうに迷いや苦しみから抜け出せない、さとりをひらくことができないことに悩まれます。それは末法だったからだという、気付きもあられたことではないでしょうか。

親鸞聖人のつくられた和讃といううたには、このように記されています。

末法五濁の有情の 行証かなはぬときなれば
釈迦の遺法(ゆいほう)ことごとく 竜宮(りゅうぐ)にいりたまひにき

(『正像末和讃』/親鸞聖人)

末法は、五濁という乱れや濁りに満ちており、その時代を生きる人々には、正しい仏道修行に励むことも、さとりをひらくことも難しい時代です。たとえお釈迦様の教えがのこっていようとも、全て海の底の宮殿に隠されてしまうように、さとりをひらくことにつながらないのです。

そのように、親鸞聖人は記されています。

また、このような和讃も記されています。

釈迦の教法ましませど 修すべき有情のなきゆゑに
さとりうるもの末法に 一人(いちにん)もあらじとときたまふ

(『正像末和讃』/親鸞聖人)

お釈迦様の教えはのこっていますが、正しく修することのできるものがいません。そのため末法には、さとりをひらくことができる人は一人もいないと説かれています。

仏道修行に励もうとも、いっこうに迷いや苦しみから抜け出せない、さとりをひらくことができない。そうした苦悩の中で、それは末法だったからだという気付きが、親鸞聖人にはあられたのかもしれません。

さらに親鸞聖人は、仏道に励む中で、自分自身の煩悩とも向き合ったことでしょう。欲や怒りといった煩悩を抱えた自分は、迷いや苦しみから抜け出し、さとりをひらくことができないのではないかという、自分自身の問題にも直面したのではないでしょうか。

親鸞聖人の和讃には、このように記されています。

悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる

(『正像末和讃』/親鸞聖人)

悪い性質とはなかなか直らないものです。心は蛇やさそりのようです。善をおこなおうとしてみても、その心には毒である煩悩が混じっているので、偽りの行となってしまい、さとることはできないのです。

親鸞聖人は、自らの煩悩を、蛇やさそりのもつ毒にたとえています。毒のような煩悩を抱えたままでは、仏道に励もうとも、悩み苦しみから抜け出せず、さとりをひらくことができない。そんな煩悩を抱える自分自身にも、親鸞聖人は悩まれたのではないでしょうか。

これらの和讃は、親鸞聖人の晩年に書かれたものですが、比叡山での仏道修行に励んだ若い頃にも、そうした悩みを抱えていたことが想像されます。

「煩悩濁」や「衆生濁」に示される煩悩を抱え、状況によっては十悪などの悪しき行為をもしてしまうかもしれない自分である。そのように、親鸞聖人は、「五濁」を自分のこととして、捉えていたのではないでしょうか。

そして、そんな自分が迷いや苦しみから抜け出す道があるのだろうかと悩み求めた末に、法然聖人のもとでお念仏の教えに出遇います。

そのお念仏の教えとは、自分のような煩悩を抱え、自らの力ではさとりをひらきようのないもののためにあった教えだった。救われがたいものを救おうとされていたのが、阿弥陀仏という仏様だった。親鸞聖人は、そのようにしてお念仏の教えを依りどころとされていったのでした。

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「正信偈」には、「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という言葉が出てきます。

末法という濁りに満ち、乱れ切った時代を生きる人々は、お釈迦様がお勧めくださるお念仏の教えを信じ、依りどころとするべきです。そのような意味の言葉でした。

「煩悩濁」のように、煩悩が盛んであり、「衆生濁」のように、状況によっては十悪という悪しき行為をしてしまう。そのような末法を生きる私たちが仏道を歩むには、阿弥陀仏の救いが説かれた、お念仏の教えをたよりとしてほしい。そのような親鸞聖人の思いがこめられているのが、「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という言葉ではないでしょうか。

いかがだったでしょうか。今回は、「五濁」の「煩悩濁」と「衆生濁」から、現代の私たちにも引き寄せて「正信偈」を味わっていきました。皆様どのようなことを感じられたでしょうか。

次回も続きを見ていきたいと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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