こちらでは、仏教書の「正信偈」をなるべく分かりやすく味わい、読み進めていきます。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。

「正信偈を学ぶ」シリーズ、18回目の今回は、無礙光という無明の闇を照らす光について見ていきます。

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◆十二光

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さて数回にわたって、十二光について見ています。十二光とは、浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏のもつ光のお徳を十二種に分けて讃えたものです。十二種にも分けて光のお徳を讃えられているのは、阿弥陀仏とは、様々なお徳をもった仏様であるということを、色々な角度から言葉を尽くして表現をしようとしたものです。ですので、十二光とはどういうものかを見ていくと、阿弥陀仏とはどういったお徳をもった仏様であるのかが分かってきます。

前回まで、無量光、無辺光について見てきました。今回は三つ目の無礙光(何ものにもさえぎられることのない光)について見ていきたいと思います。

◆正信偈の偈文(げもん)

では、今回見ていく「正信偈」の本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
普放無量無辺光 無礙無対光炎王
(ふほうむりょうむへんこう むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
(しょうじょうかんぎちえこう ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
(ちょうにちがっこうしょうじんせつ いっさいぐんじょうむこうしょう)

次に書き下し文です。

【書き下し文】
あまねく無量・無辺光、無礙(むげ)・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照を蒙(かぶ)る。

次に意訳です。

【意訳】
阿弥陀仏の放つ光のお徳について、お釈迦様は十二種に分けてほめ讃えておられます。無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光のことです。
阿弥陀仏の放つ光は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけています。

◆無礙光

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さて無礙光とは、何ものにもさえぎられることのない光のことです。無礙の礙とは、さわり、障がいとなるものという意味です。ここでは無礙ですから、さわりになるものがない、障がいとなるものがないということです。

つまり、無礙光で、何ものにもさえぎられることのない光という意味になります。無礙光ということで何を表しているかというと、阿弥陀仏の救いとは、いかなるものにもさえぎられることがないことを表しています。

前回のご紹介した無辺光とは、際や境目がなく、どこまでも照らしていく、いきわたらないところのない光のことでした。しかし、光がどこまでもいきわたったとしても、光が照らす途中に物があれば、光と逆側には影ができます。

例えば、建物が立っていれば、その建物の向こう側には影ができます。このように、光が照らす途中に何か障がい物があれば、光に照らされない部分や、影となる部分が出てくるわけですね。

無礙光とは、たとえ光が照らすその途中に障がい物があっても、それにさえぎられることがなく照らしていくような光、影をつくらないような光のことです。ですので十二光には、無辺光と合わせて無礙光が説いてあるように思います。

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つまり、無辺光という光で、どこまでも照らす光のお徳を表し、無礙光という光で、さえぎるもの、障がいとなるようなものがあっても、そこをも照らしていくという光のお徳が表されています。

これは、阿弥陀仏の救いとは、無辺光のように、どのようなものも救いの対象としながら、無礙光のように、救われ難いものをも救っていくことを表しているかと思います。

◆救われ難いものをも救う

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親鸞聖人は、無礙という言葉について、このように示されています。

「無礙といふは、さはることなしとなり。さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり」(『尊号真像銘文』)

この言葉を意訳すると、このような意味になります。

無礙とは、障がいとなることがないということです。障がいとなることがないということは、阿弥陀仏があらゆるものを救いとげることに、そのものたちの煩悩や悪しき行為が障がいとはならないということです。

世の中でも仏教でも、基本的には善因善果です。善いことをすれば善い結果となり、悪いことをすれば悪い結果となる。これが基本です。

ですから、阿弥陀仏に救われることにおいても、普通に考えれば、善い行為を重ねていくことで救われ、悪い行為というのは救いからもれる、救いの障がいとなるはずです。

しかし、阿弥陀仏の救いとは、あらゆるものを救いの対象とし、煩悩や悪しき行為も障がいとはならない。そのようなことが、この親鸞聖人の言葉から伺えます。

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阿弥陀仏の救いとは、無辺光のように、どのようなものも救いの対象としながら、無礙光のように、救われ難いものをも救う。そして、加えて言うならば、無量光のように、過去現在未来の三世にわたり、ずっと救おうとはたらきかけ続けておられる。

阿弥陀仏とは、そういう仏様でありますよということを、無量光、無辺光、無礙光という言葉で表されているかと思います。

◆煩悩悪業の自覚

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そして親鸞聖人は、救われ難いものをも救おうとする阿弥陀仏のことを、何よりたのもしく、ありがたく思われたのでした。それは、自分自身は救われ難いものだという深い自覚があったからです。

救われ難いものとはどういうものかというと、先ほどの親鸞聖人の言葉では、煩悩悪業という言葉で押えてありました。

煩悩を多く抱えているものや、悪業という悪しき行為をするもの。そうした煩悩悪業のものは、本来は救われ難いものでしょう。親鸞聖人は自分自身を、そういう煩悩悪業のものと自覚されていたからこそ、そんな救われ難いものをも救おうとする阿弥陀仏のことが、何よりたのもしく、ありがたく思われたわけですね。

もし自分が煩悩を抱えていることや、悪しき行為をしていることを、特に問題と感じないのであれば、煩悩悪業のものをも救うと言われたとしても、たのもしいとも、ありがたいとも思わないでしょう。この煩悩悪業について、少し我々に引き寄せて考えてみましょう。

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煩悩とは、心身を煩わせ悩ませるものの総称ですが、代表的なものでいえば、自分中心の欲があります。自分中心の欲は、それが行き過ぎると周りのものを傷付けます。

例えば、人間が暮らしやすいようにと発展してきた現代社会は、地球環境を傷付け、多くの生物を絶滅に追い込んでいます。地球温暖化は進み、生物の多様性が損なわれ、文明の崩壊を招きつつあるとも言われています。行き過ぎた自分中心の欲が、自分たち中心の欲が、周りのものを傷付け、自分たち自身にも跳ね返ってきているわけです。

現代文明、資本主義社会の中で生きる我々は、生きているだけで、生活しているだけで、多くのものを傷付けながら生きています。そう考えてみると、自分は悪いことはしていないとは、中々言えないですね。我々は多かれ少なかれ、煩悩という自分中心、自分たち中心の欲を抱え、悪しき行為を重ねながら生きています。

◆無明の闇を除く

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生まれてきただけで、生きているだけで、何かしらを犠牲にして生きている我々です。生きていくとはそういう側面があります。それはある意味、仕方のないことですが、仕方ないと居直って終わりとしないところに、仏法を学んでいく意味があると思います。

仏様の光に照らされるとは、自分中心の生き方、あり方に気付かされていくということです。そして、そうした自分中心、自分たち中心の生き方、あり方を悲しみ、より良くあろうと転ぜられていく。そうした気付きと、人生観の転換がもたらされることが、仏法に出遇い、仏様の光に照らされるということでしょう。

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無自覚のままに、罪や悪を重ねながら、他者を傷付け生きている。そんなあり方を無明といい、煩悩の一つとされています。

中国の曇鸞大師というお坊さんは、「阿弥陀仏の光明は、無明の闇を除く」と示されました。

無自覚のままに、罪や悪を重ねながら、他者を傷付け生きている。そんな無明の生き方、あり方をしていることに気付かせていくのが、阿弥陀仏の光明のはたらきです。

◆罪悪が功徳に転じていく

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親鸞聖人の和讃には、このようなうたがあります。

無礙光の利益より 威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる
(『高僧和讃』曇鸞讃)

阿弥陀仏の無礙光の利益によって、すぐれた徳をそなえた広大なる信心をえて、かならず煩悩の氷はとけ、菩提というさとりの水となっていくのです。

無礙光の利益、阿弥陀仏の救いとは、煩悩の氷をとかし、仏のさとりへといざなっていくものですよということが示されています。

無自覚のままに、罪や悪を重ねながら、他者を傷付け生きている。そんな我々の煩悩の氷をとかし、より良いあり方へと転じていく。そういうはたらきが、無礙光の利益として示されています。

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そしてまた、その次の和讃に、親鸞聖人はこのような言葉を記されています。

罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし
(『高僧和讃』曇鸞讃)

阿弥陀仏の救い(無礙光)のはたらきによって、罪や障りが功徳へと転ぜられていきます。それはまるで、氷と水の関係のようです。氷が多ければ水が多くなるように、多くの罪や障りが転じて、多くの功徳となっていくのです。

無礙光のはたらきによって、罪や悪の自覚が縁となって、それが功徳となっていくことが示されています。

我々は、自分の言動が周囲にどういう影響を与えているかということを見つめることがなければ、罪や悪を自覚しづらいものでしょう。自分は悪いことはしていない。自分は間違っていない。そういう生き方になっていたかもしれません。

しかし、先ほどの話のように、現代文明、資本主義社会の中で生きる我々は、生きているだけで、多くのものを傷付けています。我々の生活とは、多くの犠牲の上に成り立っているものです。

そうしたことを思う時に、自分は悪いことをしていないとか、自分は間違っていないとか、簡単には言えないと思うんですね。罪や悪を重ねながら、他者を傷付け生きている。しかもそれを、無自覚でおこなっている。

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仏法を聞き、仏様の光に照らされていく中で、そうした自分中心の生き方をしていることに気付かされていきます。

それと同時に、多くの恵みによって生かされているという縁にも気付かされ、感謝や深い喜びも育まれていきます。多くのいのちをいただきながら、多くのものを受け継ぎながら生かされている我々です。

氷が多ければ水も多くなるように、罪や悪への深い自覚が転じて、生かされていることに気付かされ、感謝や深い喜びも育まれていく。煩悩や罪悪が功徳ともなっていく。

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無礙といふは、さはることなしとなり。さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。

無礙ということは、障がいとなることがないということです。障がいとなることがないということは、阿弥陀仏があらゆるものを救いとげることに、そのものたちの煩悩や悪しき行為が障がいとはならないということです。

無礙光とはそうした、何ものにもさえぎられることのない光であり、阿弥陀仏の救いは、煩悩や悪しき行為が障がいとはならない。

氷が多ければ水も多くなるように、罪や悪への深い自覚が転じて、生かされていることに気付かされ、感謝や深い喜びが育まれていく。

無礙光の光で、我々の煩悩や罪悪を照らし、功徳として転じてくださる。我々の煩悩や罪悪を、救いの障がいとせず、煩悩や罪悪を抱えながらしか生きていけない我々を見て、救おうとはたらきかけられている。

阿弥陀仏という仏様とは、そういう仏様ですよということが無礙光という言葉に込められているかと思います。

いかがだったでしょうか。今回は、十二光の無礙光について見ていきました。次回も、十二光の続きを見ていきたいと思います。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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