浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信偈」を、なるべく分かりやすく読み進めています。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。
「正信偈を学ぶ」シリーズ、第21回目の今回は、煩悩を洗い流す清浄光(清らかな光)について見ていきます。
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さて数回にわたって、十二光について見ています。十二光とは、浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏のもつ光のお徳を十二種に分けて讃えたものです。
十二種にも分けて光のお徳を讃えられているのは、阿弥陀仏とは、様々なお徳をもった仏様であるということを、色々な角度から言葉を尽くして表現をしようとしたものです。ですので、十二光とはどういうものかを見ていくと、阿弥陀仏とはどういったお徳をもった仏様であるのかが分かってきます。
前回まで、無量光から5番目の炎王光まで見てきました。今回は、6番目の清浄光(清らかな光)について、見ていきたいと思います。
では、今回見ていく「正信偈」の本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。
【本文】
普放無量無辺光 無礙無対光炎王
(ふほうむりょうむへんこう むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
(しょうじょうかんぎちえこう ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
(ちょうにちがっこうしょうじんせつ いっさいぐんじょうむこうしょう)
次に書き下し文です。
【書き下し文】
あまねく無量・無辺光、無礙(むげ)・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照を蒙(かぶ)る。
次に意訳です。
【意訳】
阿弥陀仏の放つ光のお徳について、お釈迦様は十二種に分けてほめ讃えておられます。無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光のことです。
阿弥陀仏の放つ光は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけています。
清浄光とは、清らかな光のことです。前回ご紹介した炎王光は、我々が抱える煩悩や罪悪を焼き尽くし、消滅させる光のことでした。今回の清浄光は、我々が抱える煩悩や罪悪を洗い流し、清らかにする光のことです。
清浄光は、阿弥陀仏とは、煩悩や罪悪を洗い流し、清らかにするようなはたらきやお徳をもった仏様であることが表現されています。
今出てきた煩悩とは、我々の悩み苦しみの原因となっているものです。
たとえば、我々は自分の好きな人やモノに対しては、手に入れたいとか、もっと欲しいと思います。これは煩悩の一つで、貪欲という貪りの心のはたらきです。
逆に、嫌いな人やモノに対しては、近づいてほしくないとか、遠ざけたいと思いませんか。これも煩悩の一つで、瞋恚という怒りの心のはたらきです。
また、こうした煩悩のはたらきについて気付かず、煩悩によって悩みや苦しみがうまれていると知らないことを、愚痴(無明)と言います。愚痴(無明)は、真理に対する無知と言われます。
この貪欲、瞋恚、愚痴のことを、煩悩の代表として三毒の煩悩と言っています。
清浄光という光は、こうした三毒の煩悩に代表されるような煩悩を洗い流し、清らかにする光だと言います。阿弥陀仏の放つ光明は、我々が抱えた煩悩を照らし出し、清らかにするはたらきがあることを表しています。
煩悩を照らし出し、清らかにするとは、具体的には、こうした仏法に出遇い、聞き、学んでいくことで、自分の中にある煩悩のはたらきに気付かされていくということでしょう。
自分の好むものは近づけようと思い、嫌いなものは遠ざけようと思う。自分を中心にして好き嫌いや、良し悪しを判断し、自分の正義や価値観を主張して相手を傷付け、逆に主張されて傷付けられている。
こうした煩悩が、我々や周囲の方々の悩み苦しみの原因となっていることに気付かされていく。そして、そんなあり方を省みるようになり、我々自身のあり方や、周囲との関係性をみなおしていく。
阿弥陀仏という仏様は、奪い合い、憎しみ合いの生き方から、自他ともに心豊かに生きていくような生き方、あり方を志してほしいと喚びかけてくださっている。清浄光という、我々が抱える煩悩や罪悪を洗い流し、清らかにする光ということから、阿弥陀仏の智慧と慈悲を感じます。
しかしとはいえ、そう一朝一夕にいかないのも人間かもしれません。煩悩は、生存欲求でもあり、我が身を守る防衛本能でもあります。
もし自分や自分が大切にしているものが奪われたり、傷つけられようとしたら、必死でそれを守り、阻止しようとするでしょう。どうしてもやりたくない仕事が回ってきたら、できるだけ回避したいと思うかもしれませんし、嫌いな人はいつまでたっても好きにはなれないかもしれません。これらも、煩悩のはたらきです。
自分が好むものは近づけ、大切にしようとし、嫌いなものはできるだけ遠ざけようとする。煩悩は中々切っても切り離せない、なくそうにもなくせないものでもあります。
よく紹介する言葉ですが、親鸞聖人の著書に、このような言葉があります。
無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
(『一念多念文意』/親鸞聖人)
無明の煩悩は、この身にみちみちて、欲や怒り、腹立ち、そねみ、妬むといった心が多く、常におこり、いのち終えるその時までとどまることなく、消えることなく、たえることがない。
この言葉は、親鸞聖人が自分自身のありようを告白した言葉として、また人間の根源的なありようが示された言葉として受けとめられています。
自分の奥底、人間の奥底まで見つめてみたら、煩悩だらけだった。そしてその煩悩は、いのち終えるその時までとどまることなく、消えることなく、たえることがない。この言葉から、煩悩の根深さを思わされます。
そして罪悪という罪や悪も、そう簡単に消えるものではありません。では、炎王光や清浄光という光で、煩悩や罪悪が焼き尽くされたり、洗い流されたりして、消滅すると表現されているのは、いったいどういうことでしょうか。
煩悩や罪悪が消滅するとは、根本的に言えば、我々がこの世でのいのちが尽きた時に、煩悩や罪悪を滅した仏のさとりをひらくということが表されています。
この世では、いのち終えるまで、煩悩も罪悪も中々なくなりようがない。しかし、この世でのいのち尽きた後に、仏として新たないのちをいただいていく。その仏とは、煩悩や罪悪を滅した、清浄で慈悲深い存在です。
仏やさとりと言われても中々分かりづらいですし、難しいですね。仏やさとりについては、正信偈の別の機会に詳しくお話をさせていただきたいと思います。
今回のところでは、炎王光や清浄光という光で、煩悩や罪悪が焼き尽くされたり、洗い流されたりして、消滅すると表現されているのはどういうことかというと、根本的に言えば、我々がこの世でのいのちが尽きた時に、煩悩や罪悪を滅した仏のさとりをひらくということが表されている。そう思っていただいたら結構かと思います。
しかしでは、阿弥陀仏の光明に照らされているのは、我々のいのち尽きた後のためだけのことなのでしょうか。そんなことはないでしょう。
繰り返しになりますが、阿弥陀仏の光明に照らされるとは、具体的には仏法に出遇い、聞き、学んでいくことで、自分の中にある煩悩のはたらきに気付かされていくことです。それは、煩悩が我々や周囲の方々の悩み苦しみの原因となっていることに気付かされていくことでもあります。
阿弥陀仏という仏様は、奪い合い、憎しみ合いの生き方から、自他ともに心豊かに生きていくような生き方、あり方を志してほしいと喚びかけてくださっている仏様です。しかし、煩悩は生存欲求でもあり、我が身を守る防衛本能でもあります。
自分が好むものは近づけ、大切にしようとし、嫌いなものはできるだけ遠ざけようとする。煩悩は中々切っても切り離せない、なくそうにもなくせないものでもあります。
しかし、だからといって、煩悩があるからしょうがないと居直るのではなく、煩悩によって自分中心のあり方、生き方をせざるを得ないことに恥じ、慚愧し、内省していく。
煩悩は中々なくせないのだけれども、煩悩によって人を傷付け、自分を傷付け、悩み苦しみの原因となっている。そのことに気づき、少しでもより良くあろうと、我々自身のあり方や、生き方、周囲との関係性をみなおしていく。
自分の価値観や見方を絶対視せず、それに捉われがちだと意識して、自らのあり方や生き方を省みていく。こうした自分自身の言動をみつめる姿勢は、良き人間関係や組織や社会をつくっていくにあたり、とても重要な視点でしょう。
そしてまた、自分中心の我々であると内省することは大切ですが、自分の存在を卑下したり、否定するような話ではありません。
阿弥陀仏の慈悲の光は、そんな我々を照らし、温かく、優しく包んでくださっています。そうした阿弥陀仏の光明のはたらきやお徳が、この十二光で示されているかと思います。
今回は、十二光の中の清浄光についてお話させていただきました。次回は、続きをお話したいと思います。
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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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