「仏教に触れていて良かった」と私なりに思うのは、「仏教によって自分自身の言動を振り返る機会をいただいていること」です。

そこで今回は、「仏教を学ぶ良さ」というテーマで、感じていることを共有させていただき、ご一緒に味わわせていただきたいと思います。

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◆仏教は心の鏡

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さて、仏教は「心の鏡」だと、言われることがあります。

仏教には、自分自身の言動を振り返るような「心の鏡」としての意味があると言われるのですね。

浄土真宗の宗祖は親鸞聖人ですが、その親鸞聖人が尊敬された中国のお坊さんに、善導大師(ぜんどうだいし)という方がおられます。

その善導大師は、書物の中で、このようなことを言われています。

経教(きょうきょう)はこれを喩ふるに鏡のごとし。

(『観経疏』「序分義」/善導大師)

お経に説かれる教えは、例えれば鏡のようなものです。

この言葉のように、仏教は「心の鏡」だと言われることがあるのですね。

私たちは日頃、鏡で外見を確認することはありますよね。

「髪型がおかしくなっていないかな」とか、「服装がおかしくないかな」というように、外見を確認したり、整えるために鏡を見ますよね。

しかし、外見を整えるほどに、自分の言動を振り返っているかというと、そこまではしていないかもしれませんね。

ただし、心で思っていることは、結構外見に出ます。

怒っていれば、しかめ面になりますし、良い気持ちであれば、自然と顔がほころびます。

その人の内面の優しさが顔に滲み出ているような方もおられますね。

そのように、心の内面は結構外見に出るということがあります。

だとすると、鏡で外見を整えるだけではなく、心の鏡で自分自身の言動を振り返るということも大事なことではないでしょうか。

その自分自身の言動を振り返るための「心の鏡」が、仏教だと言われるのですね。

つまり、仏教を聞いたり、触れたり、学ぶことは、自分自身の言動を振り返るという意味があります。

そして、親鸞聖人もまた、仏様の教えに触れて、自分自身の姿が見えてきたそうです。

では、親鸞聖人が見えてきた自分自身の姿とは、どのようなものだったのでしょうか。

◆煩悩具足

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親鸞聖人は、仏様の教えによって見えてきた自分自身の姿を、「煩悩具足」という言葉で表現されています。

「煩悩」とは、「あらゆるものを自分中心に見て、考えてしまう習性」のことで、「具足」とは、そうした性質をそなえていることを言います。

親鸞聖人は、仏様の教えに触れる中で、あらゆるものを自分中心に見て、考えてしまっている自分自身の姿に気付かされたのでしょうね。

ご自身のことを、「煩悩具足」と表現されています。

ちょっと考えてみたいのですが、私たちは「あの人は善い人だ」とか、「この人は悪い人だ」と思うことがあります。

この時私たちは、何を基準にして善い悪いを決めているのでしょうか。

多くの場合、自分にとって善いか悪いかで、決めているのではないでしょうか。

例えば、自分と意見や価値観が合ったり、同意してくれる人のことを、善い人と思うことはないでしょうか。

また逆に、自分と意見や価値観が合わない人のことを、悪い人と思うことはないでしょうか。

私たちの日常を振り返ってみると、色々なことを自分にとって善いか悪いかと考えていることに気付かされます。

親鸞聖人は、仏様の教えに触れる中で、「あらゆるものを自分中心に見て、考えてしまう習性」を自分はもっていることに、気付かされたのでしょうね。

だからこそ、自分のことを「煩悩具足」と表現されたのでしょう。

そして同時に、親鸞聖人はこんな問いも持たれたのではないでしょうか。

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自分が思う善とは、本当に善なのだろうか。

私たちは、善かれと思ってしたことが、相手のためになっていないことがあります。

それは、自分が善いと思っていることと、相手が善いと思っていることが違うからですね。

「あらゆるものを自分中心に見て、考えてしまう習性」をもつ私が思う善とは、本当に善と言えるのだろうか。

親鸞聖人は、そんな問いを持たれたのかもしれません。

親鸞聖人の言葉が記されているとされる『歎異抄』という書物には、このような言葉が記されています。

善悪のふたつ、総じてもつて存知(ぞんじ)せざるなり。

(『歎異抄』「後序」)

私親鸞は、善悪の二つについて、全く分かりません。

皆様、この言葉を聞いてどう思われるでしょうか。

仏教を学べば、何が善いのか、何が悪いのかについて、よく分かるようになると思われませんか。

しかし、親鸞聖人は、そのようには言われなかったのですね。

それは、仏様の教えに触れる中で、「あらゆるものを自分中心に見て、考えてしまう習性」を自分はもっていることに気付かされたからではないでしょうか。

そして、自分が思う善とは、本当に善なのだろうか。自分が考える善とは、自分にとっての善であって、必ずしも相手にとっての善ではないのではないか。

そんなことを思われたのではないでしょうか。

私たちの考える善悪や常識とは、不確かなものであるということが言えそうです。

しかし、そうであるにも関わらず、私たちは「自分が正しい」「相手が間違っている」と思ってしまう性質ももっています。

◆私はセトモノ

相田みつをさんの詩に、このような詩があります。

セトモノとセトモノと
ぶつかりッこすると すぐこわれちゃう
どっちかやわらかければ だいじょうぶ
やわらかいこころを もちましょう
そういうわたしは いつもセトモノ

瀬戸物とは、もともと愛知県瀬戸市を中心につくられている陶磁器(器)のことを言うそうですね。

それが転じて、陶磁器全般のことを、瀬戸物と言われるようになったそうです。

ここでのセトモノとは、固い器のことでしょうね。

固い器と固い器がぶつかれば、ひびが入ったり、割れたりして壊れてしまいます。

しかし、一方がスポンジのように柔らかければ、固い器も割れません。

この詩は、人間関係を器に例えたものでしょうね。

そしてセトモノ、固い器とは、自分の意見に固執した頑固者のことを言うのでしょう。

「自分が正しい」「相手が間違っている」と、自分の正義を主張する人のことを、セトモノと言っているのでしょうね。

それはまさに、「あらゆるものを自分中心に見て、考えてしまう習性」をもった「煩悩具足」の人のことです。

そしてこの詩では、「わたしはいつもセトモノ」だと、おさえてあります。

単に、「セトモノとセトモノだったら、割れてしまうから、スポンジのようにやわらかい心をもちましょう」というところで終わっていないのですね。

「そういうわたしはいつもセトモノ」であった。「自分が正しい」「相手が間違っている」と主張してしまう自分であった。

そのように、自分自身の言動を振り返り、見つめ直すということが、とても大事だと思います。

◆ともに凡夫

親鸞聖人は、聖徳太子をとても尊敬しておられます。

その聖徳太子がつくられたと言われる「憲法十七条」には、このような言葉があります。

われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。

「憲法十七条」

私が必ず聖者なのではありません。彼が必ず愚かなのではありません。私たちはともに、凡夫にすぎないのです。

私が必ずしも正しいとは限らない。相手が必ずしも間違っているとも限らない。ともに間違いもする人間同士である。

こういう姿勢で相手に向き合えると、そうでない場合よりも、相手に対する接し方や人間関係が柔らかなものになるではないでしょうか。

そして、自分に対しても「自分は間違っていなかっただろうか」と、自分自身の言動を振り返る機会となり、謙虚な姿勢も生まれてくるのではないでしょうか。

このように、「仏教を学ぶ良さ」は、「自分自身の言動を振り返る機会をいただくこと」だと、私は思います。

いかがだったでしょうか。

今回は、「仏教を学ぶ良さ」というテーマで、感じていることを共有させていただきました。

皆様、どのようなことを感じられたでしょうか。また是非、感想などもお聞かせください。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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