時代を超え、多くの人を魅了してきた仏教書『歎異抄』。稀代の宗教家、思想家と言われる親鸞聖人の、人間や世の中の本質を突いた逆説的な言葉の数々が、現代の私たちの常識や価値観が揺さぶられるような感覚を覚える書物です。

信行寺で開催している「真宗講座」では、その『歎異抄』を読み進めながら、人生の意味を味わい、生きる喜びや感謝の心を深めています。

今回は、『歎異抄』第十条を拝読しました。その時の内容を、文章と動画でご覧いただけるように致しましたので、ご関心がある方はご覧くださいませ。

▼動画でもご覧いただけます

皆様、ようこそお参りくださいました。「真宗講座」第三十三回目になりますね。足かけ8年目ですかね。『歎異抄』を読み進めております。

『歎異抄』には、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のお言葉が記されていると言われます。『歎異抄』の著者は、所説ありますが、唯円房と言う方ではないかと言われています。

親鸞聖人の側におられた唯円房が、親鸞聖人のお言葉を聞いておられ、耳の底に残って忘れられないでいるお言葉のいくつかを、特に『歎異抄』の前半部分に記されているとされます。

親鸞聖人がご往生された後に、お念仏の教えが異なって伝わっていることを歎き、筆をとって記されたものだと言われます。教えが異なって伝わっていることを歎き記された書物ということで、『歎異抄』という名がつけられています。

『歎異抄』に出てくる親鸞聖人のお言葉は、常識をゆさぶるような鋭い逆説的な言葉が記されています。読む人は、親鸞聖人の仏法の深い解釈に驚き、同時に感動を覚えるような書物でもあります。『歎異抄』は読んでいくと、人生観や価値観が深まるような書物だと言われます。

この「真宗講座」では、『歎異抄』「人生を考える」という、かなり大げさな名前をつけておりますが、それくらい『歎異抄』という書物は、とても深い内容の書物なのですね。

その『歎異抄』を皆様と共に読み進めながら、それぞれに人生について考えたり、生きる喜びや感謝の心を深めるような時間としていただければ幸いです。

さて、前回は『歎異抄』の第十条を読み進めていました。「他力の念仏には、義なきを義とす」という、何とも奥深い言葉が記されていました。

今回も、その第十条の内容を味わいつつ、「人生の意味」についても、考えていきたいと思います。

ではまず、『歎異抄』第十条の本分と意訳を、ご一緒に拝読をさせていただきましょう。

◆『歎異抄』第十条

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【本文】
念仏には無義をもつて義とす。
不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

【意訳】
他力の念仏においては、自力のはからいをまじえないことを本義とします。
なぜなら、他力の念仏とは、我々のはからいを超えたものであり、説き尽くすことも、心で思いはかることもできないからです。そのように、親鸞聖人は仰せになりました。

◆自力のはからいとは

さて、『歎異抄』第十条には、「念仏には無義をもつて義とす」という言葉があります。意訳すると「他力の念仏においては、自力のはからいをまじえないことを本義とする」という意味の言葉です。

ここにある、「自力のはからい」とは、どういうことでしょうか。まずは、「自力のはからい」という言葉について見ていきましょう。

自力とは、一般的な意味では、「自らの力」のことですよね。「自力で問題を解く」というように、「自らの力」という意味で使われます。

ですが仏教用語では、自力とは「自らの力で修めた功徳によって、仏の浄土へと往き生まれようとしたり、仏のさとりをひらこうとすること」だと言われます。

そのように、「自らの力で修めた功徳によって、仏の浄土へと往き生まれようとしたり、仏のさとりをひらこうとすること」を、「自力のはからい」とも言っているのですね。

同じ自らの力という意味でも、仏教用語と一般用語では、目的とするところが違うのですね。

仏教用語での自力とは、その目的とするところは、今言ったように、「仏の浄土へ往き生まれることや、仏のさとりをひらくこと」だとされます。

宗派によっても、自力という言葉の意味やニュアンスは違いますが、浄土真宗においては、主に「自らの力で修めた功徳によって、仏の浄土へと往き生まれようとする」ことという意味があります。

浄土とは仏の国のことで、浄土真宗においては、特に阿弥陀仏という仏様の国のことを言います。浄土という言葉のように、清らかなところだと経典には出てきます。

自力のはからいとは、そのように「自らの身や心を励まして、自らの力で修めた功徳や善根によって、仏の浄土へと往き生まれようとすること」だとされます。

そして、親鸞聖人は自分自身に対して、自らの力で修めた功徳や善根によって、仏の浄土へと往き生まれることは難しいと思われた方でした。

◆虚仮の行

自分自身の奥底を見つめてみると、煩悩という自分本位な思いがあり、様々な行動をする時にも、欲などの自分本位の思いが混じってしまう。功徳や善根につながるような修行をしようとも、どうしても煩悩という毒がまじってしまう。

親鸞聖人は、そんな自分の行(行為)とは、虚仮(嘘偽り)の行だと言われました。親鸞聖人のつくられた和讃といううたの中に、このような言葉があります。

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【本文】
悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

(『正像末和讃』「悲歎述懐讃」/親鸞聖人)

【意訳】
悪い本性はなかなか変わらず、心は蛇やさそりのようです。どんな善行を修めても、煩悩の毒がまじっているので、嘘偽りの行と言うのです。

この和讃にあるように、親鸞聖人は功徳や善根につながるような修行をしようとも、どうしても煩悩という毒がまじってしまう。そんな自分の行(行為)を、虚仮(嘘偽り)の行だと言われたのですね。

自らの奥底を見つめ、自らが煩悩を抱えた凡夫であると自覚された親鸞聖人は、そんな自らがおこなう行は、煩悩がまじった嘘偽りの行であり、そんな自力の行では、仏の浄土へ往き生まれることも、仏のさとりをひらくこともかなわない。そのように受けとめていかれました。

しかし、親鸞聖人がそのように言い切ることができたのも、他力の教え、お念仏の教えに出遇っていたからでした。

浄土宗という宗派をひらいた、法然聖人という方に出遇い、法然聖人から他力の教え、お念仏の教えを伺うにつれ、この凡夫である自分も、阿弥陀仏によって救われ、浄土へと往き生まれさせていただける。そのような温もりの中にあったからこそ、自分自身が煩悩を抱えているという事実を深く直視することもできたのではないでしょうか。

◆他力とは

さて、他力という言葉についても見てみましょう。

他力とは、一般用語では「他人の力」という意味で用いられ、他人まかせというような後ろ向きなイメージのある言葉ではないでしょうか。

ですが、浄土真宗における仏教用語では、他力とは「阿弥陀仏の救いの力、はたらきのこと」を言います。

他力という阿弥陀仏の救いの力、はたらきによって、浄土へと往き生まれ、安らかな仏のさとりをひらく。仏のさとりをひらいたら、悩み苦しむものを救い導くはたらきを自らもしていく。

そんな仏のような生き方を志していく仏道や仏法に導く力、はたらきのことを他力と言っています。

そしてその他力とは、自力のはからいをもって考えたり、捉えようとするものではない。そのような言葉が、『歎異抄』第十条の「念仏には無義をもつて義とす」という言葉です。

ここに念仏という言葉が出てきますが、直接的な意味は南無阿弥陀仏と称えることです。ですがここでの念仏とは、他力の念仏のことです。ただ南無阿弥陀仏と称えるという意味だけではないのですね。

では、他力の念仏とは何かというと、阿弥陀仏の救いの力やはたらきが、私たちに至り届いて、口からこぼれ出てくる南無阿弥陀仏ということです。そしてそれは、阿弥陀仏の救いの力、はたらきそのものを表しているのですね。

ですから他力の念仏とは、ただ私たちの口で南無阿弥陀仏と称えるということではなく、阿弥陀仏が「あなたたちを必ず救う。だから南無阿弥陀仏と称えてほしい」と願われ、その願いの力(願力・他力)によって促され、口から出ている念仏のことを指しています。

それはつまり、『歎異抄』第十条にある「念仏」とは、「阿弥陀仏の救いの力、はたらき」そのものを指していて、「他力」と同じ意味の言葉ということになります。ここの念仏とは、そのまま他力と言い換えてもいい言葉なのですね。

ですから、「念仏には無義をもつて義とす」とは、「他力には、自力のはからいをまじえないことを本義とする」という意味ともなります。

「自力のはからい」とは、「自らの力で修めた功徳によって、仏の浄土へと往き生まれようとする」ことでした。

仏の浄土に往き生まれるために、自らの頭であれやこれやと考えたり、様々な善いと思われることをしたりして、浄土に往き生まれようとすることでした。

そして親鸞聖人は、煩悩を抱えた自力の行では、仏の浄土へ往き生まれることができない、安らかな仏のさとりをひらくことができないと受けとめた方でした。

しかし、他力という「阿弥陀仏の救いの力、はたらき」とは、自らの力ではどうしようもない凡夫をも、必ず救い遂げ、「仏の浄土へと往き生まれさせ、仏のさとりをひらかせる」というものです。

自らの力ではいかんともしがたい事実に悩んでいた親鸞聖人は、そのような阿弥陀仏の救いの教え、念仏の教えに出遇い、救われ、喜ばれていくわけです。

ともかく、「他力という阿弥陀仏の救いの力、はたらきとは、自力のはからいという、自らの思慮分別でもって捉えようとしたり、何とかしようとするものではない」というのが、「念仏には無義をもつて義とす」という言葉になります。

そして、それはなぜかというと、「不可称不可説不可思議のゆゑに」とあるように、「私たちのはからいを超えたものであり、説き尽くすことも、心で思いはかることもできないから」です。

そのようなことが、『歎異抄』第十条には示されています。

◆人生の意味を求める

さて、この「念仏には無義をもつて義とす」という言葉を、「人生の意味」という視点から、もう少し味わっていきたいと思います。

先々月に信行寺で開催した永代経法要で、布教使の先生が「人生の意味」についてのお話をされていましたね。

「何のために生まれてきたのか」「何のために生きているのか」といった「人生の意味」について考えるのは、人間だけだというお話をされていました。

動物は「何のために生まれてきたのか」「何のために生きているのか」とは、おそらく考えていないでしょうね。

人生に意味を見出そうとするのは、人間の特徴と言ってもいいかと思います。人生の意味について、自分なりの答えを探し求めて歩んでいるのが人間とも言えるかと思います。

◆広がりや輝きのある人生

しかし、この人生とは、自分の考えや価値観といったものだけで捉えられるものではないと示されているのが、お念仏の教えでもあります。

この人生、このいのちとは、自らの上だけで完結するような小さなものではなく、累々と受け継がれてきて、未来へと受け継がれていく、網の目のようにつながった、もっと大きなものではないか。

無量の広がりとつながりをもち、無量の輝きをはなつような、とても壮大で尊いいのちではないか。

そんな人生を私たちは生きていることを示されているのが、お念仏の教えでもあります。

親鸞聖人が記された「正信念仏偈」といううたがありますね。「正信偈」とも言って、お寺でもよくおとなえしていますね。

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「正信偈」は、どのような言葉から始まるでしょうか。「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉から始まりますね。

この言葉は、「無量のいのちをもつ阿弥陀仏に、私親鸞は帰依します」という言葉であり、「思いはかることのできない光をもった阿弥陀仏に、私親鸞は帰依します」という言葉です。

このように、「正信偈」のこの言葉は、直接的には阿弥陀仏という仏様のお徳を讃えた言葉なのですが、そこから仏様という方は、無量のいのちをもち、思いはかることのできないような輝きをはなつ方だということが分かります。

そしてまた、阿弥陀仏は、私たちにそのような仏とならせたいと願われ、はたらきかけておられると言われます。

あなたたちを、無量のいのちと、輝きをもつ仏とならせたい。「正信偈」の言葉は、阿弥陀仏のそうした願いとも受け取っていくことができる言葉なのですね。

そうしたお念仏の教えから、私たちの人生やいのちを味わってみると、この人生、このいのちとは、自らの上だけで完結するような小さなものではなく、累々と受け継がれてきて、未来へと受け継がれていく、網の目のようにつながった、もっと大きなものではないか。

無量の広がりとつながりをもち、無量の輝きをはなつような、とても壮大で尊いいのちではないか。そうした視点がひらかれてきます。

この人生とは、自分の意志で始めた人生ではないからこそ、自分の考えや価値観といったものだけで捉えられるようなものではないのではないか。

そんなことを、『歎異抄』第十条の「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑに」という言葉から思われるところです。そして「人生の意味」もまた、自分の考えや価値観を超えたものにひらかれていきます。

◆納得を超えた人生

そしてまた、私たちは「人生の意味」を、欲や生きがい、目標や夢といった、捉えやすいところで捉え、納得していこうとするところがありますね。

欲とは例えば、「こうしたい」「ああしたい」「あんなふうになりたい」というような欲ですね。

「美味しいご飯を食べたい」とか、「お金がたくさんほしい」とか、「贅沢な暮らしがしたい」とか。「こうしたい」「ああしたい」という思いは、すぐ思いつくのではないでしょうか。

例えば、人生を生きる意味は、たくさんのお金を稼いで、贅沢な暮らしをすることだということも、答えとしては成り立つわけですね。

また「人生の意味」を、夢や目標という言葉で捉えることもありますね。

「自分はこうなりたい」とか、「こんなことがしたい」という思いが、夢や目標ですね。

例えば、「プロのサッカー選手になりたい」とか、「自分のお店を出したい」とか。そうした夢や目標を持つことは、悪いことじゃないですよね。そうした目標や夢が見つかることは、生きがいにもなりますからね。

ですから、夢や目標こそが、生きる意味なんだという考えもあるわけです。ただ、目標や夢が見つからなくて悩む方もいます。

とにかく、私たちは人生の意味を、欲や生きがい、目標や夢といった、捉えやすいところで捉え、納得していこうとするところがありますね。私もそうです。

しかし、そうした自分の思いが満たせなくなった時、適わなくなった時に、私たちは行き詰まり、人生の意味を見失うことがあります。

若くいたいが、歳をとってしまう。健康でいたいが病気になってしまう。お金がほしいけれど、そんなにお金は入ってこない。定年後はゆっくり生活したいけれど、働かざるをえない。そもそも夢や目標が見つからない。そうした、人生には思い通りにならないことが様々おこるわけですね。

自分の思いを中心に生きている私たちが、その思いを満たすことができない現実に突き当たった時に、悩むわけです。そこに人生の意味を見失うということが、またあるのでしょう。

若いうちや挑戦している時、自分で何とかできそうな目標に挑んでいる時などはまだいいですね。若さや夢や目標などに、人生の意味を重ね合わせることもできます。

ですが、問題はそれが行き詰まるときですね。それを、仏教では苦といって、思い通りにならないところに私たちは苦しむのだと考えます。

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老病死苦などの、老い、病、死などの思い通りにならないところにおこる苦もあります。愛別離苦という、愛する大切な人とも死別していかなければならない苦しみもあります

怨憎会苦(おんぞうえく)といって、会いたくない人とも会わなければいけない苦しみや、求不得苦(ぐふとくく)といって、求めるものが得られない苦しみもあります。

私たちは、そんな思い通りにならないところからおこる苦しみを経験する中で、欲や夢や目標を満たしていく生き方に行き詰まったり、虚しさを覚えるようなこともあります。

そんな思い通りにならないことに、徐々に折り合いをつけたり、受けとめていこうとするわけですが、中々納得ができない自分もいるわけです。そうしたところから生まれるものを、仏教では苦しみといっています。

自分がこうありたいという思いや、自分が納得するということを、私たちはとても大事にしますし、そうなっていかない時に、怒ったり、悩んだり、苦しみます。

しかし、この人生とはこうありたいという思いや、自分が納得するかどうかといったものを超えた、もっと深く広がりのある人生なのでしょうね。そうしたことを、『歎異抄』第十条の「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑに」という言葉から思うところです。

常々言うことですが、仏縁に遇い、仏法を聞き学ぶことは、心が育まれることとか、心がひらかれてくることだと言われます。

思い通りにならないことに突き当たった時に、苦しみ悩みながらも、「生きてきて良かった」「ここまで生かされてきた」と味わうことのできる。そうした心が育まれ、心がひらかれてくる。

自分本位の思い、自らのはからいからだけでは決して出てこなかった、大きな人生を生かされているというような視点を、仏縁の中でいただいていくのでしょうね。

それが、他力という阿弥陀仏の救いの力、はたらきということでもあろうかと思います。

いかがだったでしょうか。本日は、『歎異抄』第十条の内容と、そこから「人生の意味」について味わってみました。

では今一度、『歎異抄』第十条の本分と意訳を、ご一緒に唱和致しましょう。

【本文】
念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

【意訳】
他力の念仏においては、自力のはからいをまじえないことを本義とします。
なぜなら、他力の念仏とは、我々のはからいを超えたものであり、説き尽くすことも、心で思いはかることもできないからです。そのように、親鸞聖人は仰せになりました。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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