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さて、皆さんに質問です。三日前の夕食に何を食べましたか。三日前の夕食を思い出せるでしょうか。少し考えてみてください。
「三日前は何曜日かな」というように、曜日から考えると、思い出しやすいですかね。いかがでしょうか。思い出せるでしょうか。
では、もう一つ質問です。十日前の夕食には何を食べたでしょうか。三日前の夕食は思い出せても、十日前のことなると、思い出せない方が多いのではないでしょうか。
さて、この質問をしたのは、今日は皆様と一緒に確認したかったことがあったからです。それは、私たちはたとえ以前食べた食事のことを思い出せなくても、その日の食事があったからこそ、今こうして存在しているということです。
少し言葉を換えて言うと、私たちはその日いただいたいのちがあったからこそ、今こうして存在しています。そのことは、誰もが頷けることではないでしょうか。
三日前には、どんないのちをいただいたでしょうか。きっと一つのいのちだけではないですね。
「お肉は少しだけしか食べていないから、いのちまではいただいていません」ということはないですね。100gのお肉でも、生きたままお肉をそぐわけではありません。その100gには、数頭、数匹のいのちが混在しているかもしれません。そして、食べているのはお肉だけでもありません。
このように、私たちは様々ないのちをいただきながら、様々なご縁によって成り立っています。これまで食べたご飯を思い出せなくても、確かにそのおかげで今自分がいますね。そして、これまでどれだけのいのちをいただいてきたかと考えると、記憶がない時から、お腹にいる時から、多くのいのちをいただいてきたことになります。
そんな多くのいのちのご縁から、私という存在が成立しています。そして、これらのご縁を私から取り除いていったら、私は存在しません。こうした私たちのいのちの事実を、ブッダは無我と表現されました。単独で存在する我(私)はないんだと、ブッダは気付かれたのですね。
祖先もたどれば、どれほどの祖先がおられて今の自分があるか。数えきれないほどです。
はかり知ることのできないご縁によって私たちは生まれ、ご縁の中で生かされています。こうしたいのちの事実への目覚め、無我への目覚めが仏教だと言われます。
浄土真宗でご本尊とされる阿弥陀仏という仏様は、別名、無量寿如来ともいいます。無量寿如来とは、はかり知ることのできないいのちを持った仏様という意味です。
「あなたたちのいのちもまた、はかり知れないほどのご縁によって成立しているいのちだよ」と喚びかけ、気付かせようとはたらきかけておられるのが、阿弥陀仏という仏様だと言われます。
仏法、お念仏の教えを聞きながら、「このいのちとは、はかり知ることのできないご縁によって成り立っているものだった」と気付かされていくことがあります。
ちなみに、「おかげさま」という言葉の「かげ」とは、目に見えないものを表しているそうです。目に見えないもの、自分の認識の範囲を超えたものも含めた、多くのご縁によって私が成立していることに感謝する言葉が、「おかげさま」という言葉だそうです。
私たちは、確かに自分はあると感じます。だからこそ自分に執着し、自己を確立しようとします。しかし、自分というものは、自分が確立しようとする以前から、ご縁によって成り立っていた。そう気付かされていく時に、自分や他者への見方がこれまでと変わることがあります。
そうしたいのちの事実への目覚め、無我への目覚めが仏教だと言います。
先日、こうしたご法話を聞かせていただく機会がありましたので、私なりに咀嚼してお話をさせていただきました。
日々の仕事や生活の中で、ついおかげさまの心を忘れがちになってしまいます。「これは私のおかげ」「何で言ったように動いてくれないの」「これが常識でしょう」と、自分の価値観や自分の正義がフツフツとわいてきます。「いかんいかん」と、私自身も自戒を込めて、今日はこんな話をさせていただきました。
皆様は、どのようにお感じになられたでしょうか。また是非、ご感想もお聞かせください。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼一口法話シリーズ
一口法話 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)
南無阿弥陀仏