【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

この数回、「正信偈」の「能発一念喜愛心」から「如衆水入海一味」までの四つ句を見ています。今回は、その四つの句の中の「如衆水入海一味」という句の意味について見ていきます。テーマは「阿弥陀仏からいただいた信心」です。

それではさっそく見ていきましょう。

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◆一つの塩味となる

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それではまず、今回見ていく「正信偈」の言葉の意味を見ていきましょう。

「如衆水入海一味」という言葉は、普通に読むと「にょしゅすいにゅうかいいちみ」と読みます。ですが、「正信偈」をとなえる時には、「にょしゅしいにゅうかいいちみ」ととなえています。

書き下すと、「衆水(しゅすい)海に入りて一味なるがごとし」となります。

「如」という言葉は、書き下すと「ごとし」と読み、「○○のようです」という意味の言葉です。これはその前の「凡聖逆謗斉回入」という言葉を受けています。そのことは後ほど説明します。

「衆水」とは、「様々な川の水」という意味です。「入海」とは、「海に入る」という意味です。「衆水入海」という言葉で、様々な川の水が、海に入る、海に流れ込むことを表しています。

「一味」とは、「一つの味」という意味です。濁った泥水でも、澄んだ清流でも、海に流れ込めば一つの塩味になっていくことを示しています。

「如衆水入海一味」という言葉を訳すと、「それはまるで、様々な川の水が海に流れ込み、一つの塩味となるようです」という意味になります。

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「如」という言葉は、その前の「凡聖逆謗斉回入」という言葉を受けていると申しました。

「凡聖逆謗斉回入」(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう)という言葉の意味は、「愚かなものでも、聖らかなものでも、様々な罪を犯したり、真実の教えをないがしろにするような生き方をするものでも、信心をいただき回心したならば、ひとしく救われるのです」というものでした。

生き方や背景が違うものでも、回心をしたならばひとしく救われていく。それはまるで、濁った泥水でも、澄んだ清流でも、海に流れ込めば一つの塩味となっていく様に似ています。

そうした生き方や背景が違う様々なものを救おうとする阿弥陀仏の慈悲やお徳が、「凡聖逆謗斉回入」という言葉で示されています。そして、阿弥陀仏によって様々なものがひとしく救われていく様を、「如衆水入海一味」という言葉でもって、川の水が注ぎ込まれる海に例えて表現されています。

◆信心一異の諍論

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この「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」の内容に関わることとして、「信心一異の諍論(じょうろん)」というものがあります。

「信心一異の諍論」とは、親鸞聖人が法然聖人の門下生の時にあったとされる論争のことです。

親鸞聖人は、比叡山延暦寺にて約20年間修行をされましたが、迷い苦しみから抜け出す道を見出すことができませんでした。そして29歳の時、比叡山を下山し、新たな道を求めて法然聖人のもとを訪ねます。

その時法然聖人は、現在の京都の東山に草庵を結び、お念仏の教えを人々に説き広めていました。法然聖人は、「国や貴族のための仏教」から、誰しもが救われていく「民衆のための仏教」の可能性を新たに開き、浄土宗という宗派をおこされました。

法然聖人のもとには、救いを求めて多くの人々が集まり、門下生として多くの僧侶もおられたようです。親鸞聖人もまた、法然聖人にお念仏の教えを受け感銘し、その門下生となられます。

そして、親鸞聖人が法然聖人の門下生となって5年ほどが経過した頃のことです。親鸞聖人と他の門下生との間で論争があったとされます。その論争のことを、「信心一異の諍論」と言われています。

その論争の内容は、法然聖人と親鸞聖人の信心とは一つなのか、それとも異なっているのかというものでした。

親鸞聖人が善信という名だった時、他の門下生を前にして、「この善信の信心も、法然聖人のご信心も一つです」と言われたことがありました。

その言葉を聞いて、先輩の僧侶たちが、「どうして法然聖人のご信心と、善信の信心とが一つであろうか」と言われたそうです。

しかし、親鸞聖人は、こうお答えになります。

「法然聖人のお智慧や学識の深さが私と同じであると言うならば、それは誤りでしょう。ただし、阿弥陀仏の浄土(仏の国)へと往き生まれることを信じる信心においては、全く異なることはありません。ただ一つです」。そう答えました。

それでもなお、「どうしてそのようなことがあろうか」という疑いの意見があがったので、では法然聖人に直接、どちらの意見が正しいかを決めていただこうという話になりました。それで、法然聖人に詳しくこのことを尋ねてみると、法然聖人はこのようにお答えになったそうです。

「私法然の信心も、阿弥陀仏からいただいた信心です。善信の信心も阿弥陀仏からいただいた信心です。ですから、ただ一つです。異なった信心をもつ方は、この法然が往かせていただくであろう浄土へは、まさか往かれることはないでしょう」。

このような内容が、「信心一異の諍論」と言われていて、『歎異抄』や『御伝鈔』という書物に記されています。

◆自力と他力

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親鸞聖人は、信心を大きく二つに分類されています。一つは「自力による信心」で、もう一つは「他力による信心」です。この「自力」と「他力」という側面から、今回の信心の話を整理すると、理解しやすいかと思います。

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「自力」とは、自らの力をたのみとし、その行為から得られた善の功徳によって、迷い苦しみから抜け出そうとするものです。例えば、南無阿弥陀仏と念仏を何度も何度も称え、その功徳によって迷い苦しみから抜け出そうとするようなものです。

こうした自らの力をたのみとし、その行為から得られた善の功徳によって、迷い苦しみから抜け出せると信じる心を、親鸞聖人は「自力による信心」と定義されています。

この「自力による信心」とは、自らの力をたのみとし、おこしたものですから、各々の智慧や学識の深さや、修行の深まりによって信心の内容や程度も変わってきます。

つまり、親鸞聖人と論争をし、法然聖人の信心と、親鸞聖人の信心とは異なっていると主張をした方々の言う信心とは、この「自力による信心」に分類できます。

そしてさらには、信心が異なれば、当然得られる結果も異なってきます。

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阿弥陀仏とは、「迷い苦しむものを必ず救う」という願いをもった仏様だと言われます。「必ず救う」という願いとは何かというと、迷い苦しむものに信心を恵み、いのち尽きれば浄土へと生まれさせ、安らかな仏のさとりをひらかせようというものです。

つまり、阿弥陀仏からいただいた同じ信心であれば、生まれる浄土も同じはずで、その浄土で安らかなさとりをひらくはずです。しかし、人によって信心が異なるということは、往く場所が異なり、さとりをひらくかどうかも分からなくなります。

そのため法然聖人は、信心が異なっていると主張した方々に対して、先程のように答えたことでしょう。

「私法然の信心も、阿弥陀仏からいただいた信心です。善信の信心も阿弥陀仏からいただいた信心です。ですから、ただ一つです。異なった信心をもつ方は、この法然が往かせていただくであろう浄土へは、まさか往かれることはないでしょう」。

阿弥陀仏からいただいた信心は、人によって異なることはありません。もし信心が異なるというならば、その方はこの法然が往く浄土へは往くことはないでしょう。

自らの力をたのみとし、おこした「自力による信心」か。それとも、阿弥陀仏からいただいた「他力による信心」か。それによって信心が異なり、往く場所も異なってくるわけです。

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また「他力」とは、「阿弥陀仏の力、はたらきのこと」です。一般用語で「他力」とは、他人の力という意味で使われますが、もともとはそうではなく、「阿弥陀仏の力、はたらきのこと」を「他力」と言います。

「迷い苦しむものを救いたい」と願い、安らかな道へと歩みを進ませようとする阿弥陀仏の力、はたらきのことを、「他力」と言います。そしてその阿弥陀仏の願いやはたらきによって恵まれる、阿弥陀仏の救いを疑いなく信じる心のことを、「他力による信心」と言います。

法然聖人が言われた「阿弥陀仏からいただいた信心」とは、この「他力による信心」に分類できます。

信心が各々の智慧や学識の深さや、修行の深まりによるのではなく、阿弥陀仏からいただいた同じ信心であるからこそ、同じ浄土へと生まれ、その浄土で安らかなさとりをひらいていくのですね。

「阿弥陀仏からいただいた信心」というお念仏の教えの本質を、親鸞聖人も見抜いておられたからこそ、論争ではこのように言われたことでしょう。

「この善信の信心も、法然聖人のご信心も一つです」「法然聖人のお智慧や学識の深さが私と同じであると言うならば、それは誤りでしょう。ただし、阿弥陀仏の浄土へと往き生まれることを信じる信心においては、全く異なることはありません。ただ一つです」。

「信心一異の諍論」では、法然聖人の言葉と親鸞聖人の鋭い洞察に、そこにいた方々は舌をまき、口を閉じたと言います。

◆ひとしく救われていく

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さて、「正信偈」の「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」という言葉と、「信心一異の諍論」の内容とが関わっているので、ここまで紹介をしてきました。

「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」という言葉の意味を、今一度確認するとこのようなものでした。

「愚かなものでも、聖らかなものでも、様々な罪を犯したり、真実の教えをないがしろにするような生き方をするものでも、信心をいただき回心したならば、ひとしく救われるのです。それはまるで、様々な川の水が海に流れ込み、一つの塩味となるようです」。

阿弥陀仏とは、迷い苦しむものに信心を恵み、いのち尽きれば浄土へと生まれさせ、安らかな仏のさとりをひらかせようと願われている仏様でした。

その阿弥陀仏の願いとはたらきによって、生き方や背景が違う様々なものでも、同じ信心をいただき、同じ浄土へと生まれ、安らかな仏のさとりへ至る道がひらかれてくるのでした。その様子はまるで、濁った泥水でも、澄んだ清流でも、海に流れ込めば一つの塩味となっていく様に似ています。

そうした生き方や背景が違う様々なものを救おうとする阿弥陀仏の慈悲やお徳が、「正信偈」には「凡聖逆謗斉回入」という言葉で示されています。そしてさらには、阿弥陀仏によって様々なものがひとしく救われていく様を、「如衆水入海一味」という言葉でもって、川の水が注ぎ込まれる海に例えて表現されています。

いかがだったでしょうか。

今回は、「阿弥陀仏からいただいた信心」というテーマで、「正信偈」の「如衆水入海一味」という句の意味について見ていきました。皆様は、どのように感じられたでしょうか。また感想もお聞かせください。

次回も「正信偈」の続きを見ていきます。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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