正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。
前回より、「正信偈」の「能発一念喜愛心」から「如衆水入海一味」までの四つ句を見ています。今回は、その四つの句の中の「凡聖逆謗斉回入」という句の意味について、見ていきます。テーマは「治しがたい病を治す」です。
それではさっそく見ていきましょう。
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ではまず、今回見ていく「正信偈」の本文、書き下し文、意訳を見ていきましょう。宜しい方は、ご一緒ください。まずは、本文からです。
次に、書き下し文です。
次に、意訳です。
それでは、「凡聖逆謗斉回入」という言葉の意味を見ていきましょう。
書き下し文では、「凡聖・逆謗斉しく回入すれば」となっています。
「愚かなものでも、聖らかなものでも、様々な罪を犯したり、真実の教えをないがしろにするような生き方をするものでも、信心をいただき回心したならば、ひとしく救われるのです。」
意訳では、このような意味になります。
「凡聖」(ぼんしょう)という言葉ですが、「正信偈」をとなえる時は、「ぼんじょう」というように、「しょう」の言葉を「じょう」と濁らせてとなえています。ですが、単体の言葉としては、「ぼんしょう」というように濁らずに発音します。
さて、この「凡聖」という言葉は、「凡夫」と「聖者」という言葉を略したものです。意訳では、この部分を「愚かなものでも、聖らかなものでも」と訳しています。
「凡夫」(ぼんぶ)とは、「凡愚」(ぼんぐ)とも言われ、一般的な言葉で言えば、「愚かなもの」という意味の言葉です。
ただし、仏教において「凡夫」(愚かなもの)とは、頭が良くないというような意味の言葉ではありません。「凡夫」(愚かなもの)とは、いつも自分中心に物事を見て考え、欲や怒りなどの煩悩に捉われ、煩悩に振り回されて生きているようなものを、「凡夫」(愚かなもの)と言っています。
頭が良いと言われる人でも、自分の立場が良くなることばかりを考え、他者を妬んだり、蹴落としたり、保身から自分の地位にしがみつくような場合もあります。そういう場合には、たとえ頭が良くても、欲や妬み、恐れなどの煩悩に捉われ、煩悩に振り回されていますから、「凡夫」であると言えるのではないでしょうか。
「凡夫」という言葉を「愚かなもの」と訳していますが、今の説明のように、頭が良くないというような意味の言葉ではないのですね。いつも自分中心に物事を見て考え、欲や怒りなどの煩悩に捉われ、煩悩に振り回されて生きているようなものを、「凡夫」(愚かなもの)と言っています。そして、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、自分自身のことを深く見つめた結果、「私は凡夫である」と言い切った方でした。
次に「聖者」(しょうじゃ)とは、一般的な言葉で言えば、「聖らかなもの」という意味の言葉です。もっと仏教的な意味で言えば、「聖者」とは、「仏道修行に励み、ある一定の境地に達した人」のことを言います。また、「さとりを求めて修行をする菩薩など」のことを「聖者」と言われることもあります。
この「聖者」に対する言葉が「凡夫」であるとされています。ですから、「聖者」が「さとりを求めて仏道修行に励む人」であるとするならば、「凡夫」とは「さとりを求めることもなく、仏道修行に励むこともないもの」とも言えます。そうすると、この「凡夫」(愚かなもの)とは、ごく普通の生活を送っている人とも言えます。
私たちは、なるべく笑顔でいようとしたり、相手を思いやるような言葉を使うこともあるでしょう。しかし、いつも笑顔かというと、そうでない日もあるでしょうね。体調が悪かったり、腹の虫の居所が悪ければ、怒ることや腹を立てることもあります。そうした、ごく普通の感情を持っている私たちも含めて、「凡夫」だということが言えそうです。
お念仏の教えに出遇い、お念仏の教えを聞いていく中で、誰しもが自分中心の欲や怒りといった煩悩を抱えていて、自分も凡夫であったんだなと気付かされることがあります。
とにかく、「凡聖逆謗斉回入」の「凡聖」とは、「凡夫」と「聖者」という言葉であり、「愚かなもの」「聖らかなもの」と訳される言葉です。ただし、これらの言葉には、今話したような一般的な意味とは違った仏教的な意味があります。
そして、「正信偈」の「凡聖逆謗斉回入」という文章では、愚かなものでも、聖らかなものでも、阿弥陀仏の救いを信じる心である信心をいただき、回心したならば、ひとしく救われていくということが示されています。
愚かなものでも、聖らかなものでも、阿弥陀仏は思いをかけ、救おうとされている。そうした阿弥陀仏のお徳が、「凡聖逆謗斉回入」という言葉で示されています。
次に、「凡聖逆謗斉回入」の「逆謗」(ぎゃくほう)という言葉を見ていきましょう。「逆謗」とは、「五逆」と「謗法」(ほうぼう)という言葉が略されたものです。
「五逆」とは、「五種類の重罪」のことです。具体的には、父や母を殺害したり、聖者や仏を傷付けたり、教団の和を乱すような罪を「五逆罪」として示されています。
そのような五逆の罪を犯すものでも、阿弥陀仏の救いを信じる心である信心をいただき、回心したならば、ひとしく救われていくということが、「凡聖逆謗斉回入」という言葉で示されています。
五逆の罪を犯したものでも、何とか正しい道、真実の道へと歩みを進めてほしいという、阿弥陀仏の慈悲の心が示されているところです。
ただし、補足しておかなければいけないのは、これは罪を犯してもいいということではありませんし、罪を容認することでもありません。このことについては、後ほどもう少し補足致します。
そして、「謗法」とは、仏の教え、真実の教えをそしり、ないがしろにすることです。そうしたものの存在を悲しみながらも、そういうものも何とか正しい道、真実の道へと歩みを進めてほしいという、阿弥陀仏の慈悲の心が、ここでも示されています。
意訳では、「様々な罪を犯したり、真実の教えをないがしろにするような生き方をするものでも、信心をいただき回心したならば、ひとしく救われるのです」と訳しています。
さて、「五逆」に関して、親鸞聖人の記された『教行信証』という書物には、「王舎城の悲劇」という物語を引用されています。「王舎城の悲劇」とは、『仏説観無量寿経』や『涅槃経』というお経に説かれている物語で、お釈迦様の在世当時のインドにあったマガダ国という国において起きた悲劇のことです。
マガダ国の王子である阿闍世(あじゃせ)は、クーデターを起こし、父である頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を幽閉して餓死させようとします。また、王を助けようとした母の韋提希夫人(いだいけぶにん)に対しても怒り、殺害しようとします。側近のいさめによって、母の殺害は思いとどまりますが、王である父は亡くなり、阿闍世が王位を継承したと言います。
阿闍世はその後、父を殺害したことへの後悔の念にさいなまれて熱を出し、全身にできものができて苦しみます。阿闍世は、自らの行為によって、自分はこのような苦しみを味わっているのだと受けとめるようになります。そして近い将来、自分は地獄へ堕ちることになるだろうと覚悟します。お経には、そうした阿闍世が自らの行為を悔い、恥じている様子が説かれています。
親鸞聖人は、そうした「王舎城の悲劇」の物語を、ご自身の著書である『教行信証』に引用しています。そして、父と母を殺害しようとした阿闍世を、「五逆」の罪を犯したものの象徴として取り扱っています。
親鸞聖人は『教行信証』で、「五逆」のような重罪を犯すものは、「難治の機」であると示されています。五逆のものとは、治し難い病にかかった重病人のようであり、救われがたいものであるとされています。
しかし、『教行信証』のその段落の結びには、そうした「五逆」のような罪を犯したものでも、必ず救うという阿弥陀仏の誓いを信じ、帰依するならば、阿弥陀仏はそのものを深く哀れんで病を治すと、親鸞聖人の言葉で示されています。
この部分の言葉を見てみましょう。
このように、『教行信証』には記されています。
罪を犯したものでも、信心をいただき回心したならば、ひとしく救われるということは、罪を犯してもいいということではありませんし、罪を容認することでもありません。阿弥陀仏に救われるから、悪いことをしても良いという考え方を造悪無碍(ぞうあくむげ)と言い、それは誤った考え方として、親鸞聖人は厳しくいさめられています。
また、罪の被害によって苦しんでいる方もいます。罪を犯したものでも救われるということは、被害を受けた方の立場からは受け容れることの難しい考え方でしょう。
では、「凡聖逆謗斉回入」という言葉に示される、罪を犯したものでも、信心をいただき回心したならば、ひとしく救われるとは、どのように受けとめたらよいのでしょうか。
まずこれは、「五逆の罪を犯すものとは自分のことであった」と、親鸞聖人が自分自身を深く見つめていく中に、自らのことを悔い、恥じて出てきた言葉ではないでしょうか。
「あの人は罪を犯したけれども救われる」というような、他人のことをさした言葉ではなく、「悪人や罪を犯すものとは自分のことであった」と、自分のこととして受けとめた中に出てきた言葉ではないでしょうか。
そして同時に、「そんな自分に思いをかけておられる阿弥陀仏のなんと尊いことか」という感謝の心から溢れ出た言葉ではないでしょうか。
親鸞聖人は、自分自身のことを聖者だとはおっしゃいませんでした。「自分は凡夫であり、悪人である」と言い切った方でした。そして、「五逆の罪人とは自分のことだった」と、阿闍世に自らを重ねて見ていたのではないでしょうか。
親鸞聖人は、五逆に該当するような、殺人などの罪を犯したというわけではないでしょう。しかし、「自分自身を深く見つめてみれば、聖らかな心ばかりではない。欲もあれば、怒ることも腹立つこともあり、人をそねんだり、ねたむような心もある。たまたま、大きな罪を犯してはいないかもしれないけれども、そうした自分中心の心がある限りは、置かれた立場や状況によって、五逆のような罪を犯すこともある」。そのように、自分自身を深く見つめた方ではなかったかと思います。
親鸞聖人の言葉が記されているとされる『歎異抄』には、このような言葉があります。
五逆のような罪を犯すことがないのは、そのような縁がないからで、自分の心が善いからではないと親鸞聖人が考えていることが、この言葉から伺えます。この『歎異抄』の言葉は、親鸞聖人が目の前にいる方と話す中で、相手に向けて言った言葉です。しかし、それはそのまま、自らの心が善いから罪を犯さないわけではないと、親鸞聖人も自分自身のことを見つめていたことが伺えます。
そしてまた私たちも、自分自身の言動を振り返ったり、これまでの人類の歴史も振り返ってみれば、同じようなことが言えるのではないでしょうか。
もし戦争になれば、我が身を守るため、大切な人を守るため、戦地では相手を殺害することもあるでしょう。泥棒に遭遇して襲われそうになれば、必死で抵抗するでしょう。自らの心が善いからではなく、たまたま他者を傷付けるような縁がなかっただけなのかもしれない。親鸞聖人の言葉からは、そのようなことを考えさせられます。
そして、罪を犯すつもりがなくても、犯してしまうこともあります。車を運転していて人をはねてしまった時。まさか自分が人を傷付けてしまうとは、その日の朝には思いもしなかったでしょう。
また、言葉で人を傷付けるということもあります。自分が何気なく発した言葉が、ネットに書き込んだ言葉が、相手を傷付け、時には死に至らしめることもあります。そうして考えていくと、全く罪を犯していない人はいないでしょうし、自分もまた、そうした良くない行為を日々重ねているのかもしれません。
そのように自分を見つめていった時に、苦しみを覚えることがあります。自らの言動を悔いて恥じることがあります。そうした後悔や苦しみによって、これまでと違った生き方を求め、仏縁に導かれることがあります。
阿弥陀仏とは、そういう罪を犯すような生き方をしているものをも見て哀れみ、その病を治そうとはたらきかけてくださっている仏様だと言われます。そうした仏縁に導き、正しい道、真実の道へと歩みを進めさせようとしている阿弥陀仏のはたらきを他力と言います。
私たちの日々の苦しみや、人生における迷いというのは、根源的には煩悩が原因となっていること。私たちに罪を犯すような行為をさせ続けるのも、煩悩が原因であること。そうしたことに気付かせ、迷いや苦しみから離れたさとりへの道を歩ませようとはたらきかけてくださっている阿弥陀仏のはたらきを他力と言います。
具体的には、仏法、お念仏の教えを聞いていく中で、自分が自分中心であることに気付かされていきます。そして、自分が自分中心であることから、多くの罪をつくっている存在であることに気付かされていきます。そうしたはたらきのことを、他力と言うのですね。
「五逆の罪を犯すものとは自分のことであった」と、親鸞聖人が自分自身を深く見つめていく中に、自らのことを悔い、恥じて出てきた言葉が、「正信偈」の「凡聖逆謗斉回入」という言葉ではないでしょうか。
そして同時に、「そんな自分に思いをかけておられる阿弥陀仏のなんと尊いことか」という感謝の心から溢れ出た言葉が、「凡聖逆謗斉回入」という言葉ではないでしょうか。
愚かなものでも、聖らかなものでも、様々な罪を犯すものでも、阿弥陀仏は思いをかけておられる。救われ難い自分を救おうと、治し難い病を治そうと、喚びかけてくださっている。そういう仏様が阿弥陀仏だった。そんな阿弥陀仏のお徳を喜び、讃嘆された言葉が、「正信偈」の「凡聖逆謗斉回入」という言葉であると感じます。
そして、その阿弥陀仏の喚び声は、私自身に向けられていたのだと、お念仏の教えを聞く中で、私たちも味わうことのできる言葉でもあります。
◆
いかがだったでしょうか。
今回は、「治しがたい病を治す」というテーマで、「正信偈」の「凡聖逆謗斉回入」という句の意味について見ていきました。皆様は、どのように感じられたでしょうか。また感想もお聞かせください。
次回も「正信偈」の続きを見ていきます。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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