【お彼岸のご法話】
◆信行寺 秋季彼岸法要
◆令和3年(2021)9月19日
◆講師:木村大信師
(浄土真宗本願寺派布教使/福岡県筑紫野市 光傳寺)

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今日は、お彼岸でのご縁でお話をさせていただきます。皆さんお彼岸って言ったら、だいたい何を一番に思い浮かるでしょうか。ほとんどの方が、お墓参りや、もしくは納骨堂にお参りに行くことを連想されるんじゃかろうかと思います。

納骨堂やお墓には、私どもと縁の深かった両親、祖父母、連れ合い、場合によっては子どもという場合もあるかも分かりませんが、一足先にお浄土に帰られた方々のご遺骨が納められておりますので、お彼岸となればお参りに行って手を合わすということは、非常にありがたい尊いことだろうと思います。しかし、お彼岸というのは、決してそのことだけではないんですね。

 

お彼岸の語源に当たるインドの古い言葉で、「パーラミター」という言葉があります。これは直訳すれば、到彼岸と言います。到というのは、到達という字の到です。つまり、彼岸に到るというのが、本来の「パーラミター」という言葉の意味合いで、そこには目的があるわけです。

私たちがお墓に出向いて、お供えして手を合わすだけではなくて、彼岸に到るという大切な言葉が上に乗っかっております。向こう側の彼の岸である彼岸とは、こちら側のこの岸である現実の世界とは真反対の世界です。この現実の世界に住んでいる私たちが、その真反対の世界である彼岸に向けて歩み始めることを、本来のお彼岸、到彼岸と言います。

彼岸と私たちの住んでいるこの娑婆世界とは、何かにつけて両極です。仏様の彼の岸をおさとりの世界とするならば、私たちのこの世界は迷いの世界です。彼岸が無我の世界、我のない世界だとすれば、私たちの世界は我欲に満ちた、自分にとらわれた我の世界ですね。仏様のお浄土の世界を、絶対という世界で言い表すならば、私たちが住んでいる世界は、絶対とは真反対の相対の世界ということになります。我々は相対の世界に身を置いているんですね。

私たち真宗門徒にとっては、お彼岸という言葉よりもお浄土という言葉のほうが、耳によく聞き慣れているかと思います。そのお浄土に到る、到達する、そこを目指すということですからね。言葉を変えて言うならば、彼岸を目指すということは、浄土に往生をとげるという言葉に言い変えても何ら差し支えはないです。つまりお彼岸とは、私の今の日々の歩みが、ちゃんとお浄土に往生をとげる方向に向いた歩みになっているか否かを、彼岸のお中日挟んでのこの前後一週間で点検したり、自分の生き方を振り返る、そういう期間かと思います。お墓に参り、お供えをして、手を合わせてきた。それで終わりということでは決してないわけです。

 

一足先にをお浄土にかえられた両親、祖父母、あるいは自分に縁の深かった方々はね、今仏様になられています。往生というのはですね、私なりにいただくと新たな歩みです。ですから、往き生まれるって書いてありますよ。

本当は、物理的な一般的な表現でいうなら、人間の息が止まる死と生とは正反対のことのはずです。しかし、私たちの先達であり、歴代の親たちは、それを往生と教えてくださいました。ただ息が止まったよ、死んだよじゃなく、往生をとげましたとこう言ってきた。それは、今まで身を置いとった世界から、新たな仏様の世界に往き生まれていく。今までとは違った、いのちの世界に誕生していくということを往生というわけです。

おさとりの世界、仏様の彼岸がさとりの世界と言うならば、私たちの今生きとる世界は迷いの世界と先程申し上げました。悲しいかな、私たちは迷いの生き方を送っているという自覚は、ほとんど大半の方はお持ちでないだろうと思う。それほど迷いというのは深いんですよ。迷いの事実に気付いてない姿こそ、迷いかも分かりません。

私はね、これを泥酔した酔っ払いと一緒と言うんですよ。もう飲みすぎて、酔っ払ってる自覚がない人はね、酔っ払ってない、俺は大丈夫って言うんですよ。側の人が見たらみんな、百人が百人酔っ払ってるってうつるんだけども、本人だけそのことの自覚がない。そのことと迷いの実態というのもね、何らそう変わらんだろうと思う。しかし、何かの縁に触れて、私も迷っていたのかなということに気づかされていくんですよ。その迷いの夢からさめさせたいと願われておるのが、阿弥陀という仏様です。

 

私たちが今生において、迷いの夢からさめきってさとりの世界に到るかというと、それはそれでできません。歴史を振り返っても、釈迦牟尼世尊というお釈迦様以外に、仏様になられた方はないんです。限りなくそこに近づいた方は、今までの数千年の歴史の中にいらっしゃったかもわからんけども、しかしその実態はどうでしょうか。欲がなさそうに見えても、無欲の人なんていませんよ。

あれも手に入れた。これも実現できた。でもやっぱり、こうもなってみたい。いや、あれも手に入れてみたい。こういうことになったらどうなるんだろうというね、息が止まるまで、欲は飽くことがない、止むことはないんだろうと思います。生身の身体を持っているということは、裏を返せばこの世で私たちが、煩悩に振り回されている姿そのものであります。その煩悩を断ち切ることができたとしたら、それが仏様なんですけども、悲しいかな、それはこの世に生きている中では実現には到りません。

でも、お正信偈の中に尊い御文がありまして、「不断煩悩得涅槃」(ふだんぼうんのうとくねはん)という御文があります。煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得(う)と書いてあります。つまり私たちは、逆にこの煩悩を抱えておることが、さとりの道にいらしむるご縁となる。自分で仏になったということではないですよ。私はやがて浄土に生まれる身であった。この世に生をいただいたのはたまたまで、自分で選んだわけではないけれども、人としてのいのちを恵まれて、様々な形態のあるいのちの中で、唯一仏様の教えが聞こえる身として私どもは生まれました。

私はね、仏様の教えが届くいのちを賜りましたねと言うんです。これだけ無数のいのちがありながら、唯一人間だけですよ。でも、生まれた人がみんな仏縁にあうかと言うと、これまたその中のごく一部でしょう。もちろん、イスラム教の方やキリスト教の方、それ以外の宗教の方もいらっしゃるんでしょうけども、仏教と縁がありながらも自分で求める気もない、聞こうという気もないままで、ただ家の中に仏壇はあったというぐらいの感覚の方は多いです。自分が仏教徒であるというような自覚もないまま、人生終わられる方は山ほどいらっしゃいます。

でも私たちは幸いなことに、自分の両親、縁の深かった家族、友人といった方々のご遺骨の納めてある所に手を合わすことを通して、仏縁に遇うご縁をいただきました。ごくまれにお若い時から、篤信なご両親や家庭環境で仏縁に遇う方もいらっしゃるかも分かりませんけども、大半の方はね、ある程度の世代に達しないと、仏様の教えに真剣に耳を傾けようなんていう気が正直なかなかおこらないんですよ。でも僕は、そこからでも遅くないと言うんです。

 

何がきっかけになるか、仏縁につながっていくか分かりませんけれどね。自分がはっと思った時からでも、襟を正して、お寺から案内があれば出向いたり、いろんな仏教書を読むこともいいでしょう。ご院家さんや若院さんに、いろんな分からないことをたずねてもいいじゃないですか。これ聞いて恥ずかしいやら、もうそんなてらいを捨ててね。分からないことは素直に、私はこういうふうに思うんですけど若院さんこれでいいでしょうかとたずねてみていいじゃないですか。

どんどん仏様の教えに出遇って、本当の意味で仏様の教えに出遇えた時に、私のいのちというのは浄土に生まれるいのちであったと、仏教徒であれば成仏をするためのいのちであったんだということにね、得心がいく、頷いていける。

そういう私自身もお寺に生まれただけで、30歳くらいまで全く仏縁なんかなかったですよ。たまたま機会をいただいて、自分も僧侶になって、若くしてお寺の住職になって、それから40年くらいずっとご門徒と一緒に歩んできてね。自分が70歳くらいに近づいてくるとね、ああ、もうそんなに人生先ないだろうなということをね、健康面や様々なところから実感します。

僕はなんとまあ、たまたまですけどお寺に生まれ育って、三男坊やから実家の跡継ぎではなかったんですけど、縁があって自分も、父や兄たち、祖父たちのように真宗のお坊さんになり、自分なりにご門徒と一緒に親鸞様が私に教えてくださった、勧めてくださった、ただ念仏してということをね、私はこの歳になってしみじみと心底、ありがたいところに生まれてきとったんやなということをこの頃よく感じます。

この先何年、娑婆でいのちがあるのかどうか分かりません。予想もつきませんけれども、自分なりにいろんな方と出会い、いろんな方々から教えをいただきながら、今自分が真宗門徒の一人、僧侶であると同時に門徒の一人ですよ。私も皆さんと何ら変わらん。真宗門徒の一人としてね、残された人生の中でね、毎日が南無阿弥陀仏と、お念仏とともに往生浄土、到彼岸という浄土に往生をとげていく。そっちに歩みを進めている、一歩一歩かなということを噛みしめながら、この先を歩んでいけたらなと思います。そういうことが、この度のお彼岸で感じさせていただいたことであります。

 

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
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