浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信偈」を、なるべく分かりやすく読み進めています。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。
【正信偈を学ぶ】シリーズ。第27回目の今回は、十二光の中の超日月光(太陽や月に超えすぐれた光)について、味わっていきたいと思います。そして、今回が十二光の部分の最後になりますので、十二光をまとめて概観したいと思います。
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◆正信偈の偈文(げもん)
ではまず、今回の内容に当たる部分の「正信偈」の本文と書き下し文、意訳を見てみましょう。
◆超日月光
さて、超日月光とは、太陽や月に超えすぐれた光のことです。
この世での光の代表と言えば、太陽の光であり、月の光ではないでしょうか。太陽の光は、遠く離れたところからこの地球を照らし、地球上に生命を育んでいます。月の光は、美しく夜を照らしています。
また、太陽の光が輝く晴れた日には、心も晴れ晴れとして前向きになったり、澄んだ夜空の月を見上げては、心が癒されることもあります。
超日月光とは、こうしたこの世での光の代表ともいえる太陽や月の光よりも、超えすぐれた光であると表現されています。
それはなぜかというと、阿弥陀仏のはなつ光明は、無明の闇を照らし、我々の人生を心豊かなものへと転じていくようなはたらきがあるからだと言われます。
◆無明の闇を照らす
無明とは、愚かさとも、真理に無知なこととも表現されます。
言葉を換えて言えば、無明とは、自分がなぜ悩み苦しんでいるのかも分からず、自分や周囲のものを傷付けながら、迷いながら生きている状態を表す言葉です。
阿弥陀仏のはなつ光明は、そのような我々の無明の闇を照らし、悩み苦しみ迷いの原因に気付かせ、悩み苦しみ迷いの中にも、人生を心豊かに感じられるものへと転じていくはたらきがあると言われます。
そのような無明の闇を照らし、我々の人生を心豊かなものへと転じていくような阿弥陀仏の光明のはたらきを、超日月光という太陽や月に超えすぐれた光と表現されているかと思います。
そうした無明の闇を照らす阿弥陀仏の光明は、智慧の光明とも言われます。
親鸞聖人のつくられた和讃といううたには、このような言葉が記されています。
この言葉を意訳すると、このような意味になります。
このうたでは、阿弥陀仏の光明は、無明の闇を照らしてくださる智慧の光明であることが示されています。
また、別の和讃には、このような言葉が記されています。
この言葉を意訳すると、このような意味になります。
無明とは、自分がなぜ悩み苦しんでいるのかも分からず、自分や周囲のものを傷付けながら、迷いながら生きている状態を表す言葉でした。
阿弥陀仏のはなつ光明は、そのような我々の無明の闇を照らし、悩み苦しみ迷いの原因に気付かせ、悩み苦しみ迷いの中にも、人生を心豊かに感じられるものへと転じていくはたらきがあると言われます。
無明の生き方から、心豊かな生き方へと人生を転じていく。そうした阿弥陀仏の光明のはたらきを、智慧の光明とも、無明の闇を破るとも、表現されているかと思います。
そうした無明の闇を照らすことは、太陽や月の光にはできないことです。そのため、阿弥陀仏の光明のはたらきを、超日月光という太陽や月に超えすぐれた光と表現されているかと思います。
◆十二光
ここまで、十数回にわたり十二光について見てきました。今回の超日月光が、十二光の最後になります。そこで改めて、十二光をざっと概観しておきたいと思います。
一つ目の無量光は、量ることのできない光でした。
二つ目の無辺光は、いきわたらないところのない光のこと。
三つ目の無礙光とは、何ものにもさえぎられることのない光のことでした。
四つ目の無対光は、比べるもののない光のこと。
五つ目の炎王光は、「正信偈」では光炎王となっていますが、炎の中の王のように、最高の輝きをもつ光のことでした。
六つ目の清浄光は、清らかな光のこと。
七つ目の歓喜光は、喜びを与える光のこと。
八つ目の智慧光は、まどいを除き智慧を与える光のことでした。
九つ目の不断光は、常に照らす光のこと。
十ヶ目の難思光は、思いはかることができない光のこと。
十一ヶ目の無称光は、説き尽くすことのできない光のことでした。
そして最後の十二ヶ目の超日月光は、太陽や月に超えすぐれた光のことです。
これら十二光という十二の光とは、別々のものではなく、阿弥陀仏のはなつ光明のすぐれたさまを、色々な側面から讃えているものです。
阿弥陀仏は、こうした様々なお徳をそなえた仏様であるということが、この十二光を通して分かります。
◆光に照らされる
また、光に照らされるとはどういうことかというと、具体的には、阿弥陀仏の救いの教え、お念仏の教えに出遇うということです。
それは言い換えれば、仏法に触れるご縁、仏法を学ぶご縁といった仏縁をいただくということです。
阿弥陀仏の光明とはどういうものか。阿弥陀仏の光明に照らされるとどうなるのか。
光明と言われると、抽象的で分かりづらいかもしれませんが、阿弥陀仏の光明を、仏法や仏縁という言葉に置き換えてみると、より具体的になります。
つまり、「阿弥陀仏の光明とはどういうものか」「阿弥陀仏の光明に照らされるとどうなるのか」という問いは、そのまま「仏法とはどういうものか」「仏法を学ぶご縁をいただくとどうなるのか」という問いともなります。
そしてこの問いは、とても重要な問いだと思います。
阿弥陀仏の救いや、お念仏の教え、この阿弥陀仏の光明といったことを、自分とは関係のないものとして聞いても、あまり意味がありません。
そもそも仏法とは何なのか。仏縁をいただくことが、この人生にどういう意味をもっているのか。仏法に触れ、仏法を学ぶご縁をいただくことで、人生がどのように変わっていくのか。
そのように、お念仏の教え、阿弥陀仏の光明のことを、自分の人生に関係のあることとして受け取っていくことが、とても重要です。
阿弥陀仏の光明とはどういうものか。阿弥陀仏の光明に照らされるとどうなるのか。仏法とはどういうものか。仏法を学ぶご縁をいただくとどうなるのか。
それは、今回の超日月光でお話した言葉で言えば、仏法とは、我々が抱える悩み苦しみ迷いの原因に気付かせるものです。
そして、仏縁をいただくことで、悩み苦しみ迷いの中にも、人生が心豊かに感じられるものへと転ぜられていくということが言えるでしょう。
十二光の一つ一つは、阿弥陀仏の光明のすぐれたさまを表し、阿弥陀仏がもつお徳を讃えたものでした。
しかし、その阿弥陀仏の光明は、阿弥陀仏が阿弥陀仏自身のために、はなっているものではなくて、悩み苦しみ迷う我々一人一人のために向けられたものです。
この人生に、悩み苦しみ迷うものたちを、仏法、仏縁というお念仏の教えに出遇わせ、悩み苦しみ迷いの中にも、人生を心豊かに感じられるものへと転じていきたい。
十二光の一つ一つは、阿弥陀仏がどういう仏様であるかを表すだけでなく、悩み苦しみ迷うものたちを救いたいという阿弥陀仏の願いがこもった十二光でもあるわけです。
「正信偈」の超日月光の後に、「照塵刹 一切群生蒙光照」という言葉があります。
「照塵刹」とは、書き下し文にすると、「塵刹(じんせつ)を照らす」という言葉です。塵刹とは、この世界のことです。
阿弥陀仏の光明は、この世界を照らしているという意味の言葉になります。
続いて「一切群生蒙光照」とは、書き下し文にすると、「一切の群生(ぐんじょう)、光照を蒙(かぶ)る」という言葉です。
一切の群生とは、生きとし生けるもののことで、これは我々のことを指しています。そして、光照を蒙るとは、その生きとし生けるものである我々が、阿弥陀仏の光明によって照らされているという意味です。
「照塵刹 一切群生蒙光照」を意訳すると、「阿弥陀仏の放つ光明は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけている」という意味になります。
先ほど申したように、阿弥陀仏の光明は、悩み苦しみ迷う我々一人一人のために向けられたものです。我々と関係のないものではないんですね。
「照塵刹 一切群生蒙光照」。「阿弥陀仏の放つ光明は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけている」。
そう「正信偈」にあるように、この仏縁に遇わせていただいている我々は、いままさに、阿弥陀仏の光明に照らされているのでしょう。
この人生に、悩み苦しみ迷うものたちを、仏法、仏縁というお念仏の教えに出遇わせ、悩み苦しみ迷いの中にも、人生を心豊かに感じられるものへと転じていきたい。
そうした阿弥陀仏の願いと、その願いのままに、阿弥陀仏が救おうとはたらきかけてくださっていることを、十二光という様々なお徳をもった阿弥陀仏の光明で、表現されているかと思います。
◆
いかがだったでしょうか。今回は、十二光の中の超日月光(太陽や月に超えすぐれた光)についてと、十二光をまとめて概観していきました。
十数回にわたりましたが、これで十二光の部分は終わりとなります。次回は、「正信偈」の次の部分に進んでいきたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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