今回は、お寺にお参りをされている方々の声から、お寺とはどういう場所なのかについて、考えてみたいと思います。
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先日テレビ番組で、とあるお寺で行われている仏教講座の様子が取り上げられていました。
その番組の中で、お年の頃は、おそらく60代後半くらいの女性が、このようなことをおっしゃっていました。
「私は、日頃は心が穏やかな時ばかりではありません。でも、お寺にお参りをすると、心が安らぎます」。
そのようにおっしゃっていました。
その女性は、ご自宅でお母様の介護をされているそうです。女性が60代後半くらいですから、お母様は90代くらいでしょうか。
実のお母様か、夫のお母様かは分かりませんが、ご自宅で介護をされているとのことでした。
また、お母様の介護に加えて、お孫さんを預かることもあるそうです。
近くに娘さんなどがおられるのでしょうか。お子さんのお仕事の関係などで、お孫さんを預かる時もあるのでしょうね。
このお母様の介護に加えて、お孫さんを預かる時。つまり、介護に育児が加わった時に、家の中がぐちゃぐちゃになって、その女性は心が穏やかではなくなるとおっしゃっていました。
心穏やかに接しなきゃいけないと思いながら、母にきつく言ってしまうことがあると言います。
その後に、「なんで私は、母にそんなにきつく言ってしまったんだろう」と思って、苦しくなるそうです。
介護と育児を同時並行でおこなうことを、「ダブルケア」と言うそうですが、その大変さは並大抵のものではないでしょうね。
介護も育児も大事なことですが、一人の方に負担がかかりすぎると、とても苦しくなってしまいますよね。
私もその方と同じ状況になれば、心の余裕はなくなると思います。その方が、「日頃は心が穏やかな時ばかりではありません」とおっしゃるのも頷けます。
その女性は、そのような介護や育児をされているそうですが、その中でも、お寺にお参りをする時間が取れる時もあるのでしょうね。
そうしてお寺にお参りをする時に、その方は心の安らぎを感じるそうです。
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別のご年配の女性ですが、その方は、「お寺にお参りをすることは、私にとって心の洗濯です」とおっしゃっていました。
日頃、もやもやとした感情を抱えている時も、お寺にお参りをすると心が洗われた気持ちになるそうです。
「心の洗濯」という、「心の安らぎ」に近いものを、その方はお寺に感じておられるのでしょうね。
また別の方は、お寺にお参りすることをこのように表現されていました。
「私は、お寺は心の重荷を置いていく場所だと思っています。心の重荷を降ろして、また日常生活に戻っていく。私にとって、お寺とはそういう場所なんです」。
そうおっしゃっている方もいました。
こうした方々の声から見えてくるのは、お寺とは、心の安らぎを感じたり、心が洗い流されたり、心の重荷を置いていくような場所であるということが言えそうです。
皆様にとって、お寺とはどんな場所でしょうか。
こうした意見ではない意見もあるかと思います。ですがもし、一定数の方に、「お寺とは心の安らぎを感じる場所である」と思っていただけているのであれば、そうなるように場を維持整備したり、お参りをしやすいようにお寺を開くことは、お寺の役割でもあると思います。
最初に紹介した介護と育児をされている女性は、こうもおっしゃっていました。「私にとってお寺とは安らぎを感じる場所で、私にはその場所が必要なんです」。
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さて、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、仏様の教えに出遇った喜びを、このように表現されています。
弘誓とは、阿弥陀仏という仏様の大きな誓い、願いのことです。我々のことを思う慈悲の心と言っていいかと思います。
その仏様の願いの大地に心の根をはっていくことを、「心を弘誓の仏地に樹て」という言葉で表現し、喜ばれています。
また、「念」と書いて、ここでは「おもい」と読みますが、これは私たちの日頃抱く様々な思いや感情と言ってよいかと思います。
仏様の大地に心の根をはり、思いはからいが流されていく。そうしたことを、仏様や仏法に出遇った喜びとして、親鸞聖人は表現されています。
私たちは、日々の生活の中で、悩みや苦しみ、怒りや不安や葛藤など、様々な思いを抱えながら生きています。
大抵は、そうした思いをやりすごしたり、適当にあしらいながら過ごしているのではないでしょうか。そうでないと、日々を過ごすことも難しくなりますからね。
しかし時には、自分ではどうしようもできない現実に直面することもあります。例えば、老いや病や死などは、自分ではどうしようもできない現実の代表格です。また、人間関係もそうでしょうね。
そうした、老いや病や死、人間関係などに代表される、自分ではどうしようもできない現実に直面した時に、私たちの中に湧いてくる思いをどのように消化すればよいのか。
また、これまで頼みとしてきたもの(例えば若さや健康や生きがいといったものなど)を失って、これからはいったい何を心の依りどころとして生きていけばよいのか。こうしたことは、私たちの人生での大きなテーマです。
親鸞聖人は、日々様々に湧いてくる苦しみや迷いを抱えながらも、本当の依りどころとなっていくような教えや世界に出遇えた。そうした喜びを、こうした言葉で表現されているように感じます。
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宗教学者の阿満利麿(あまとしまろ)先生という方がおられます。その阿満先生が、NHKのこころの時代という番組の中で、このようなことをおっしゃっていました。
阿満利麿先生は、番組の中でこのようにおっしゃっていました。
繰り返しますが、私たちは日々の生活の中で、悩みや苦しみ、怒りや不安や葛藤など、様々な思いを抱えながら生きています。大抵は、そうした思いをやりすごしたり、適当にあしらいながら過ごしているのではないでしょうか。
しかし時には、自分ではどうしようもできない現実に直面することもあります。
老いや病や死、人間関係などに代表される、自分ではどうしようもできない現実に直面した時に、私たちの中に湧いてくる思いをどのように消化すればよいのか。
また、これまで頼みとしてきたものを失って、これからはいったい何を心の依りどころとして生きていけばよいのか。こうしたことは、私たちの人生での大きなテーマです。
親鸞聖人は、日々様々に湧いてくる苦しみや迷いを抱えながらも、本当の依りどころとなっていくような教えや世界に出遇えた。そうした喜びを、このような言葉で表現されているように思います。
そして、阿満利麿先生の言われるように、仏教とは、人間の根本的な苦しみや不安を解決するための智慧を与える教えである。
そうした仏教的な世界観や背景があるからこそ、人はお寺にお参りをする時に、安らぎを感じたり、心が洗われるような気持ちになったり、心の重荷を置いていけると思ったりするのではないか。そんなことを思いました。
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今回は、お寺にお参りをされている方々の声や、また親鸞聖人の言葉や仏教を通して、お寺とはどういう場所なのかについて、考えてみました。
皆様は、どのようなことを感じられたでしょうか。また是非ご感想もお聞かせください。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼一口法話シリーズ
一口法話 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)
南無阿弥陀仏