【幸せを育む法話】第21回 親鸞聖人に学ぶ「死を受け容れるには」

この内容は、2021年3月31日におこなわれたお寺のオンライン朝会での法話です。

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改めて皆様、本日もようこそお参りくださいました。「ヘルシーテンプル@オンライン」信行寺版、本日もご参加いただきありがとうございます。

「幸せを育む法話の時間」ということで、法話を通して、皆様と共に、人生や幸せについて考えさせていただいております。

本日は、「死を受け容れるには」というテーマについて、考えてみたいと思います。

◆死するいのち

さて、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人は、西暦1100年代、1200年代の鎌倉時代を生き、90歳の生涯をかけ、仏道を歩まれた方でした。その親鸞聖人の言葉が記されているとされる『歎異抄』には、このような言葉があります。

【原文】
なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐいるべきなり。

【意訳】
いかに名残惜しく思おうとも、この世での縁が尽き、力なくいのち終えていく時に、浄土という仏様の国にまいるのです。

◆名残惜しさ

我々は、この世を生きているわけですから、その中で家族をはじめとした人とのつながりや、築いてきたもの、大切にしてきたものがあります。

死を間近に感じると、そうしたものと別れていかなければならないわけですから、名残惜しさや、寂しさ、悔しさ、怒り、恐怖といった様々な感情、葛藤を抱くのも不思議ではありません。「もっと生きていたい」という思いや、ご家族がおられる方は、「子どもの将来が心配だ」「孫の成長をもっと見ていたい」など、未練や名残惜しさが募るのも、ある意味当然といえます。

親鸞聖人の遺言とも言われる、最晩年に書かれたお手紙の中には、我が子、家族を案じる言葉が綴ってあります。死に対する毅然とした態度だけでなく、気がかりが感じられる文面です。

当時の僧侶では珍しく、公に家庭を持たれ、妻子とともに人生を歩まれた親鸞聖人だったからこそ、『歎異抄』の「なごりをしくおもへども」という言葉が出てくるのかもしれません。

◆力なくいのち終える

また我々は、病気や高齢になれば、段々と弱っていき、『歎異抄』の言葉のように、まさに力なくいのち終わっていくこともあるでしょう。

80代90代の方のお通夜、ご葬儀をお勤めする機会がありますが、よくここまでと思うほど、精一杯生き抜かれたことが、お顔やお身体を通して感じられます。

目や頬は落ち込み、かつてのふっくらとした感じはありません。しかしそのお姿に、その方の人生が現れていて、とても尊くも感じられます。「よく頑張ったね」、「ありがとね」。そう送りだすご遺族の言葉には、感謝と尊敬の念が込められていると感じます。

人の亡くなり方は一様ではありません。しかし、いかに名残惜しく思おうとも、この世での縁が尽きた時に、力なくいのち終えていきます。

◆浄土へまいる

いのち終えていく時に、我々はどうなるのでしょうか。

どこか往く世界があるのではないかとか、死んだ先は真っ暗闇だとか、人や文化によって見解は異なります。 そして、実際のところ、亡くなってみないことには、我々には本当のところは分からないことでもあります。

浄土真宗においては、『歎異抄』の親鸞聖人のお言葉のように、この世でのいのち尽きれば、阿弥陀如来のお浄土へと往き、新たな仏としての生をいただくと味わってまいります。阿弥陀如来のお浄土へと往き生まれることを往生(おうじょう)と言い、仏となることを成仏と言います。

本願寺派の僧侶、梯實圓(かけはしじつえん)和上(わじょう)のお言葉で、一言一句正確ではないかもしれませんが、このような内容の言葉を伺ったことがあります。

この世に生まれることを誕生と言う。
この世でのいのち尽き、お浄土へ往き生まれることを往生と言う。
こう考える人には、死という概念がありませんね。

繰り返しますが、死後どうなるかは、人によって見解が異なります。そして実際どうかは、亡くなってみないことには分かりません。

ただ、どこか往く世界があるのではないか、また生まれて往く世界があるのではないか、先だって往かれた方がおられる世界があるのではないかと思えることは、
死への恐怖や別れの悲しみを和らげ、救いにもなることではないかと思われます。

◆倶会一処

70代の男性で、末期癌の宣告を受けた方がおられました。「悔しい。もっと生きたかった」と、涙を流しながら、絞り出すようにおっしゃいました。

そしてまた、「でも、大好きだったおじいちゃんやおばあちゃんに、また会えると思うと心が少し安らぎます」ともおっしゃいました。その男性の方は、おじいちゃん、おばあちゃん子だったそうですね。そして、歳を重ねるほどに、昔子どもの頃に、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がってもらったことが思い出され、懐かしく感じられてきたそうです。

ともにまた会う世界があることを、倶会一処(くえいっしょ)とも申します。

【原文】
なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐいるべきなり。

【意訳】
いかに名残惜しく思おうとも、この世での縁が尽き、力なくいのち終えていく時に、浄土という仏様の国にまいるのです。

こうした言葉は、自らの死を身近に感じることがなかったり、大切な方との死別を経験しない間は、中々自分事になりにくいものでしょう。

しかし、自分が重い病気になった時、大切な方が亡くなった時など、死の現実が眼の前に現れた時に、生々しい響きをもって、自分事として感じられることがあることでしょう。そして、死を感じる時に、この世への名残惜しさや、寂しさ、悔しさ、怒り、恐怖といった様々な感情、葛藤を感じることもあります。

その時に、どこか往く世界があるのではないか、また生まれて往く世界があるのではないか、先だって往かれた方がおられる世界があるのではないか。そう思えることが、死への恐怖や別れの悲しみを和らげ、救いにもなることがあるように思われます。

大丈夫。私にまかせなさい。そんなあなたのために、お浄土を用意しましたよ。そのように喚びかけ、はたらきかけ続けてくださる阿弥陀如来という仏様の温もりに包まれる時、おまかせいたします、南無阿弥陀仏と、感謝と喜びのお念仏がこぼれ落ちてきます。

浄土真宗は、そのような価値観、世界観を大切に受け継いできた宗派でもあります。

「幸せを育む法話の時間」ということで、本日は「死するいのち」というテーマで、お話をさせていただきました。この後、皆様にもご感想をいただきつつ、対話をしてまいりたいと思います。

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最後までご覧いただきありがとうございます。合掌

福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)

神崎修生

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