「親鸞聖人の生涯」を見ています。
「親鸞聖人の生涯」を通して、浄土真宗の教えに触れるご縁となったり、またご自身の人生についても振り返るようなご縁となれば幸いです。
「親鸞聖人の生涯」の前回は、「法然聖人とお念仏の教えとの出遇い」についてご紹介しました。
親鸞聖人の人生は、法然聖人とお念仏の教えとの出遇いによって転換され、決定づけられていったことを、前回見ていきました。
今回は、親鸞聖人が法然門下におられた中での喜びの出来事について見ていきたいと思います。
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◆法然門下時の親鸞聖人
親鸞聖人は、29歳の時に法然聖人の門下に入られ、お念仏の教えに帰依されました。
親鸞聖人が法然聖人の門下生として過ごされたのは、5年と少しの期間でした。
親鸞聖人は90歳の生涯を送られましたので、その間の5年とは、それほど長い期間ではありません。
しかし、その5年間は非常に濃密で、その後の人生を充実させるほどの意味をもった時間だったとも言われています。
親鸞聖人が最も尊敬をした方が、法然聖人であると言っても過言ではありません。
この5年の間には、門下生として尊敬する法然聖人と時間を共にする機会も多くあったことでしょう。
また、法然聖人に直接教えを受ける機会も多かったことと思われます。
尊敬する方に直接教わり、尋ねることができる環境にいることは、とても幸せなことではないでしょうか。
そして、親鸞聖人は法然聖人の考え方や仏道を歩む姿に、心が共鳴するような経験もされていたことと思われます。
そうした方の近くにいられた5年間というのは、非常に濃密で、その後の人生を充実させるほどの意味をもった時間だったと言われても頷けます。
例えば、私たちで考えてみると、どんな感じでしょうか。
自分が最も尊敬する方と会っただけでも、一生の思い出になるのではないでしょうか。
緊張もするかもしれませんが、しかし、その出会いは心に深い喜びを感じる、一生ものの経験ではないかと思います。
そんな人生の師とも言える法然聖人のもとで、親鸞聖人はお念仏の教えを聞き、尋ねていかれたのでした。
◆選択本願念仏集の書写
そんな喜びの多かったであろう法然門下での時間の中で、特に親鸞聖人が喜ばれた出来事が2つあったと言われています。
1つは、法然聖人の著書である『選択本願念仏集』の書写を許されたことです。
『選択本願念仏集』(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)とは、『選択集』(せんじゃくしゅう)とも言われます。
仏道に様々な修行方法がありますが、その様々な行の中で、南無阿弥陀仏と念仏を称えることが、阿弥陀仏のお心に最もかなった方法であり、その時代の人に最も適した方法であることを論証された書物が『選択集』でした。
南無阿弥陀仏とお念仏を称える行為は、多くの人にとっておこないやすいものです。
多くの人にとっておこないやすいということは、日々の生活に追われている人でも、困窮している人でも、老若男女を問わず、誰もが等しく救われていく道が開かれたことでもありました。
難易度が高く、限られた人が対象となってきた仏道が、法然聖人の説くお念仏の教えによって、大衆に開かれていく転換点になったのですね。
そのため、多くの人が救いを求めて、法然聖人のもとに集まるようになりました。
しかし、仏教の中に新しい潮流が生まれ、そこに人が集まれば集まるほど、危険視されるようにもなります。
そしてまた、南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、誰しもが救われていくという教えは、念仏を称えていれば何をしても良いというような誤った解釈を生んだり、他宗で重視している行をないがしろにするような風潮を生む可能性もはらんでいました。
実際、『選択集』が記された数年後、法然門下への批判や反発が強まり、弾圧へとつながっていきます。
『選択集』を記した時から、法然聖人はこうした危険性を感じておられたのでしょう。
『選択集』の最後には、このように記されています。
この言葉にあるように、法然聖人はお念仏の教えの要が記された『選択集』の公開を禁じ、その教えを正しく理解できる門弟のみに、密かに伝授されたと言われています。
『選択集』の書写を許されたのは、数多くいた門弟の中でも10名ほどの限られた門弟のみでした。
そして、その限られた門弟のうちの一人が、親鸞聖人でした。
それはつまり、親鸞聖人は正しくお念仏の教えについて理解していると法然聖人が認めていたという証でもあります。
また、不必要に他宗を刺激したり、民衆に混乱を生むようなことはしないと信頼されてもいたのでしょう。
親鸞聖人は、元久二年(1205年)に、法然聖人から『選択集』の書写を許されました。
法然門下に入ってから、わずか4年しか経っておらず、若干33歳の親鸞聖人が書写を許されたのは異例だったとも言われています。
法然門下での出来事の中で、親鸞聖人が特に喜ばれたことの1つは、法然聖人の著書である『選択本願念仏集』の書写を許されたことでした。
ちなみに『選択集』は、九条兼実(かねざね)の求めによって著されたと伝わっています。
九条兼実といえば、以前に摂政や関白を務めた、政治の中枢にいた人物です。
この時代の摂政や関白と言えば、相当な権力を持っています。
九条兼実は、法然聖人のことを尊敬し、お念仏の教えに帰依された人物だったそうですが、その九条兼実の求めとあっては、法然聖人も『選択集』を記すことを断るのは難しかったのかもしれません。
法然聖人は、お念仏の教えを広めることは積極的にされていましたので、『選択集』を記すこともその一環と捉えておられてもおかしくはありません。
しかし、『選択集』を記すことが、後に法然門下に対する批判や反発を招くことになることを、法然聖人は感じておられたのかもしれません。
喜んで記すというよりは、「要請があったので記した」と『選択集』には書かれています。
そして、「一度この書物をご覧になった後は、壁の底に埋めて、窓の前などに残さないように」と注意書きされたのも、こうした懸念があってのことと思われます。
しかし、九条兼実の要請があり、『選択集』が記されたことで、お念仏の教えが体系的にまとめられました。
それは、その後の浄土宗や浄土真宗の教義的な礎を築くことにもつながっていきます。
◆法然聖人の真影の図画
さて、法然門下での出来事の中で、親鸞聖人が特に喜ばれたことの2つ目は、法然聖人の真影の図画を許されたことでした。
真影(しんねい)とは、人の姿を描いた肖像画のことです。影像(えいぞう)や御影(ごえい)とも言われます。
親鸞聖人が法然聖人の真影の図画を許されたという出来事から分かるのは、法然聖人の真影が当時既に描かれていたということです。
真影は、その人に対する尊敬の念を表す目的などから描かれることがあったそうです。
こうしたことから、法然聖人は多くの門弟から尊敬されていたことが見えてきます。
また、仏教において真影の図画を許されるということは、教えをしっかりと理解し、継承していくのに相応しい人物であるという証拠として重視されていたようです。
法然門下において、真影の図画を許されたことは、『選択本願念仏集』の書写を許されたことのように特別なことだったようです。
こうしたことから、法然聖人は親鸞聖人のことを、お念仏の教えの継承者の一人として、信頼し評価していたことが伺えます。
とにかく、親鸞聖人は法然聖人の真影の図画を許されます。
元久二年(1205年)4月14日、親鸞聖人は『選択集』の書写が完成したため、法然聖人に面会をしてそのことを報告します。
その同じ日に、親鸞聖人は法然聖人の真影をお預かりして、図画することを許されたそうです。
それから、4ヶ月半ほどの時間をかけて、親鸞聖人は真影を図画し、再び法然聖人に面会をして報告されます。
親鸞聖人の書かれた『選択集』と真影は共に、法然聖人が直筆で、そのタイトルや仏教の言葉などを添え書きされています。
親鸞聖人は、『選択集』の書写と、真影の図画を許されたことをとても喜び、著書にこのように記されています。
このように親鸞聖人は、法然門下での出来事の中で、『選択集』の書写と真影の図画という二つのことを特に喜ばれていたようです。
「喜びの涙をおさえて」という表現にあるように、これらのことがとても嬉しかったことが伝わってきます。
◆
いかがだったでしょうか。
親鸞聖人が法然聖人の門下生として過ごした5年間は、『選択集』の書写や真影の図画といった出来事もあり、非常に濃密で、その後の人生を充実させるほどの意味をもった時間だったとも言われています。
しかし、そうした喜びの中にも、法然門下を取り巻く状況は少しずつ悪化していきます。
奈良の興福寺や比叡山延暦寺などの学僧を中心に批判や反発が強まり、ついには弾圧へとつながっていきます。
そうしたことは、次回の「親鸞聖人の生涯」で見ていきたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼【基礎から学ぶ浄土真宗】シリーズ
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