仏壇には、「仏様に手を合わせる場所」という「仏教的な要素」と、「先立たれた方を思う場所」という「先祖教的な要素」とが交ざり合っています。

日本の仏壇は、「仏教と先祖教の二重構造」として形成されている。

こうした考え方について、前回ご紹介をしました。

この考え方は、特定の宗派や浄土真宗の考え方というわけではありません。

ですが、仏壇について、仏教の教義的な側面からだけでなく、仏壇文化が形成された歴史や、その時代時代における人々や遺族の心情なども含めて考えていくと、このような見方ができるかと思います。

長い歴史の中で、仏教や仏様を大切にする心と、亡き方を大切にする心とが交り合い、仏壇や仏壇文化が形成されてきました。

「仏壇の由来や成り立ち」について知ることで、「仏壇とは何か」がより明らかになります。

特に現代の日本では、仏壇がない家庭で育つ方や、お寺とのご縁が少ない方も増えています。

だからこそ今、改めて「仏壇とは何か」について考えることも大切なことのように思います。

「仏壇とは何か」を知ることで、仏様に手を合わせる心や、追悼の思いも高まることではないでしょうか。

そこで前回から、「仏壇の由来や成り立ち」について概観しています。

今回は特に、仏教的な側面から「仏壇の由来や成り立ち」をみていきたいと思います。

「仏壇の由来や成り立ち」に関して、仏教的な側面からだけでも、さまざまな要因が考えられます。

なかでも今回は、「仏塔信仰と仏像信仰」「持仏と阿弥陀仏信仰」「蓮如上人の名号授与」という三つの視点からみてみましょう。

▼動画でもご覧いただけます。

◆仏塔信仰と仏像信仰

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さて、仏壇の起源は、仏塔信仰にまでさかのぼって考えることができるという見方があります。

仏塔とは、もともとストゥーパとも言われ、お釈迦様の遺骨(仏舎利)が納められているものが代表的です。

仏教の開祖であるお釈迦様が入滅された後(亡くなられた後)、信者たちを中心にお釈迦様のご遺体は火葬されます。

そして、遺骨は八つに分骨をされます。

お釈迦様の遺骨(仏舎利)をいただいた信者たちは、それぞれの国や地域にその遺骨を安置し、そこに仏塔をつくったと言われています。

お釈迦様の遺骨が納められた仏塔は、お釈迦様なき後もお釈迦様を感じられるものとして、礼拝や信仰の対象となっていきます。

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そして、お釈迦様が入滅されてからしばらくして現れたアショーカ王は、お釈迦様の遺骨を取り出し、さらに分骨をして、各地に仏塔を建てました。

お釈迦様を礼拝できる場所が、さらに複数の場所にできたのですね。

アショーカ王によって、仏教はインド亜大陸や周辺の国々にも伝わり、お釈迦様を礼拝供養する文化が広がっていきます。

また、お釈迦様が入滅されてから数百年の間は、仏像はつくられていませんでした。

現代の我々からすると、仏像があることが当たり前のように感じられますが、この時代にはまだ仏像がなかったのですね。

ですので、人々にとっては、仏塔が仏の存在を象徴するものであり、礼拝や信仰の対象となっていました。

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現代の仏壇もまた、仏様へ礼拝、信仰する場所です。

仏様を礼拝し、信仰する場所であるという点が、仏塔と仏壇に共通するところです。

こうしたことから、間接的にではありますが、仏壇の起源を仏塔信仰にまでさかのぼって考える見方があります。

ちなみに、初期の仏塔は土を丸く盛った素朴なものだったのではないかと言われています。

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それが後には、サーンチーに代表されるような大きな仏塔になったり、また仏教がインドからガンダーラ、中国、朝鮮半島、日本へと伝わる過程で、仏塔も石や木を用いた多層式の塔の形などに変化していきます。

日本のお寺にも、仏塔があります。例えば、法隆寺の五重塔などが有名です。

お釈迦様の遺骨の量には限りがありますので、仏舎利の代わりに、宝物(ほうもつ)や経典、高僧の遺骨などを納めて、仏塔としているところもあります。

名古屋市にある日泰寺(にったいじ)の仏塔には、インドで発掘をされ、タイを通じて寄贈されたお釈迦様の遺骨が安置されています

▼覚王山 日泰寺

公式│覚王山 日泰寺│お釈迦様が眠るお寺│愛知県名古屋市お釈迦様の御真骨が眠る日本唯一のお寺/タイ国国王様から贈られた釈尊金銅佛をご本尊とする日タイ友好の象徴/日本仏教徒超党派でwww.nittaiji.or.jp
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次に、仏壇の由来や成り立ちは、仏像信仰にまでさかのぼって考えることができるという見方もあります。

先ほども触れましたが、お釈迦様が入滅された後、数百年の間は、仏像はつくられませんでした。

お釈迦様は尊い存在であり、そのお姿を直接的に表現することは恐れ多いということもあったようです。

仏足石(ぶっそくせき)や菩提樹、法輪(ほうりん)といった印で、お釈迦様の姿を間接的に表現されることはありましたが、仏像などで直接的に表現されることはありませんでした。

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しかし、紀元一世紀頃、現在のパキスタンやアフガニスタン付近のガンダーラ地方や、インドのマトゥラーといった場所で、お釈迦様の仏像や彫刻がつくられるようになります。

そして、仏像は仏塔と同じように礼拝や信仰の対象になっていきます。

仏像はお釈迦様のものだけではなく、阿弥陀仏などの様々な仏様や菩薩などの像もつくられるようになりました。

そして、仏像を壇の上に安置したり、お香やお花をお供えするための仏具が用いられるようになるなど、仏様を飾る荘厳(しょうごん)が次第に整えられていきます。

また、仏像を囲うようにしてつくられた石窟寺院や、仏殿、本堂などの建築物もつくられるようになりました。

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石窟寺院とは、岩山をけずって礼拝施設や仏像などをつくった寺院です。

インドのアジャンターや、エローラなどが有名です。

仏殿は、日本では奈良の東大寺の大仏殿が有名ですね。

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浄土真宗では、阿弥陀仏を御本尊として安置したお堂は、本堂と言われることが多いです。

本山の本願寺では、阿弥陀堂と言っています。

このように、仏像信仰の始まりと共に、時代が経過するにしたがって、こうした仏像を安置するための建築物や、仏像を飾るための荘厳が整えられていきます。

こうした建築物や荘厳が、現在の寺院の本堂のもとになっています。

仏壇は、寺院の本堂内陣の構造をもとにしてつくられていました。

そして、本堂などの寺院建築や荘厳は、今みてきたように仏像信仰から発展しています。

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仏像信仰から発展して寺院建築となり、やがてそれが家庭内に取り入れられて仏壇となった。

そうした経緯を考えると、仏壇の由来や成り立ちは、仏像信仰にまでさかのぼって考えることができるということになります。

◆持仏と阿弥陀仏信仰

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次に、仏壇の仏教的な由来と成り立ちについて、「持仏と阿弥陀仏信仰」の視点からみてみましょう。

日本に仏教が伝来して以降、国家や権力者などによって寺院が建立されていきます。

それと並行して、皇族や貴族を中心に、小さな仏像を身近な場所に置いたり、身につけたりして、個人や家単位で仏様に礼拝をするということがおこなわれ始めます。

個人や家単位でもつ小さな仏像のことを、持仏(じぶつ)と言います。

こうした持仏にみられるように、寺院に安置された仏像ではなく、個人や家単位で仏像を安置し、礼拝するというあり方がうまれてきました。

こうしたあり方が、仏壇の由来になっていると考えられています。

持仏は、厨子(ずし)という箱型の仏具に入れて安置される場合が多かったようです。

法隆寺に現存する橘夫人(たちばなぶにん)の阿弥陀三尊像とその厨子が有名です。

▼法隆寺
https://www.horyuji.or.jp/

厨子の中に仏像を安置し、それを自宅に置いて拝むというあり方は、確かに今の仏壇に通じるところがあるように思えます。

邸宅の一室を仏間やお堂にして、こうした持仏や厨子を安置する場合や、邸宅の敷地内に独立した持仏堂という建物を建てて安置する場合などがありました。

初期の頃は、仏間や持仏堂などを建てることができたのは、有力な皇族や貴族などに限られていました。

その後、持仏をもつ貴族が増えていきますが、それには末法思想や阿弥陀仏信仰の広がりが関係していたようです。

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末法思想とは、お釈迦様が入滅されてから時代が経過し、仏道修行をしてもさとるものはおらず、世の中はどんどんと乱れていくという考え方です。

永承七年(西暦1052年)より末法の世に入ったと、当時の日本では考えられていました。

この頃、実際に自然災害や疫病、紛争などが頻発し、「今は末法の世だ」と当時の人々が実感するほど混乱した時代が続いたようです。

そんな中、阿弥陀仏に救いを求める阿弥陀仏信仰が急速に広まっていきます。

平安時代の権力者である藤原道長の子 藤原頼通(よりみち)は、京都の宇治に平等院を建立します。

▼平等院

世界遺産 平等院【公式ページ】1052年、藤原頼通によって京都府宇治市に開かれた寺院で、鳳凰を屋上に戴く鳳凰堂(国宝)には仏師・定朝作の阿www.byodoin.or.jp

頼通は、この世に阿弥陀仏の極楽浄土を顕現させるべく平等院をつくり、自身も浄土へ往き生まれることを願ったと言われています。

父の道長も、阿弥陀仏の浄土へと生まれたいという願いは強く、晩年に出家をしたり、法成寺(ほうじょうじ)というお寺を建てた動機にもなったと考えられています。

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道長や頼通に代表されるように、阿弥陀仏信仰の高まりと共に、阿弥陀仏を持仏としてもつ貴族も増えていったようです。

そこから時代は少し下りますが、末法思想や阿弥陀仏信仰が民衆にまで広がる中で登場したのが、法然聖人であり、親鸞聖人でした。

また、平安時代から鎌倉時代にかけて、武士が登場し、武士の間にも持仏をもつ文化が広がっていきます。

室町時代には、持仏堂が次第に簡素化し、町人や農民の家にも仏像を安置する事例もあったようです。

こうした経緯があり、いよいよ江戸時代には仏壇が各家庭に置かれるようになりました。

このように、「持仏や阿弥陀仏信仰」が、「仏壇の由来や成り立ち」に影響を与えたと考えられています。

◆蓮如上人の名号授与

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さて、蓮如上人(れんにょしょうにん)の存在も、その後の仏壇文化の醸成に影響を与えたと言われています。

蓮如上人(西暦1415年~1499年)は、室町時代の方で、本願寺の第八代宗主です。

日本仏教において、本願寺教団は最大規模の教団であると言われていますが、その基礎を築いたのが蓮如上人であるとして、本願寺中興の祖とされています。

浄土真宗の仏壇では、中央に阿弥陀仏を御本尊として安置し、向かって右側に宗祖の親鸞聖人、左側に蓮如上人の掛け軸がかけられています。

それほどに、蓮如上人の功績は浄土真宗にとって大きかったと考えられています。

蓮如上人は、お念仏の教えが多くの方に伝わるようにと、様々な革新的取り組みをおこないました。

例えば、教えの要点を分かりやすく記した手紙を数多く書き、各地に送りました。

これは現代でいえば、本やブログ、動画などを使った伝道と言ってよいでしょう。

蓮如上人の記された手紙は後年、『御文章』(ごぶんしょう)としてまとめられ、今も頻繁に拝読をされています。

また、親鸞聖人が記された「正信念仏偈」と「和讃」を、毎朝夕に本願寺でとなえることを制定しました。

これは、僧侶や信徒が日常の勤行の中で、お念仏の教えをより身近に、そして深く味わい、信心を深めていくための取り組みであったと言ってよいでしょう。

この形が、現在の本願寺や、浄土真宗の各寺院、また門信徒にも受け継がれ、未だに「正信念仏偈」と「和讃」がとなえられています。

このように、お念仏の教えを広め、教団の基礎を築いた蓮如上人は、仏壇文化の成立にも大きな影響を与えました。

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それは、「南無阿弥陀仏」(なもあみだぶつ)の名号を、蓮如上人自らが筆を取り、数多く書いて信徒に授与したことです。

「私ほど多くの名号を書いたものはいないだろう」と蓮如上人自身が言われるほど、数多くの名号を書いて授与されました。

この当時は、まだ現在のように各家庭に仏壇はありません。

授与された「南無阿弥陀仏」の名号は、柱や床の間などに掛けられ、信徒の方々は名号を礼拝の対象とし、日々手を合わせたと言われています。

ここにも仏壇の原形をみることができます。

蓮如上人のこうしたはたらきかけにより、家庭に本尊を安置し、礼拝するという文化が、関西や東海、北陸地方などを中心に広まり、仏壇という形式へと受け継がれていったのでした。

いかがだったでしょうか。

今回は、仏教的な側面から「仏壇の由来や成り立ち」についてご紹介しました。

こうして振り返ってみると、様々な要因によってこんにちの仏壇が形づくられてきたことが分かります。

なかでも今回は、「仏塔信仰と仏像信仰」「持仏と阿弥陀仏信仰」「蓮如上人の名号授与」という三つの視点からみていきました。

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改めて言えるのは、仏壇とは仏教的な側面からいえば、「仏様を安置し、手を合わせる場所」であると言ってよいでしょう。

家庭に仏壇を置くということは、礼拝や信仰の対象となる本尊を安置し、手を合わせ、仏様を思うひとときを日常の中にもつことと言えます。

浄土真宗においては、阿弥陀仏という仏様が「あなたのことを抱き取り、決して見捨てはしませんよ」という願いを私たちにかけてくださっていることを思い、それを喜び、感謝していく場でもあります。

法話や書物などを通して、そうした阿弥陀仏の温かい慈悲の心を聞くときに、私たちは安心や温もりを感じたり、自然と手が合わさることがあります。

仏壇を自宅に安置し、阿弥陀仏を御本尊としてむかえるということは、家庭の中に安心や温もりを感じる、心の依りどころとなる場所ができるということでもあります。

特に現代の日本では、仏壇がない家庭で育つ方や、お寺とのご縁が少ない方も増えています。

だからこそ今、改めて「仏壇とは何か」について考えることも大切なことのように思います。

次回は、「仏壇の由来や成り立ち」について、先祖教的な側面からも概観しながら、改めて「仏壇とは何か」を考えてみたいと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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◇参照文献:
・『浄土真宗聖典』注釈版/浄土真宗本願寺派

https://amzn.to/2TA8xPX
・『浄土真宗辞典』/浄土真宗本願寺派総合研究所
https://amzn.to/3ha42oh
・『岩波仏教辞典』第二版/中村元他多数
https://amzn.to/3GUXUQc
・『仏塔をたずねて』/秋山正美

南無阿弥陀仏